第2話 序曲 モダンガール危機一髪

  元町通から花隈城跡に抜ける通りの角で、人力車の俥夫の視線をひしひしと感じながら、三浦伊吹(みうらいぶき)は車上の人である親友、永尾美紅(ながおみく)の手の甲を軽く叩いた。


 すぐ上の目抜き通りを走っていく自動車の明かりが近づいて、やがて通り過ぎていく。

 三台目までは数えていたが、それ以降はもう忘れた。


「わかってるから、大丈夫よ。心配しないで」


 これを言うのも三度目だ。

 美紅の隣に座って、出発を今か今かと待ちわびている永尾家の下宿人、加藤から向けられる視線の温度はどんどん冷ややかになりつつある。


 さっきから同じ話を延々と繰り返しているのだから無理もない。


 五月に入ったとはいえ、夜はまだ冷える。

 その上、物騒な事件が起こったばかりなので、早く帰りたいのはみな同じだろう。


「銭湯に行くなら明るい道を通ってね、絶対よ。ああ、でもやっぱり心配だわ。ねえ、本当にうちの屋敷で暮らさない?」


 これを言われるのも三度目だった。

 通り魔事件のせいで夕方以降の客足が一気に減ってしまい、しばらくはどの店も閉店時間を早めることになった。

 美紅の兄が経営を任されているカフェー白猫屋もほかの店に倣って早々に店じまいをしたのだが。

 従業員が女学校時代の親友となると、顔を合わせれば話が弾むのは常だ。

 片付けの手が止まり、いつの間にかいつもの時間を大幅に過ぎていた。


 閉店間際の食品店に買い出しに行った加藤が戻っても、乙女二人の談笑は一向に終わらなかった。


 もうちょっと待って頂戴ね、と美紅に微笑まれて否と答えられる兵はまずいない。

 妙齢の子息を持つ華族婦人が、噂を聞きつけて参観と称して姿を見に来るほどの美少女で有名だった美紅である。


 等間隔に設置されたアーク灯と雲間から零れる月明かりに照らされる、白地にアールヌーボーの草花が常盤色と菜の花色で描かれた着物と桃色の半襟から覗くきめ細かな美しい肌、ほっそりとした首の上にある小さな顔に浮かぶのは、少女の蛹を破ったばかりの可憐で鮮やかな薔薇の美貌。

 半結びの緩くうねった長い髪が夜風で揺れる様も見惚れるほどに美しい。

 膝の上に置かれた黒地に赤や黄色の片輪車が描かれた羽織に乗せられた指先には当然傷一つない。


 大切なお嬢様には水仕事などさせられるわけがない、というのが美紅の信者である加藤と、従業員としての伊吹の言い分だ。


 女学校を卒業してから、白猫屋を手伝うようになると、すぐに元町通一番の美人女給のいるカフェーとして話題になった。


 可愛い娘を早々に良家に嫁がせたい父親の意向とは逆に、自立心旺盛で自由を愛する美紅は、通り魔事件が発生した後も変わらず毎日店に顔を出しており、店の店員でもある加藤は胃の痛い思いをしているようだ。


 従業員の立場からいえば、看板娘の美人女給が店に立てばひっきりなしに客が来るので、忙しいが売上は上がるし有難いのだが、元町通一番の美人の友としては、事件解決までは自宅にいて欲しい気もする。


