最後の晩ごはん ふるさととだし巻き卵

椹野道流/角川文庫 キャラクター文芸

プロローグ





 重苦しい眠りだった。

 突然、見知らぬ人に取り囲まれ、彼はジリジリと後ずさる。

 老若男女入り交じっている。数十人はいるだろう。でも、誰ひとりとして知り合いはいない。

 誰なんだ、何なんだと狼狽うろたえた声で問いかけても、どけよと怒鳴っても、誰も答えない。

 皆、能面のような無表情で、ただこちらをぼんやりと見ている。

 それなのに彼らの足だけは前進し、どんどん間合いを詰めてくる。

 怖い。

 今すぐ背を向けて走り出したいが、背中を見せたら何をされるかわからない。

 彼はただ、扇風機のように首を左右に巡らせながら、ジリジリと一歩ずつ下がっていくしかなかった。

 だが、急にかかとが浮いた。

 いや、浮いたのは踵ではなく、そこにあるはずの地面が……なかった。

 いつの間にか彼は、がけっぷちに追い詰められていた。靴底の下で、ボロボロともろい岩が崩れていくのがわかる。

 崖の下にあるのは、切り立った岩……そしてそこに打ち寄せ、砕ける荒い波だ。

 このまま同じ場所にとどまっては、いつか落下してしまうに違いない。

 とはいえ、彼を囲む人々は、崖など気にもせず、どんどん包囲網を狭めてくる。前へ小さく一歩踏み出せば、誰かの胸に彼の胸が触れてしまうほどに。

「ちょ……おい、やめろよ。誰だか知らないけど、そこ、どいてくれよ! 誰でもいいから下がれよ! なあ!」

 カラカラののどから絞り出した声は、情けなく震えていた。

 何故、自分がこんなにおびえているのかわからない。

 彼らは近づいてくるだけで、彼に害を及ぼそうとはしていないのだ。少なくとも、今のところは。

 勇気を振り絞って、目の前の誰かを思いきり突き飛ばし、逃げてしまえばいい。逃げることには、慣れている。

 これまでの人生で、理不尽な絡み方をされたことは何度もあった。

 しかしその都度、売られたケンカを買いたい気持ちをぐっとこらえて、ヘラヘラ愛想笑いを振りまきながら全速力で逃げ、無事にやり過ごしてきたのだ。

 酔いに任せて投げつけられる偏見たっぷりの悪口雑言や、無差別に狩りの獲物を求めている連中がちらつかせるバタフライナイフに比べれば、今、目の前にいる人々など無害に等しいはずなのに。

 それなのに、無表情、無言の人々に囲まれることが、こんなに恐ろしいなんて。

「どけって!」

 胸を突き破りそうな心臓をなだめ、とにかく相手を下がらせようと、彼は怒鳴った。

 だが、大声を出したとき、両足をつい踏ん張ってしまったのだろう。土踏まずの下の土があつなく崩れ、あっと思う暇もなく、全身がぐらりと後ろに傾いだ。

「うわッ!」

 まずいと思い、反射的に一歩前に足を出そうと思ったのがあだとなった。浮いた足が再び地面に着くことはなく、体勢はますます乱れてしまう。

「わ……あわわわわ」

 彼は空気をくように、必死で腕を振った。しかし努力もむなしく、身体がスローモーションのように後ろへ倒れていくのがわかる。視界から、やはり落ちていく彼を無表情で見ている人々の顔が流れて消えていった。

 代わりに見えたのは、空だった。

 奇妙なほど美しい、雲一つない抜けるような青空だ。

(俺が崖から落ちるってときに、何だってこんな快晴なんだ? イヤミか!?)

 そんな的外れな八つ当たりが頭に浮かぶあたり、かなりピントがずれているのだが、その間にも、彼の身体は水平に近づいていき……ついに足の裏が地面から完全に離れ、全身が宙に浮いた。

(落ちる……!)

 一瞬、すべてが静止した後、目に映る何もかもがおびただしい線の集合体に見えるほど、すさまじい勢いで真っ逆さまに落ちていく。

 頭からは血の気が引き、血液が急に押し寄せたつま先がカッと熱くなった。

 ほどなく彼は、頭から波打ち際の岩にたたきつけられるはずだ。バラバラになった身体は、たちまち波に飲み込まれ、沖へと運ばれてしまうだろう。

「うわあああああああっ!」

 ほとばしる悲鳴さえも、あっという間に遠ざかる。

 全身で、いまだかつてないくらい地球の引力を痛感しながら、彼は弾丸のように落下し続けた……。



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