第一の死

 …………………テ……


 どろどろに溶け崩れた世界の向こう側で、誰かが何かを叫んでいた。

 とても悲痛な声音だが、何を言っているのかは聞き取れない。それ以前に、私はセピア色の濁流に呑み込まれて、自分自身もバーナーで炙られたチーズのようにとろけてしまったような心地であった。


 五体の感覚は消失して、目に映るのはうねうねと蠢くセピア色の渦だけだ。頭の中身もぼんやりと霞んで、ただ誰かの悲痛な叫び声だけが延々とリフレインしている。宇宙空間に放り出されたような、母の胎内に引き戻されたような――そんな茫漠とした世界の中で、私はなすすべもなく圧倒的な力に翻弄され続けていたのだった。


 そんな不可思議な感覚が、いったいどれだけ続いたのか――

 気づくと私は、蒸し暑い土蔵の中でうずくまっていた。


 全身が、冷や汗でびっしょりと濡れている。私の肉体は急速に正常な感覚を取り戻しつつあったが、頭の中にはまだセピア色の残滓がちらついていた。


(今のは、なに……? 熱中症にでもなっちゃったのかな)


 私は深呼吸をして、不規則に暴れる心臓をなだめた。

 そして、自分の手もとに目を落とし――愕然とする。

 私はフォトフレームに収められた写真を握ったままであったが、そこに写し出されていたのは見も知らぬ女性の笑顔であったのだ。


 写真の色合いも鮮やかで、まったく褪色していない。シックな色合いをした振袖姿の、若くて美しい女性である。色が白くて、線が細くて、とてもたおやかなたたずまいであり、私などとは似ても似つかなかった。


「な、なんで? これは、どういうこと?」


 私は再び混乱しながら、ほとんど無意識に写真をひっくり返していた。

 フォトフレームの裏に、毛筆の細い文字でひとつの名前がしたためられている。

 由梨枝、二十歳――そこには、そのように記されていた。


(由梨枝って……自殺したっていう、父方のひいお祖母ちゃん?)


 私はますます混乱して、あてどもなく視線をさまよわせる。

 そしてそこに、さらなる異常を見出すことになった。


 母親の美沙子が、いなくなっている。

 そして、開け放しの扉からは昼下がりの白い陽光が差し込んでいたはずであるのに――扉の外には、夕焼けに染まった世界が顔を覗かせていたのだった。


(私はそんなに長い時間、気を失っていたの……? でも、母さんはどこに……?)


