馬車は正義へ

1


 目を開けると、頭上には見慣れた公爵家の自室の天井が見えた。部屋は薄暗く、空気はひんやりとしている。窓から少し光が差しているので今は明け方か夕方のどちらかだろうか。


「痛い……」

 仰向けの状態から手をついて上半身を起こそうとすると、左肩に鈍痛が走った。


(そっか、撃たれたんだっけ……)

 狩猟の場での襲撃のことを思い出しながら、恐る恐る包帯の巻かれた左肩に触れる。


 指先が触れると少し痛みが走るが、触ってみる限りそこまでひどい傷ではなさそうだった。左手の指を動かしてみても問題はない。固定するように包帯が巻かれているが、腕の感覚もきちんとあることに安堵した。


 寝台から足を下ろして立ち上がると、少し体がふらついた。寝すぎたのか、まだ熱があるのか、足腰に力が入りきらないような感じだ。明かりを灯して窓から外を覗くと、灰色の空からしとしと雨が降っていた。時折庭で使用人が作業をしているのが見えるので、どうやら夕方のようだ。


「リンジー、意識が戻ったのね!」

 背後で扉があいたかと思うと侍女のメアリがめずらしく足音を立てて入ってきて声を張り上げた。水を取り替えに来たのか、手にはポットや水差しをのせたお盆を抱えている。


「よかった……そんなところに立ってないで、座るなり横になるなりして頂戴!」

 声を震わせたメアリは、寝間着のまま突っ立っている私の姿を見てすぐに猫目を吊り上げてぷりぷりと怒り出した。


「ごめんなさい、心配かけたわね」

「いいから、体は辛い? 横になった方がいいんじゃない?」

 メアリに問い掛けられ、少し考えてから首を振った。体はだるいがもう眠気はないし、あの後どうなったのかが気になって仕方なかった。


 メアリがきびきびと動き回り、戸口の護衛に口早に何か伝えてから私にガウンを羽織らせて長椅子に座るよう促した。背中には程よい弾力のクッションを挟まれ、濡らした布で顔を拭われた後になにやらあたたかいカップを手渡される。


 カップの中身は湯冷ましだった。じんわりとあたたかさが広がっていく。のどを潤してからカップで手を暖めるようにして包み込んだ。


「メアリ、あの、」

「……私は何も話しちゃいけないの」

 向かいに腰掛けた彼女に問いかけようとすると、曇った顔で釘を刺される。申し訳なさそうにしているが、先に言ってもらえてよかった。


「そう、気にしないで。そういえばメアリ、デートは?」

「そんなの行けるわけないでしょ!ずっと起きないから本当に心配したのよ」

 釣り上がっていた猫目がじわじわとうるんでいく。


 カップを置いて彼女に詫びながらその背をさすっていると、廊下から足音が聞こえてきた。メアリが慌てて立ち上がって扉を開けると、公爵とトレーを手にした執事のマーティンが入ってきた。


