第一章 誘拐 ⑧

      *


「やっと勘定が合いました!」

 凜がこの世界に来て一ヶ月後の午後、成王府の変人こと燕文火がそろばんをはじいた。

 足元では呱呱がせわしなく羽を広げながら、くわっくわっと鳴き叫ぶ。抱き上げて、膝に乗せるとようやく大人しくなり、くちばしだけを開いたり閉じたりしている様子は、なんとも可愛い。

「今月の支払いはできそう?」

「はい。借金が減るとまではいきませんが、なんとか今月分は払えます」

「よかった!」

 凜は複式で書かれた帳簿を見つめる。

 宗室の王族の結婚式があり、祝いをしなければならなくなったが思っていたよりも足りず、焦ったことを思い出す。それでもなんとか工面できたのは、成王府のみんなのおかげだ。燕じいや、手伝ってくれていた小葉からも安堵あんどのため息が出る。

「こうなったら祝いましょう」

 先日行った絹屋が「今後ともどうぞよろしくお願いします」と酒樽さかだるを置いていった。大半をすでに成王が飲んでしまっているが、まだ樽の底に凜たちが飲む分くらいは残っているだろう。

「なにか酒に合いそうなものを探してきます」

 毎晩こっそり酒を飲んでいる隠れ呑兵衛のんべえの小葉が、俄然元気になって厨房へ急ぎ、他の三人はすぐさま帳簿が広げられた円卓を片付け始める。

「じゃ、赤字でなかったことを祝して乾杯!」

 全員が集まり、高々とさかずきを上げると、皆が明るい声で「乾杯!」と返した。

 ――友達もできたし、お酒は美味しい。家は賄い付きで、お小遣いまでもらえる。最高よね。子陣は口うるさいけれど、成王はいい人。きさきの周氏は我が子のように接して枕まで縫ってくれるし。

 凜は決意した。

 ――どうせ帰り方も分からないし、帰っても問題ばかり。うん、そうよ。ここにいよう。少なくとも帰ることができる日までは――。他にどうしようもないんだもの。

 凜はもう一度、盃を掲げて言った。

「わたしの異世界生活を祝して、もう一度乾杯!」

 なにやら分からないが、ほろ酔い加減の小葉、燕じい、燕文火は「乾杯!」と唱和した。鳥の手羽肉を手づかみで頬張りながら、やれ、どこの料理は美味うまいだとか、子陣さまは口やかましいだとか、実はあの妃さまは――などという噂話をガヤガヤとしている時に、戸がたたかれた。

「騒がしいな」

 紫の官服をまとった子陣が、怪訝けげんな顔で現れた。いつもいつも急に現れる。どうやら朝議に出て着替えに戻って来たところのようだ。彼は官服にあわせて被る幞頭ぼうしを脱ぎながら言った。

「まだ金策に悩んでいたのか」

「ううん。今月は大丈夫」

「いい知らせがある」

 彼は片腕に抱えていた盆を凜の円卓の上に置いて意味ありげな顔をする。

「これは?」

 凜が恐る恐る紫の布を取ると、そこにはくつわのような形の黄金がびっしりと並べられているではないか。皆の大きく見開いた目が釘付くぎづけになり、燕文火がそっと触れようとして小葉に手を叩かれる。

「皇帝陛下より盗賊の一味を捕らえた褒美としていただいた。これを借金の返済に使ってくれ」

「本当?」

「ああ。盗賊のねぐらから貯めに貯めた黄金が山のように出て来て陛下の懐に入った。そのおこぼれにあずかったのさ」

 盗賊の頭、元健の首には懸賞金もかけられていたという。多くの無辜むこの者を脅し、殺して金を奪い十年ほどこの杭州を不穏にしてきた罪は重い。裁判所である大理寺だいりじは腰斬を命じたという。

「腰斬ってなに?」

「腰から人を半分にする刑だ」

「…………」

 とにかくこの世界では人権などというものがないらしい。

 凜は、悪いことは絶対にしないと心に誓う。

「盗賊たちは、凜と陳赫、張黄の三人をかどわかしたことを証言したが、それは自分たちが発案したものではなく、依頼によるものだと白状した」

 しかも面倒なことに、どうやら凜の殺害を依頼した者と、陳炭鋪の二人の息子を誘拐するよう命じた者は別の雇い主で、それぞれの雇い主についてはいくら拷問しても吐くことがなかったらしい。

「金の受け渡しも秘密裏に行われていた」

「つまり私は盗賊たちに誘拐されたけど、誰がそれを依頼したかはまったくわからないってこと?」

「そう言われると身もふたもないが、まぁ、そういうことだ。調査は切り上げるようにとお偉い方から進言があって、皇帝陛下も目に見える成果、つまり金を没収できたから、それでいいとお考えのようだ」

 凜は不満で口を無意識にとがらせる。彼女を呼び出した人物はおそらく顔見知りで信用できる人だったのではないかと思っていたからだ。南凜は内気な性格のようだから、慎重だったはず。呼び出した人物を見つけ出さなければ、危険は残り続ける。

「心配するな。秦影を凜につけるし、燕文火――はあまり役に立たなそうではあるが、一応、男だ。なるべく連れて歩くといい」

 凜は金が置かれた盆を受け取る。

「金はありがとう。これで借金を返すわ。借金があるのに、ただ飯ばかり食べていることを気にしていたのよ」

「そうか? それなら凜によい仕事を紹介しよう」

「仕事?」

 窓の外が急に暗くなった。

 雨がぽたりぽたりと地面に落ちる音がし始める。

 見れば、庭院に植えられた棠梨とうりが葉を落とし、一面、丹朱となって地面を染めていた。凜は窓際に立ち、空に垂れる凍雲を見上げた。子陣がそんな凜に絹の巻物を突きつける。

香華こうか宮の女官になるようにと、皇上からのご命令だ」

「は? わたしが女官? 香華宮ってどこ? 皇上って誰?」

「皇上とは皇帝陛下のことだ。香華宮は皇帝のおわす皇宮だ」

「わたしが? どういうこと?」

 凜は目を見開いた。

「働いて給金を仕送りしてくれ」

「なんでわたしが――」

「勅命だ」

 凜が反論しかけたその時、ぴかりと稲妻が斜めに走り、大きな音がこだました。通り雨がざぁっと降り出す。子陣の真剣な目を見て、凜はそれがなんの冗談でもないことに気づいた。

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