 私がそんな風に考えたとき、オレンジ色の風景が黒い人影に隠された。

 その人影が、れ鐘のような怒声を響かせる。


「手前! 何をしてやがる! この盗っ人め!」


 黒い人影がずかずかと土蔵に踏み入ってきて、私の二の腕をわしづかみにした。

 浅黒く日に焼けた、背の高い少年である。その飢えた犬みたいに光る目が、間近から私をにらみつけてきた。


「手前は川向こうの、蓮田の娘だな! どうして手前は、俺たちの家にしつこくつきまといやがるんだよ!」


 蓮田とは、確かに私の苗字である。母はこの野々宮の家を出た後、母方の旧姓に戻したのだ。

 しかし、こんな少年は見たことがない。それにそもそも、私は初めてこの土地に足を踏み入れたのだから、見知った相手などいるはずもなかったのだった。


「あ、あなたこそ、誰ですか? 私は、母さんに連れられて……」


「母さんだと? 親子そろって、盗っ人の真似事かよ! 来い! 駐在に突き出してやる!」


 少年に腕をつかまれた私は、力ずくで土蔵の外まで引きずり出されてしまった。

 そこに、「兄さん!」という悲痛な声が響きわたる。そちらを振り返った少年は、いっそう凶悪に両目をぎらつかせた。


「静夫……やっぱり手前が、こんな女を家に引き入れたんだな? まだ初七日も済んでねえのに、どういうつもりだよ?」


「ご、ごめんなさい。千夏ちかちゃんには、探し物を手伝ってもらってて……」


 新たに現れた少年が、ほとんど泣きそうな顔でそのように弁明した。

 こちらの少年とは対照的な、色が白くて小柄な少年である。とても繊細で整った顔立ちをしており――それは、さきほどの写真の女性とずいぶん似通っているように感じられた。


「ぼ、僕がトイレに行きたくなったから、千夏ちゃんをひとりにさせちゃったんだ。千夏ちゃんは何にも悪くないんだから、離してあげてよ……隆介兄さん」


 隆介と呼ばれた少年は、しばらく火のような目つきで静夫なる少年をにらみつけ――それから、私の腕を荒っぽく突き放した。


「そんな女は、さっさと追い出せ! 次に勝手な真似をしたら、ただじゃおかねえからな!」


「わ、わかったよ。ごめんなさい、隆介兄さん」


 隆介なる少年は、肩をそびやかして立ち去っていった。

 静夫なる少年は、ほとんど泣き顔のような表情で私のほうに駆け寄ってくる。


「怖い思いをさせちゃってごめんね、千夏ちゃん。母さんが亡くなって以来、兄さんはずっとあんな調子だから……」


 私の名前は、千夏ではない。私の名前は、蓮田葉月だ。

 だけど私はそのように言い張る気力もなく、ただただ放心していた。


 蓮田千夏とは、私の祖母の名前である。私は土蔵でセピア色の奔流に呑み込まれる直前、フォトフレームの裏にその名が記されていることを見届けていた。

 そして、私は――周囲の状況ばかりでなく、私自身を見舞った異変にも気づかされてしまっていた。


 私はTシャツにサブリナパンツという格好であったはずなのに、今は野暮ったい格子柄のワンピースなどを着込んでいる。お気に入りのデッキシューズも、くたびれたサンダルに変じていた。

 それに私は髪を長くのばしており、それをアップにまとめていたのだが、今はその重みが消失している。その代わりに、ショートヘアの毛先が頬や首筋に触れていた。


 そして、もっとも致命的であったのは――手であった。

 たぶん人間にとって、もっとも見慣れている自分の肉体の部位というのは、手の先だろう。その手の先が、まったく見知らぬ形に変じてしまっていたのだった。


 私の手は、もう少しだけ指が長い。爪の形も、もう少しだけ縦長だ。指の関節に寄った皺の感じや、手の甲にうっすらと浮かぶ筋のラインや、おそらくは指紋や手相に至るまで、これは完全に別人の手である。それに私は日焼け対策を怠らない人間であるのに、ワンピースからのびる手足は実に健康的な小麦色に染まってしまっていた。


 これは、私の肉体ではない。

 これは、私の祖母である蓮田千夏の肉体であるのだ。

 私がそんな素っ頓狂な結論に行き着いたのは、意識を失う寸前に見た祖母の写真と――そして、セピア色の奔流のせいだった。あの夢とも現実ともつかない不可思議な感覚が、私の頭をおかしくしてしまったのだ。


(でも、それじゃあ……お祖母ちゃんは、この野々宮って家の人間と結婚したんだから……この可愛らしい男の子が、私のお祖父ちゃんってこと? まさか、さっきのおっかないやつがお祖父ちゃんってことはないよね?)


 私が夢うつつでそんな想念にひたっていると、静夫なる少年が心配そうに微笑みかけてきた。


「千夏ちゃん、大丈夫? ずいぶん遅くなっちゃったから、家まで送るね」


「うん……ありがとう」


 半ば無意識に返事をしてから、私はぎょっとした。手の先などは完全に別人であるのに、声のほうはそんなに違和感もないことに気づかされてしまったのである。


(顔が似てると、声も似るってこと? ……って、そんなこと考えてる場合じゃないよ。これはいったい、どういうことなの?)


 そんな風に思い悩みつつ、私はどこか危機感が欠落していた。あまりに現実離れした状況に見舞われて、頭のどこかがショートしてしまったのだろうか。あるいはそれは、私の精神を守るための防衛本能であったのかもしれなかった。


 私は静夫なる少年とともに、野々宮の家を出た。

 その門柱の黒ずみ具合も、やはり数十年分は軽減しているようだ。しかし、背後に仰ぎ見る野々宮のお屋敷は、この頃からもう十分に古びていた。


 静夫なる少年は、私を川沿いの道に導いていく。太陽はまだ西の果てに半分ほど姿を残しており、世界を朱色に染めあげている。この道には街灯も見当たらなかったので、きっと日が沈んだら真っ暗になってしまうのだろう。土手の草むらにはむっとするような草いきれがたちこめており、川のほうからは蛙の鳴き声が盛大に聞こえていた。


「千夏ちゃん、本当に大丈夫? なんだか、顔色が悪いみたいだけど……」


 と、静夫なる少年がまた心配そうに呼びかけてきた。

 近くで見ると、本当に綺麗な顔立ちをした男の子である。年齢は、まだ中学生ぐらいだろうか。肌の色だけではなく自然にウェーブがかった髪もやや色素が淡いようで、夕陽に透けて亜麻色に輝いている。にきびのひとつも見当たらない頬や咽喉もとのラインがとても繊細で、ともすれば女の子に見えそうなぐらいであった。


 だけどその瞳には、どこか暗い陰ろいが感じられる。

 さきほど隆介なる少年は初七日がどうとか言っていたが――もしかしたら、それは彼らの母親についてであるのだろうか。そうだとしたら、その人物は自殺で亡くなったはずであるので、遺された子供たちの心情など想像することも難しかった。


「やっぱり、兄さんに怒鳴られたせいなのかな? 本当にごめんね。無理を言って手伝ってもらったのに、あんな目にあわせちゃって……」


「うん……探し物、だよね?」


 さきほどのやり取りを思い出しながら私が反問すると、静夫は「うん」とうなずいた。


「やっぱり、土蔵にもないみたいだね。母さんの日記帳……どこに行っちゃったんだろう。あれさえあれば、母さんが死んだ理由もわかると思ったのに……」


 この少年は、母親の自殺の理由を知るために、日記帳を探していたのだろうか。

 なんだか私は、一気に暗鬱な気分になってしまった。


(でも……私のお祖母ちゃんは、その人が自殺するわけないって言ってたんだよな)