 伊吹の父親が病に倒れて亡くなった後、先の見通しが立たず女学校を辞める事になった時、白猫屋の女給仕事を世話してくれた美紅には友情以上の恩義を感じている。


 だから、万一にも通り魔事件に巻き込まれるようなことはあってほしくない。


 だが、美紅の心配は有難いことに伊吹にだけ真っ直ぐに向けられていた。

 それも結構な強火で。


 永尾兄弟の暮らす花隈の邸宅は門構えも立派な日本家屋で離れもあり、部屋数も多く下働きの 女中や下男のほかに、加藤のような下宿人や書生も生活している。

 一人や二人増えたって大したことないから、うちにいらっしゃいな。が美紅の常套句だ。


 美紅の父親に見込みありと認められて下宿を許された将来有望な青年たちと、一人娘の強火の友情のみが後ろ盾の伊吹。

 伊吹を店で雇うこと自体難色を示していた家柄第一主義の彼女の父親が、親なし平民の居候など許すはずもない。


 愛娘たっての希望と、店主である兄の口添えもあって女給仕事にありつけたが、これ以上面倒をかけたくはないので、居候の申し出は毎回丁重にお断りしていた。

 ガスが通るまでは、風呂焚き専門の下女を雇っていたという邸宅の広い内風呂には物凄く憧れるけれど。


「滝野湯がすぐ近くだし、寄り道せずに真っすぐ帰るわ。ほら、そろそろ行って。遅くなるとおじ様が心配なさるから」

「こんな時に限って出張だなんて、ほんとに兄様は役に立たないわね!」


 父親との血縁を疑いたくなるくらいのほほんとした性格の美紅の兄、誠一は、二店舗目を開店するべく不動産巡りでここ一週間程店に顔を出していない。

 可愛い妹にとことん甘い誠一は、伊吹のことも気にかけてくれていた。


「あたしの家はすぐそこよ。十分もかからないことを美紅も知ってるでしょう」


 父親と住んでいた借家を手放して、現在は走水神社近くの風呂なし長屋に住んでいる。

 通りを入った場所にあるので、あまり日当たりは良くないし狭いけれど、その分家賃がとにかく安い。

 美紅は初めから良い顔をしなかったが、今の伊吹にとっては大切な城である。

 イライラし始めた俥夫に数枚の硬貨を追加で渡して、加藤が気まずそうに口を挟んだ。


「美紅お嬢さん。そろそろ帰りましょうよ。本気で旦那様が心配されますから」

「わかったわよ。帰るわ。それじゃあね、伊吹、本当に本当に気を付けて!」

「うん、また明日。おやすみなさい!」

「待たせて悪かったわね、出して頂戴。ああ、そうだ伊吹、今度の週末は泊りにいらっしゃいな!父様と母様はご不在だから」

 美紅の提案にこくんと頷いて、走り出した人力車に向かって手を振る。

「ありがとう!考えとくわ!」


 躑躅色の地に白の花で丸く縁どられた天色(あまいろ)の空が覗くお気に入りの着物は、明かりの少ない場所でもよく目立つ。

 瓶覗(かめのぞき)に木蓮の帯と組み合わせれば、さらに彩りが増す。

 黄檗色(きはだいろ)の帯揚げとお揃いの帯締め、僅かに角が欠けてはいるものの綺麗な艶のある赤珊瑚の躑躅の帯留め。


 手持ちの着物の色合いがどれも鮮やかなものばかりなのは、伊吹の性分の現れだ。

 多少小汚い長屋で暮らしてでもお洒落を楽しみたいのが年頃の娘である。


 あの永尾美紅の友人とは思えない、と言われるほどどこにでもいる平凡な容姿であっても。


 神戸の街のどこにでもいる若い娘の一人にすぎない伊吹の特徴といえば、肩までの短い髪だ。

 モガが流行り出してすぐに耳下まで一気に髪を短くして登校した時の教室のざわめきは今も忘れられない。あの瞬間たった一度だけ、美紅よりも教室中の視線をその身に集めた。


 切りたい切りたい!お揃いにしたい!と美紅もごねたが、家族総出で縋りつかれた為、今も少し癖のある綺麗な長い髪は守られている。

 仕事で忙しかった伊吹の父親は、短髪になった娘を見ても、洗髪が楽だぞ!と笑っただけだった。革新的というよりは、娘の容姿にさして興味のない人だったのだ。


