お嬢様と呼ばないで

「これからよろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします。えっと、貴禰おじょ…」

 何と呼びかけてよいか迷って、一瞬の間をおいて、お嬢様、そう言いかけたとき、被せるように言われた。

「あのね、お嬢様なんて、ゆめゆめ呼ばないでくださいね」

 と。え? と、戸惑っていたら、

「私のことは、名前で呼んでください。たかねさん、て。私もあなたのことを名前で、はつみさん、とお呼びしたいと思います。よろしいかしら?」


 え? いいのかしら? と、言うか、貴禰お嬢さ…もとい、貴禰さんて、九条氏が言っていたように、ちょっと、いや、かなり? 変わっている? 私、うまくやっていけるかしら。開始早々、ちょっと不安になった。

 けどそれも束の間、九条氏と貴禰さんのおちゃめな発言で、私の緊張は氷解し―。そんな私を、2人はなぜか嬉しそうに見た。そして言われたのだ、

「壁を作られるほうが、よっぽど嫌」

 と。


 しばらくして、九条氏が口を開いた。

「この子、貴禰の学校は、もうすぐ春休みに入ります」

「あ、はい」

 何のことかわからずそう返事をすると、さらにこう言われた。

「春休みが終わったら2年生です。それが、初海さんに来ていただいた理由の1つ」

 え? どんな理由? 話が読めない、そう思って2人の顔を見ると、貴禰…さんが、ふふ、と笑った。


「私ね、今まで、学校まで車で送迎してもらってたの。学校へは、ふつう、運転手さんに送ってもらって行くものだと思っていたのよね」

「はい?」

「だって、他の子がどうやって学校に来ていたか、知らなかったんだもの。自分の方法がふつうだと思っても、無理ないと思わない?」

「ああ、はい」

「でも実際は、そうじゃなかった。1年生のクラスは4つ、つまり80人だけど、その中でも送迎を受けていたのは私と、あと2人だけ。他の子は、電車やバスや、徒歩で通っていた。で、私も電車で通いたいなって」

 なるほど。でもちょっと気になった、それって―。

「それは、他の多くのご学友がそうされているから、ですか? 多くの人がそうしているから自分も、というのは、おかしくはないでしょうか」

 初日から世話係が言うことではないかもしれないけれど。相手がお嬢様でも、おかしいことはおかしいと言う。忖度はしない―。


 これが、この仕事を受けると決めたときに、私が内心密かに決意したことだった。言いなりになれば簡単だけど、それはきっと、お嬢様にとってよいことは1つもない。せっかく縁あってこの仕事に就くのだから、ちゃんと筋を通そう。それでクビになるなら、しかたがない。

 でも、それを聞いて九条氏は破顔した。大きく頷いて、

「いいですね。こういうやり取りは、とてもいい」

 と言った。とてもいい? 雇用主(の娘)に、反論することが?

「初海さん、私はあなたの雇い主になるわけだけれど、だからって、私や娘の立場の方が上ということではない。役割が違うだけです」

「はい…?」

「私と娘にしても、私が親だから娘より偉い、世間や物事をわかっているから娘は私に従うべきということにはなりません。実際、この子に私が教えられることも少なくないし」

 ね、と娘を見やる顔には、愛情が溢れているように思われた。

「もちろん、何でも彼女のいうことをきいて甘やかすということでもありません。間違っていると思ったらそう伝えて、理由を説明します。逆に、私のほうが諭されることも度々ですが(笑)」

 諭される? 7歳の娘に、この紳士が? そんなことって、あるかしら? そんなことを考えていたら、だからね、と、彼が言葉を続けた。

「あなたにも、この子には、そんな風に接してもらえたらと思います。自分は雇われている立場、だから、何でもはいはいと言うことを聞く、そんな人を、私は、いえ、私と娘は―もちろん、私の妻、この子の母もね―求めてはいません」

「はい…」

「ま、そう難しく考えないで。私と妻が傍にいられない分、親戚のお姉さんが一緒にいてくれる。そんな風に接してくれたら」

「はい…」


 さっきから私、ほとんど『はい』しか言っていないな。そう思ったけど、他に何を言えばいいかわからない。


「…いつでも」

「え?」

「初海さんが嫌になったら、いつでも辞めていただいてだいじょうぶです。だから、そんなに心配しないでほしいです」

「貴禰、さん」

 お嬢様にそう言われて、さらにどう返せばいいかわからなくなる。いつでもクビにできる、じゃなくて、私がいつでも辞めていいって。どういうことだろう?

 思わず顔を見ると、あら、言葉が足りなかったかしら、と小さく呟いて、

「私としては、ずっといてくださったら嬉しいですけど。でも、たとえば、初海さんが、ここで暮らすのが嫌だと思ったり、もっといい仕事を見つけられたりしたなら、そのときは、私はその決断を支持するつもり。そういうことです」

 と言った。

 本当に、変わったお嬢様に、変わった雇い主。

 先のことはわからない。すぐにここを辞して、別のところで暮らすかもしれない。でも、とりあえず、私は私の舟を、こうして漕ぎ出した。

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