「リンジー様! あぁよかった。お体の具合はいかがですか?」

「少しだるいくらいよ、ありがとう」

 トレーを置いた執事は二言三言会話を交わすと、まだ世話を焼きたそうなメアリを促して部屋を出ていった。


 部屋に残された公爵がメアリの座っていた椅子にゆっくりと腰を下ろす。起き抜けだということを思い出して私は居心地が悪くなって身じろいだ。


「寝ていなくていいのか?」

「はい」

「そうか」

 一往復して会話が終わってしまった。私の肩あたりを見つめる公爵の眉間には深いしわが刻まれていた。


 別荘の奥の部屋で大人しくしてさえいればよかったのに、結局いろんな人に迷惑をかけてしまった。公爵が機嫌を害するのも最もだろう。


「あの……勝手に抜け出して申し訳ありませんでした。皇太子を危険にさらして傷まで負ってしまって」

 言いながらじわじわと実感が湧いてきた。もしかしたらあの場で死んでいたかもしれない、そう思うと恐怖で体がぞっと震えた。


「寒いのか」

 がたっと立ち上がった公爵がどこからかひざ掛けをとってきて私の膝に広げる。

「すみません、ありがとうございます」


 かけ終えた公爵が椅子に座って、背中を丸め膝に肘をつき顔の前で手を合わせるようにしながら深くため息をついた。


「謝罪なんていいんだ。君が目を覚まさなかったらどうしようかと……」

 いつになく弱弱しく言う公爵の姿に、申し訳なさで胸が痛んだ。


「……顔が赤いな」

 不意に呟いた公爵が私の顔に手をかざしてきて思わず目をつぶると、瞼越しに影が落ちて額にひんやりとした手が触れた。火照った顔が冷やされて気持ちがいい。


 少しして目を開けると、思ったよりも近いところにいたその姿に心臓が跳ね上がる。視線がばちっと合うと、公爵がその手をさっと放した。


「マーティンに食事の用意をさせたんだ。食べられるだろうか」

 公爵はそう言うと執事のおいていったトレーを持ってきてくれた。トレーからは甘い香りが漂っていて、その香りをかいだ途端、私のお腹がきゅるゅると情けなく鳴った。


「食欲はありそうだな」

「いただきます」

 目を丸くした後に微笑んだ公爵からパン粥の入った皿を受け取り、恥ずかしさで真っ赤になりながら食べ始める。優しい甘さが身体に染み渡った。


 食事を終えるとまた少し沈黙があり、公爵が気遣わしげに言った。

「もう横になるか? メアリを呼んだ方がいいだろうか?」

「いえ、あの……あの後どうなったのかが気になって。教えてもらえる範囲でいいんです」


 少し黙り込んだ後、辛くなったらすぐ言うようにと念を押して、オリバー様は話し始めた。


 あれから二日が経過しているらしい。現場に駆け付けたのはごく少数の人間で、事件のことは皇太子と国王との間で内密に処理された。犯人の三人組の男も逮捕はされたものの表沙汰にはなっていないらしい。多分調査は進んでいるんだろうが、公爵は犯人が誰の手先なのか明かさなかった。


 応急処置を済ませた私はすぐに王都へ運ばれて、そのまま高熱を出して寝たきりだったそうだ。


 一方、皇太子はすっかり回復して公務に出席しているとのことだった。安心したが、傷だらけだったように記憶していたのでどこかひっかかった。しかし、崖から落ちた頃の私の意識は朦朧としていたし、自分の血が皇太子の服についたのを勘違いしたのかもしれない。


 会話がふと途切れた。カップを傾けると中身はすっかり冷えてしまっていた。気づいた公爵がわざわざいれなおしてくれる。カップを渡しながら、公爵が再び話し始める。


「君と殿下は昔の友人で……二人で散策していて揉め事があったのではないかという噂が流れている」

「それは、ご迷惑をお掛けします」

 いかにも受けそうな噂だと思った。もしかしたら日傘の件ですでに噂があったのかもしれない。自分の軽はずみな行動を後悔した。


 謝罪を重ねて、もう一つ自分たちが巻き込んだ人の存在に思い当たった。あの日、私と皇太子が出し抜いた護衛のことだ。

「あの日の護衛は、どうなったでしょう?」

「護衛? あぁ、処罰という意味なら、事件自体が存在しないことになってるからな。配置を変えただけだ」


 ひとまずよかったと胸を撫で下ろす。その様子を見ていた公爵がそっと右手を握った。

「リンジー、これに懲りたならもう無茶をしないでくれ」

 言い聞かせるようにいう公爵に長男の姿が重なって、こくりと頷いた。


「陛下から休暇の許可が出たんだ。体が良くなったら街へでも出掛けよう。ずっと退屈してただろう」

 何か要望があるかと聞かれて思わず口をついた。

「宮殿に連れて行ってくださいませんか」

 公爵が怪訝そうにこちらを見返す。

「陛下に直接お話しなければいけないことがあるんです」


 突飛な話になってしまったが、公爵は真剣な顔だった。

「それは、前に話していた過去のことが関係するんだろうか」

 流石の察しの良さだ。ちゃんと聞いてくれていたんだなと思いながら肯定した。


「えぇ、全部思い出したんです。そのことで陛下にも伝えなければいけないことができてしまって」

「分かった。陛下も意識を取り戻したら知らせるようにと言っていた。すぐに謁見できるだろう」


 話がまとまったところで、メアリともう一人侍女が部屋へやってきた。起きていられるうちにと湯浴みを済ませると体も気持ちもすっきりとした。

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