06.雲行き
エルベスの町のコトリ亭には、毎日多くの町人が昼食を食べに訪れる。
以前はちんまりとしたイメージが抜けなかった宿が増築、改装され、『コトリ亭』と呼ぶには似つかわしくない外観となった。
それでも宿のそばに生えているケヤキには小鳥たちが飛び交っていて、今までと変わらぬ町民たちの憩いの場だ。
おかみのケーテはエスカーとカトレアという二人を新たに雇い、パートも増やして宿は今まで以上に賑わっている。
ユリアーナはお昼の忙しい時間帯だけリシェルをメルミにお願いし、無理のない範囲で仕事に復帰していた。
「じゃあ、今日もよろしくお願いしますね、メルミ」
ユリアーナは自分から離れようとしないリシェルを引き剥がすと、メルミに託す。
「はい、いってらっしゃいませユリアさん。リシェルちゃんは任せてください」
「まっま、まっまぁ!」
メルミに抱かれたリシェルが、ユリアーナを求めるように手をパタパタさせている。
無事に一歳の誕生日を迎えたばかりのリシェルは、全てを捧げられるほど愛おしくかわいらしい。特にディートフリートの溺愛っぷりは、見ていて嫉妬するほどだ。
「いってくるわね、リシェル。メルミと仲良くね」
「ま、まあ! んまぁ!」
その愛らしい声に後ろ髪を引かれながらも、ユリアーナはメルミの家を後にした。
ディートフリートに対してもリシェルはこんな感じなので、毎朝仕事に送り出すのが一苦労である。『であー』と娘に呼ばれるたびにディートフリートは戻ってきて、頭を撫でているのだ。その何十回も繰り返される出掛けの儀式に十分は使うものだから、遅刻してしまうのではないかとこちらは気が気でない。
遅れそうなときは走っていくから大丈夫とディートフリートは笑っているが、そこまでして娘を構いたいものだろうかと思うと少し呆れながらも笑った。
ディーは、良い夫ね……
ディートフリートは宿で働きながら、エルベスの町の活性化と生活の向上のために日々奔走している。
彼がエルベスに来てからわずか二年で、この町は見違えるほど豊かになった。
賢王とまで呼ばれていた彼が、この町でだけしかその手腕を発揮できないのが、本当に心苦しい。本来なら、ここにいるべき人ではないのだから。
でも、私と結婚してしまったのだから、もう王に戻ることは許されないわ……。
私は……犯罪者にされてしまったお父様の、娘だから……。
父ホルストの嫌疑を晴らせなかったのは悔しいが、ディートフリートには十分やってもらった。だから、文句をいうつもりなど毛頭ない。
天に行ったホルストだって、今の幸せなユリアーナを見れば、それで良いと喜んでくれるはずだ。
ディートフリートの後に王となったフローリアンだって、ディートフリートには一歩及ばないかもしれないが、本当によくやっている。きっともっと経験を積めば、ディートフリートと同様に賢王と呼ばれる日がやってくるだろう。
「こんなに幸せなのに、お父様のことで不満に思ってしまうなんて……だめね」
どうしても消えないしこりから目を逸らして、ユリアーナはコトリ亭の厨房へと入った。
「ディー。仕込みは終わりました? 今日のメインメニューは?」
「あ、ユリア」
いつもニコニコと笑って答えくれるディートフリートが、はっと驚いたように顔を上げている。
「どうしたの、ディー……何かありました?」
「あ、いや……ちょっとフローの政策が気にかかってね」
「フローリアン様の?」
ディートフリートはコトリ亭にくると、まずざっと新聞に目を通している。きっとその新聞に何かが書かれていたのだろうと思ったユリアーナは、食堂に置いてある新聞を急いで広げた。
しかし、どれがディートフリートのいう気になる政策なのかがわからない。
「これですよ、ディート殿が言っているのは」
共に働いているエスカーが、新聞記事の一部を指差して教えてくれた。
そこには、女性の地位の向上の政策が進められていることが書かれてある。
確かディートフリートは以前、『フローが三十を迎える頃には政策もスムーズに進むようになるだろう』と言っていた。フローリアンは現在、まだ二十四歳だ。
「ディー……」
新聞を掴んで再び厨房を覗くと、ディートフリートが眉間に皺を寄せながら仕事をしている。
「フローリアン様のこの政策を、お止めしたいのですか?」
ユリアーナが問いかけると、ディートフリートはさらに皺を深く刻んだ。
「止めるつもりはないよ。でもこの国も、そして周辺諸国もまだまだ男性優位だ。性急に事を進めるより、地道に国民の意識改革をしていった方がいい」
「それを陛下に進言申し上げては……」
「いや、フローにはシャインが付いているし、きっと大丈夫だ。少し心配しすぎていたかな」
ハハ、とディートフリートがようやく笑顔を見せてくれて、ユリアーナもほっと息を吐く。と同時に、きっとディートフリートにはもどかしい気持ちがあるのだろうということがわかって、複雑になった。
しかし『王に戻りたいんですか?』と聞いたところで、絶対に応とは言わないだろう……いや、言えないのだ。ディートフリートの本心を聞いてあげることさえできない。
ディーを王に戻すために、私ができることは……
それを考えてゾッとし、一人首を振る。
きっとフローリアンはうまく王を務め上げてくれる。今が幸せなのだからこれでいいのだと、離婚という文字を吹き飛ばした……その時。
「ディート!!」
剣を携えた赤髪の元護衛騎士が、準備中の食堂に滑り込んでくる。
「どうした、ルーゼン!」
そのただならぬ様子の声に、厨房からディートフリートが飛び出してきた。
「シャインからの連絡です! 王都で暴動が起こってる。クーデターだ!」
ルーゼンの言葉に厳しい顔をするディートフリート。ユリアーナも頭を殴られたかのような衝撃が走った。
「ここには信用のおける町の警備騎士を配置します! ディートたちは無闇に外を出歩かないでください!」
「お前は、ルーゼン!」
「俺はこのまま王都に行き、シャインと合流予定! メルミには心配するなと伝えておいてください!」
「無茶はするな!」
「大丈夫です、俺は元護衛騎士ですよ! シャインもいるし、ディートの家族は全員守ってみせます!」
笑うように叫ぶと、ルーゼンは嵐のように飛び出していった。
後には数名の警備騎士たちが入ってくる。
王族は離脱しているが、もしもの時のためだろう。
「……ディート……」
王都にはディートフリートの家族がいる。その家族が、命の危機に晒されているのだ。気が気ではないに違いない。
しかしディートフリートは目を強く瞑って、今までけわしくしていた顔を押さえ込んだ。
「今僕たちにできることはない。情報を集めながら、普段通りの生活をしよう。大丈夫だとは思うが、リシェルが心配だ。これからはコトリ亭の一室で面倒を見てもらうことにする」
ユリアーナは、ディートフリートの提案に頷くことしかできなかった。
突然のクーデター勃発。
今までが幸せ過ぎたのだろうか。これからどうなってしまうのかと思うと、体が震えをみせる。
「大丈夫。君とリシェルは、僕が守ってみせる」
「ディー……」
底知れない不安を掻き消すように、ディートフリートはユリアーナを抱きしめてくれていた。
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