 今は肩下まで伸びた髪の耳の上に差した髪留めは蚤の市で見つけた硝子の木蓮の花。


 恐ろしい事が起こっても、認めることはしても見止めることはしない。


 朗らかに逞しく。


 長患いすることなく母の元へ旅立った伊吹の父親の口癖である。


「よし、帰りますか」


 人力車の後ろ姿をしばらく見送ってから、伊吹は長屋へと足を向けた。




 いつも通る道ではなく、明かりの少ない細道を通ろうと思ったのは、少しでも早く帰宅して、銭湯に行きたかったからだ。


 事件発生から一週間、警察官の見回りは続いているけれど、犯人は捕まっていない。

 夜の外出を見咎められる事はないが、官職を盾にして一人歩きは危険ですよと訳知り顔で近づいてくる物好きな警察官も残念ながらいる。


 家族が家で待つ娘なら良いが、長屋の独り暮らしがばれると十人並みの容姿でも別の危険性がある。

 人々の暮らしを守ってくださる有難い軍人様と警察官様は、往々にして傲慢で自尊心が強い人間が多い。

 ちょっと目配せすれば、ころりと女が落ちてくると思っているきらいがある。


 白猫屋は、純粋なカフェーとして営業しているが、大阪に行けば女給と遊ぶ事が目的のカフェーがいくつも存在するらしく、美紅の美貌にやられた男たちが勘違いしてちょっかいをかけてく ることもあった。


 無駄に関わらず、騒がず、粛々と接客を続ければ面白味のない女給として去っていく。

 飲食目的の客ならそうやってあしらえるが、見回り中の警察官が相手となると厄介だ。


 面倒を避けるために、ここ最近はいつもより早い時間に銭湯に行くようにしていた。



 昔ほどではないけれど、アーク灯の明かりの届かない薄暗い場所には良くないものが集いやすい。


 禍付きが見える血を祖母から受け継いだのは、家族の中で伊吹だけだった。


 黒い靄のようなはっきりとした実体を持たないそれが近づいてくるのが恐ろしくて、極端に暗がりを怖がった幼い伊吹に、皺の刻まれた温かい手で祖母が与えてくれたのは一つのまじない言葉と金平糖。

 大人になった今でも、いつも着物の袂には一掴みの金平糖がお守り替わりに入れられている。


 近道するけれど、足早に行けば一瞬よ、大丈夫!


 残念ながら女学校の体操の授業では、一度たりとも甲の評価が貰えなかった伊吹なのだが、気合だけは十分だった。


 慣れ親しんだ通りから、一本横道にそれた裏路地に入ると、一気に空気が冷たく感じられた。

 明かりが届かないせいないのか、それとも自分の心細さのせいなのか。

 考えればよくない思考の螺旋に入ってしまうので、足元だけを見てひたすらに歩く。


 禍付きを引き寄せるのは、人間の思考だと、聞かされてきた。

 お天道様を浴びて、美しい景色を見て、明るいものを選びなさい、そうすれば、禍付きは遠くへ行くから。


 春真っ盛りの躑躅色は、地味な顔立ちには派手すぎる気もしたが、見れば気分が華やいで明るくなる。


 光沢のある刺繍の木蓮は綺麗に花開き、今にもよい香りがしてきそうだ。


 胸元の色見に気を取られた次の瞬間、すぐ近くで土を踏む足音が聞こえてきた。


 さっきまではしなかった不思議な気配が左手すぐ横に近づいてきて、伊吹は迷わず袂から金平糖を掴みだした。

 禍付きー・・・


 人型のそれに出会ったのはこれまでに一度だけ。

 祖母の葬儀の時に、寺の裏手で遠目に見たきり。

 やけに青白い以外は、人間と何ら変わらぬ容姿をした禍付きはうっすらと透けて見えた。

 けれど、今間近に迫っている禍付きは、足音も気配もはっきりとしている。


 力が強ければ強いほど人と同じ実体を持つと聞いたことがある。


 使えるまじない言葉一つの威力がどれ位かは分からないが、おそらく微々たるものだろう。

 一瞬の目くらましになってくれればそれでいい。


 転ばず走れる?