 そんな風に考えた私は、発作的に笑いそうになってしまった。その祖母とは、すなわち今の私であるのだ。これは確かに心の一部分を眠らせておかないと、すぐさま精神が破綻してしまいそうなところであった。


「でも、これだけ探しても見つからないなら、母さんが処分しちゃったのかもね。僕ももうあきらめるよ。……今までありがとう、千夏ちゃん」


「え、ああ、うん……いいよ、別に。私なんて、大したことはしてないから……」


「私? ……なんか、大人っぽくて素敵だね」


 と、静夫がはにかむように微笑んだ。

 祖母の一人称は、「私」ではなかったのだろうか。しかし私も、そんな小さなことにかまっていられるような状態ではなかった。


「でも、千夏ちゃんは本当に兄さんと仲良くなかったんだね。それがちょっと意外だったよ」


「そ、そう? 私……乱暴な人は、苦手だから」


「そっか。実は、僕……千夏ちゃんは兄さんを追いかけて、同じ高校に進んだんじゃないかって思ってたんだよね。去年の終わりぐらいまでは、千夏ちゃんも別の女子校に進むつもりだって言ってたから……」


 ということは、現在の祖母は高校一年生なのだろうか。そうだとしたら、本来の私と同じ年齢であるということであった。


(でも、まさか……お祖母ちゃんは、あんな野蛮人がタイプだったってこと?)


 それともあれは、母親が自殺したショックで取り乱していただけなのだろうか。それもまた、十分にありえそうな話であった。

 しかしまた――私の母は祖父の兄弟のことを「ロクデナシのクソジジイ」と罵倒していたのだ。いま目の前ではかなげに微笑んでいる少年がそんな人間に成り果てるというのは、なかなか想像し難いところであった。


 しかし何にせよ、この対照的な少年たちのどちらかが私の祖父であり、どちらかが「クソジジイ」であるのだ。

 そんな想像をふくらませると、私はいっそう頭がどうにかなってしまいそうだった。


「あ、もう着いちゃったね。……今日もおばさんは帰りが遅いんでしょ? 千夏ちゃんも毎日ひとりで大変だね」


 静夫がそんな風に言い出したのは、道と並行して流れていた川に橋が渡されている場所まで辿り着いた頃であった。

 その川向こうに、ぽつんと小さな家が建っている。野々宮のお屋敷とは比べるべくもない、トタン屋根の粗末な家である。私の感覚では、小屋とでも呼びたくなるような貧相さであった。


「それで、あの……よかったら、明日も会ってもらえないかなぁ?」


 と、静夫がすがるような眼差しで私を見つめてきた。


「日記帳を探すのは、もうあきらめたけど……せっかくの夏休みだし、もっと千夏ちゃんとおしゃべりしたくって……」


「うん……ごめん。明日はちょっと用事があるから、また今度ね」


 私がそのように答えると、静夫の瞳がいっそう暗く陰った。


「わかった。無理ばっかり言って、ごめんね。今日はどうもありがとう」


「あ、うん。そっちも帰り道には気をつけてね」


「うん」と静夫は微笑んだが、その瞳は暗く陰ったままだった。

 得も言われぬ罪悪感を抱えながら、私はしかたなく橋を渡ることにする。見知らぬ家に踏み込むことなどまったく気が進まなかったが、それでも他には向かうべき場所も思いつかなかったのだ。


 家の玄関は、横開きのガラス戸であった。すりガラスで中の様子はわからないようになっているが、バットの一本もあれば簡単に壊せそうな造りである。今はその内側も真っ暗で、この粗末な家が無人であることを如実に示していた。

 そうしてワンピースのポケットをまさぐった私は、小さからぬ焦りに見舞われた。ポケットに収められていたのは小さながま口財布だけで、鍵の類いが見当たらなかったのだ。


(いや、待てよ……)


 田舎の家ではそうそう玄関に鍵を掛けることはないと、ネットの記事で目にした覚えがある。それで私がガラス戸に手をかけてみると、それはキシキシと軋みながら見事に口を開いたのだった。


(本当に不用心なんだな。まあ、こんな家じゃあ盗まれそうなものもなさそうだけど)


 祖母の実家に失礼な感想を抱きながら、私はおそるおそる玄関に踏み込んだ。

 そうしてガラス戸を閉めるべく、後方に向きなおると――私の心臓が、頼りなくバウンドした。とっくに立ち去ったと思っていた静夫が、橋の向こうからじっとこちらを見つめていたのだ。


 距離があるし、ちょうど逆光であったために、彼がどのような表情をしていたのかはわからない。

 ほとんど黒い影法師と化した彼は、なおもその場に不動でたたずみ――それから何の前触れもなく、身をひるがえして立ち去っていった。

 私には、それがひどく不吉な光景に思えてしまったのだった。

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