心眼    

猪瀬 宣昭

第1話 1 

              1

 靴箱から真新しいスニーカーを取り出し、私は、それを玄関のたたきの上に置いた。

 散歩のためを意識して購入した初めての靴だった。どこにいくにも革靴を通してきた私が、会社勤めから離れた十日目の夕方、街なかのスニーカーをたくさんそろえた靴専門店に入り、[ウオーキングに最適]いうポップが立てかけられたスニーカーを購入したのである。

お前はもう自由の身なのだ、と自らに言い聞かせたかったのかも知れない。


 テレビを観ていた妻がリビングから出てきた。

「よし」

 私は立ち上がった。

「余り遠くに出かけないんでしょう?」

「ぶらりひとまわりだよ」

 

 水曜日の昼下がり、柄物のシャツに薄いジャンパー、明るいチェックのズボンというスタイルで家を出る。 一軒置いた家の奥さんが鉢植えに水をやっている。ご主人は経済学が専門の大学教授である。 年齢がほぼ同じということもあって妻とは仲がよい。

「こんにちは」

 立ち止まって、声をかけた。

「あっ、こんにちは。いいお天気ですね」

「いい季節になりました」

「お散歩ですか」

「ええ、ちょっと」

 私は頭をさげて、歩き出す。

 

 お散歩ですか?ごく自然に言葉が出ていたな。妻から当然、情報を得ていただろう。だけど、「はい」の後に「私も自由になりましたから」などと自分からリタイヤしたことの言葉を発してもよかった、などと思いながら、角を曲がり、広い通りに出る。

 

 どこに行くか、駅の向こう側に最近誕生したショッピングモールのことも頭に浮かんだが、やっぱり、こっちだな、と正面の信号の色が変わるのを待った。

 十字路を直進する形で進むと、また、道路に出る。

 横断歩道を渡ると草を生やした長い壁が左右に続いている。

 土手である。

 私は、なだらかな斜めの道をあがっていく。ちょっと暑いな、いったん、立ち止まり、薄手のジャケットを脱いだ。

土手の上は舗装された道になっている。

ゆったりと流れる幅広い川、シートを置いてバーベキューを楽しめるほどの余裕ある広さの川原、鉄橋も見える。

私はその開放的な景色に、「アアー」と声をあげて伸びをした。


 この地に引っ越してきたのは、二年前のことだった。私の会社は六十歳で定年という規定があるが、希望すれば二年間までの延長を許可してくれる。それを選択した私は、都内にある本社から小さな営業所の手伝いをすることになった。

 

 子供のいない私達夫婦がずっと住んでいたのは、巨大な団地だったが、転勤を機に地面の上に住んでいることを実感出来る家に住もう、ということになった。営業所まで、駅から歩いて遠くなく、老後をのんびり過ごせそうな住宅地、が求める条件だった。

 

 ゆったり流れる川、広い川原、鉄橋の見える風景に加え、その日は、カラフルな大きな翼をつけたモーターハングライダーが、空を実に爽快に飛んでいた。私達は、声を揃えて「いいなあ」と言い、建売住宅を購入することを決めたのだった。


 私は鉄橋と反対方向に舗装された道を歩いていく。茶色の木製のベンチが適当な感覚で置かれている心遣いが嬉しい。

 あの場所まで歩いていこう。私は目標地を決めた。車が走る陸橋の下までいって戻ってくることにしたのである。

 それにしても、何か趣味を持った方がいいな。この先、ひまな時は散歩しかないというのは困りものだ。 自転車が傍らを通り過ぎていく。ロードレーサーのような自転車を乗り回すのも健康的でいいかも知れない。中学生の頃、私は自転車少年だった。父親が乗っていた大きな荷台がある今やどこを見渡してもない重量感ある自転車で私はアチコチを走り回った。高校の時、肺に影があるとかで長期欠席して以来全く乗らなくなってしまった。なんで、あんなにぷっつりやめてしまったのか。くすんだ緑色の自転車だった。

 

 川の流れを眺めたり、川向こうの町並みを眺めたりしながら、私は、陸橋を見上げるところまで来た。陸橋をくぐってもう少し進んでもよかったが、予定通りUターンをすることにする。

 

 通りにくだる斜めの道に近付くにつれ、どこかベンチに座りたくなった。歩き疲れもあったが、川の景色と離れがたくもあったのだ。

 先刻は見かけなかった老婦人がベンチに腰を下ろしている。クリーム色のブラウスに薄茶のカーディガン、眼鏡をかけたその女性は黒のバックを膝の上に置き、静かに座っている。その視線はまっすぐ対岸に向かっているのが見て取れた。


 私は老婦人の左側の斜めの道に一番近いベンチに腰を下ろした。

 ベンチから視界に入る景色を眺め、老婦人の方に視線をやったのは、彼女の前を通り過ぎた時に垣間見たその表情だった。随分思いつめたような真剣な視線で対岸を見つめていたような気がした。私は横からそれを確認しようとしたのである。そっと顔を向けたつもりだったが、横顔ではなく、こちらを向く老婦人と視線を合わせることになった。

 

 老婦人が、軽く会釈をし、「こんにちは」と小さな声で言った。

 私は会釈を返した。

「いい天気ですね」

 大学教授の奥さんに言った言葉が自然と口をついて出た。

「そうですわね。お近くですの?」

「はい、五、六分の距離でしょうか」

「そうですか。こんな景色を楽しもうと思えばいつでも楽しめるなんて贅沢」

 老婦人が微笑んだ。

 

 近隣の人ではないのか。電車の乗っていて、急に川べりの景色の中に身をおきたくなって途中下車したとも思える。

 老婦人の言葉に、「まあ」と曖昧に笑って答えたことで、ちょっと、間が出来た。景色に戻ってもよかったが、どちらからいらしたのですか、と聞いてみようという気持ちになった。

 私の問いかけに

「高砂町から来ましたの、と言ってもピンときませんわね。駅は木田端駅ですわ」

 木田端駅はみっつ行った駅だった。

「そちらのベンチに行ってよろしいですか」

「アッ、どうぞ、どうぞ」

 老婦人の言葉に私は慌しい調子で答えたが、ちょっとびっくりした。隣にくるということは、会話をするということを意味していた。初対面の人と散歩の途中そんな風になるなど全く考えられないことだった。だが、断る理由もない。私は少し身体をベンチの左側に移動して老婦人が腰を下ろすのを待った。 (つづく)

          

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