 草履の足元を見て泣きそうになるが迷っている暇はない。


 ぎゅっと目をつぶって、交差する路地に向かって拳を振りかざした。


「南無三っっ!!!烈閃!!!」


 どうかここで死ぬことだけはありませんようにと祈りながら、手にした金平糖を禍付きに向かって、豆まきよろしく投げつける。

 白、桃色、黄色の金平糖が暗がりに広がって一瞬だけ光を放つ。

 自分と禍付きの領域を線引きするまじないだ。

 光の礫をぶつけられた禍付きが、間抜けな叫び声を上げた。


「っっうわっ!!!」


 実体持ちの禍付きって普通に喋れるんだ、と呑気な考えが浮かんだ次の瞬間。

 目の前を星形の光が走った。

 ぶわりと空気の密度が濃くなって、分厚い壁に弾かれる。

 力技で術が跳ね返された事だけ頭の隅で理解した。


 声を上げる暇もなく地べたに頬がぶつかる。そのあとにずしんと響くような衝撃。


 夕方の通り雨で湿ったままの足場の悪い裏路地に、手にしていた風呂敷包みがほどけて転がるのが見えた。


 横道から出てきた黒い影が、蹲ったままの伊吹を見止めて立ち止まった。


「え・・・女の子・・?」

「・・に、にんげん・・・?」


 グラグラする頭をどうにか持ち上げて、こちらを見下ろす人間と思わしきそれを確かめる。

 僅かに赤みのある黒鳶(くろとび)の髪と、消炭色の瞳。

 他に色のない世界で、それだけがはっきりと見て取れた。


 背広姿の長身が、困惑しきった表情で手を差し伸べて来る。


 指が五本あるから、やっぱり人間だ・・


 倒れた場所が悪かったらしく、窪みにできた水たまりの泥水がじわりと背中に沁みてきた。


「も、申し訳ない、お嬢さん!お怪我は!?」

 つい先ほど思い切り人の事を弾き飛ばした人の言葉とは思えない。

「怪我より着物が・・・」

 背中も腰もお尻もしこたまぶつけた。

 けれど、それより何よりお気に入りの着物が一大事だ。

「いや、着物より身体を・・」

 正しい突っ込みを入れた男が、腕を引いて起こしてくれた。

 どうにか地べたに座り込む格好になって、ひとまず着物の具合を確かめようと目を凝らす。


「だ、誰か来てくれー!!」


 野太い男の大きな悲鳴が聞こえて、二人は揃って声のした栄町通の方向へ顔を向けた。

 ここからそう遠くない場所で何かあったらしい。

 しゃがみ込んで伊吹の具合を確かめようとした男が、一瞬迷ってから立ち上がる。


「すみません。すぐ戻りますからここに居てもらえますか?」

「っは、はい!」

 こくこく頷いた伊吹を見て、男が駆け出していく。


 足音が遠ざかって、再び静寂が訪れた。


 脳震盪のような眩暈が収まるのを待って、さっきは全く力の入らなかった足の指をきゅっと丸めてみる。


 いける。


 痛む腰をトントン叩いて、水たまりを避けて手をついてゆっくりと立ち上がる。

 ここで大人しく待っているわけがない。


 面倒ごとには関わらないのが一番だ。


 風呂敷包みから零れ落ちた白猫屋のエプロンは、案の定茶色い泥沁みが出来ていた。


 同じく泥のついたハンカチと手鏡を拾い上げようとして、土の上にキラキラ光る欠片が落ちていることに気づいた。

 赤い小さな欠片だ。


「なんの・・・?ああああっ」


 帯留めにしていた赤珊瑚の躑躅が無残にも割れて散らばっている。

 只でさえ数の少ない帯留め、その中でもとくに祖母がお気に入りにしていたものだったのに。

 がっくりと項垂れて、割れて残った欠片に手を伸ばした。


 おばあちゃんごめんなさい・・・


 と、その時。

 さっきの男の気配とはまた別の、胃の底が冷え冷えとするような重たい空気が背後に迫った。


 今度は足音もなく、ただ気配だけを纏わせる暗がりに集うもの。

 今度こそ間違いない、禍付きだ。


 なんでさっき金平糖使ったかな!?


 力のない伊吹のまじない言葉は、護符や塩や金平糖といった形代がないと発動しない。

 ここはもう、見えていることに気づかれずに、通り過ぎてくれることを祈るよりほかにない。


 存在は認めるけれど、見止めない。絶対に見止めない。


 じっとして黒い塊が行き過ぎるのを必死に待つ。


 足元の赤珊瑚のかけらに、一筋の月明かりが差した。

 欠けてもつるりとした艶のある表面が、月光を受けてぐにゃりと歪んで渦になる。


「っ・・!?」


 悲鳴を上げそうになって息を飲むと、赤珊瑚を突き抜けるように広がった赤い渦の中から、ぼんやりとした影が現れた。

 手品のような不思議な光景に呆然とする伊吹の背中に、冷たい感触が走った。


 禍付きが触れている。


 ひたひたと雨のように忍び寄る、寂しくて暗い澱んだ黒い塊。

 べったりと背中に張り付くそれは、小さな子供ほどの大きさがあった。


 背後には禍付き、目の前には得体のしれない赤い影。

 運の悪さに泣きそうになる。


 あたしがなにしたってゆーのよ!


 次の瞬間、睨みつけていた赤い影が急に大きくなって、伊吹ごと禍付きを飲み込んだ。


 もう本当にこのまま両親の待つ天国へ行ってしまうかもしれない。


 兄さんたち、あたしのお葬式はどうか地味にしてちょうだいね・・


 真っ赤な炎に焼き尽くされるのかと思っていた伊吹の身体は熱を感じる間もなく、すぐに解放された。


 背中にいた禍付きがいなくなっている。


 え・・まさか・・禍付きから助けて・・くれた・・?


 炎のように揺らめく熱のない影が、ふわりと宙に浮いた。


「フンっ!雑魚ね!」


 しゃ、喋った・・


 影の中から聞こえてきたのは、伊吹とそう変わりない年頃の女の子の声。

 苛立った口調で吐き捨てると、何かを探すようにその場をぐるぐると回り始める。


「・・さま・・どこ・・なの?」


 独り言のような呟きの後、水をかけられた炎のように赤い影は見えなくなった。

 骨が軋むような音がして、すぐにそれも聞こえなくなる。


 ぽかんとした表情でその場に蹲る伊吹を残して、再び静かな夜の空気が辺りを包み込んだ。







「で、どうなったのよ」

「必死になって家に戻ったわよ」

「その男の人は?追いかけてこなかったわけ?」

「戻ってくる前に逃げたもの。多分、祓い屋とか拝み屋だと思うから、関わりたくないし」


 翌日、薬局に寄った後、少し遅れて店に出勤した伊吹は、待ちくたびれ様子の美紅に昨夜の出来事を話して聞かせた。

 女学校時代に、美紅に憑いていた女の生霊を祓ったことがきっかけで仲良くなったので、禍付きが見える事も彼女にだけは打ち明けている。


 いつもとは違う道を通ったことは伏せておいたが、夜の一人歩きは危ないと盛大に叱られた。

 ある意味、肉親である兄より怖い友人である。


「関東の地震から一気に増えたものねー・・家守りの水晶に、破魔の護符、魔除けの鈴。榎本子爵が詐欺被害にあってから、取引先でも祓い屋が話題に上がってるって父様が話してたわ。どこの宗派が有力だの、護符の威力が強いだの」

「お寺への相談も増えて大儲けだけど、忙しくて家族で過ごす時間も取れないって兄さんの手紙に書いてあったわ」

「ああ、上のお兄さんお寺に入り婿になったのよね」

「そーよ。上の兄はお坊さんで、下の兄は神父」


 二人の兄は禍付きが見える能力は持たなかったが、揃って神仏に縁があったらしい。

 父親が時代の最先端の会社員としてせっせと励んでいる頃、息子二人はとっくに現世に見切りをつけてそれぞれの道を進んでいた。


 上の兄が義理の両親たちと暮らす和歌山の寺の世話になることも、下の兄が尊き主と共に暮らす須磨の教会にも行きたくなくて、現在の長屋住まいを選んだことは一度も後悔していない。

 人には向き不向きというものがある。伊吹はまだまだ綺麗な着物だって着たいし洋装だってしたいし、娯楽を楽しみたいのだ。


「あなたのお父様のお葬式はいろんな意味できっと一生忘れないと思うわ」

「あたしも忘れられないわよ」


 二年前の記憶がよみがえって来て、伊吹と美紅は揃って遠い目になった。

 上の兄と義理の父親が神妙な面持ちでお経を唱えたと思えば、下の兄がシスター達を従えて聖歌を歌い、お焼香が終われば、次は百合やカーネーションの献花が行われた。

 最終的に祭壇はえらく華やかになり、なんとも賑やかな葬儀となったのだ。


 いつも気丈に振舞っていた明るい父親だったので、大喜びしていたことだろう。


「おかげでくよくよせずに済んだから、兄さんたちにはある意味感謝してるけど」

「天国のお父様とお母様は心配されてるはずよ。今回の事で懲りたでしょう?独り暮らしは物騒よ、おやめなさいな」


 美紅はここぞとばかりに居候の話題を再燃させてきた。

 この調子だとこのまま花隈の屋敷に連れて帰られそうだ。


「金平糖はもう少し多めに持ち歩くことにするわ」

「あのねえ、伊吹」

「こればっかりは体質だからどうしようもないのよ。あんな禍付きは初めて見たし、余程の事がないと出会わない筈よ。大丈夫。昨日のことを教訓として、これからは絶対に明るい通りを歩くことにするわ」

「やっぱり裏路地を通ったのね!」

「あ・・ちょ、ちょっとだけよ、ほんの数分」

「だから言ったじゃない!禍付きも危ないけれど、人間だって危ないわよ!犯人はまだ捕まって ないんだから!ちょっと兄様も何とか言って頂戴よ!」


 一週間ぶりに京都と滋賀の土産を手に店にやって来た店主は、美人ゆえに怒らせると迫力が三倍はある可愛い妹に睨まれていつもの困り顔だ。


 店が混みあうのは大抵昼頃からで、午前中のこの時間は近所の店の店主か常連客のみがやって来る。

 給仕は慣れた加藤が仕切っており、手伝いも必要なさそうだった。

 というか、腰が痛くて今日はテキパキ働けそうにない。


「伊吹ちゃん、せめて通り魔事件が解決するまでうちに来るのはどうだい?父さんには僕から話しておくから」

「あははは・・・すごく有難いんですが・・」

「父様はあの怖いお顔で随分損をしてると思うわ。そのうえ愛想笑いもなさらないし。別に伊吹が嫌いというわけではないのよ」

「・・そうね、そうだと嬉しいわ」


 美紅の父親が望んでいる友情とは、同じく商家、もしくは軍人の家柄、欲を出せば華族の娘と育む上流階級のそれで、間違っても親なしの平民の娘と育むものではない。

 だから、美紅の父親の中では、伊吹は美紅の友人の枠には当てはまらない。

 その為、商談相手にするような社交辞令を言う必要もなければ、無理に笑いかける必要もないのだ。


 安全を優先するなら、厚意に甘えるのもありだとは思う。

 けれど、伊吹を大歓迎する美紅と、煙たがる父親の間で対応に困る女中や、美紅の母親や兄を見るのは気が引けるのだ。

 今だって十分すぎるくらい世話になっていると自覚があるだけに。


 確かに関東の地震以降、神戸の街でも禍付きは増えたように思う。けれど、伊吹が知るそれは大抵ふくらはぎまでの大きさの黒い靄だった。

 ずっと家にあった躑躅の帯留めに何かが取り憑いていたと思うとゾッとするが、あの影は消えてしまったし今更どうにかなることはないだろう。

 喋る赤い影は禍付きから守ってくれたのだから、付喪神とかの部類ということにしておく。


 祓い屋か拝み屋かよく分からない男のほうは、もう二度と会うことはないだろうし、駄目になってしまった着物と帯とハンカチとエプロンに関しては色々と物申したい気もするが、最初に手を出した方の負けである。


 伊吹から仕掛けた喧嘩なので、こればかりはどうしようもない。

 むしろ、今更現れて難癖付けられても困るので、忘れ去ってほしいくらいだ。


「今週末は、泊まらせて貰うわ」


 昨夜の提案を思い出して笑顔を向けると、美紅が桜色の唇を持ち上げた。

 灰桜の地に流水と牡丹の柄の着物と、桃花色に鮮やかな手毬柄の帯を合わせた美紅の姿は遠目でも通りを歩く人の目を引く。

 窓際の席に腰かけてぼんやりしてくれているだけで構わない、と言われて、美紅が兄を怒鳴り散らしたのは記憶に新しい。


「来週以降もずうっと居てくれて構わないのよ?なんならそのまま兄様のお嫁さんになれば良いのよ」

「みみみみ美紅っっ」

 カウンターの回転椅子から盛大に転げ落ちた誠一が泡を食って叫んだ。

「恐れ多い事言わないで頂戴。おじ様が聞いたら卒倒なさるわ」


 絶対にあり得てはならないことだし、万一にでも美紅の父親の耳に入れば伊吹は白猫屋を出禁にされかねない。死活問題だ。


「そうかしら?時代は変わって自由恋愛が謳われる世の中よ?家柄や身分に拘るなんて馬鹿馬鹿しいじゃない?」


 職業婦人が増えて、女性の地位確立が叫ばれる世情を追い風と受け止めて胸を張る美人の誇らしげな笑顔といったらない。


「あたし、美紅のそういうところ、すごく好きよ」


 凡人の中の凡人に過ぎない伊吹が言っても何ら力を持たない言葉でも、美紅が言えば金言だ。

 心からの賞賛を込めて親友を見つめ返せば、潤んだ瞳が返ってくる。

 ひしっと両手を握られて、二人は視線を重ねあう。


「私がどれだけあなたとの友情に尊いものを感じているのか、この心を取り出してお見せ出来ないのが悲しいわ」


 真珠色の地に赤の花柄小紋と、樺桜に花薬玉の帯で今日も鮮やかな色を身に纏った伊吹がカラリと笑った。


「取り出さなくても結構よ、心は響きあうものですもの」






 あの夜の事件は狐につままれたと思うことにして、台無しになった着物を買い替えるべくせっせと女給仕事に勤しむ伊吹のもとに嵐がやって来たのは一週間後の事だった。


「いやー、犯人捕まってほんっと良かったなぁ」

「意識不明の状態で発見されたんだろ?」

「自業自得ってやつさ!お天道様は悪人を見過ごさねえってな!」

「おかげで俺たちも安心してここに来られるよ」


 そこかしこで楽しげな話し声が飛び交う白猫屋の店内で、着流し姿の男性客二人が新聞片手に話し込んでいる。


 ここ数日元町通の話題は、通り魔事件の犯人逮捕一色だった。


 伊吹が禍付きと遭遇した日の夜、男が悲鳴を上げたのは栄町通の片隅で倒れている若い男を見つけたせいだった。

 身元不明の書生姿の男の懐から血の付いたナイフが発見されたことで、通り魔事件の容疑者として捜査課が動いた。

 翌日の新聞には、警察の快挙がでかでかと報じられ、容疑者の男は意識が戻り次第取り調べを受けると書かれていた。


「別嬪さんの顔を拝めねぇと、どうも仕事がはかどらねぇ」

「あら、じゃあ今日から大忙しですのね」

「お前の仕事がはかどらないのはいつものことだろう」

「おいおい、看板娘の独り占めはやめてくれよ!美紅ちゃん、こっちにコーヒーお代わり!」

「私はサンドイッチを追加で。カラシは多めで頼むよ」

「はーい、かしこまりました!伊吹、コーヒーお願いできる?」

「はい、ただいま!」


 涼やかな青緑の地に風車が描かれた着物と、アールデコな鳥が刺繍された金糸雀色の帯を合わせた美紅の髪に飾られているのは、ひらひら舞う白群(びゃくぐん)のリボン。

 あちこちのテーブルから呼ばれて、店内をひらひらと踊り舞う風の妖精のような美紅の姿に、常連客たちが目を細める。


「今日は日差しも強いし、アイスクリームもいかがかしら?」

「美人に勧められちゃあ断れねぇなぁ、よし、アイスクリーム貰おうか」

「すぐお持ちしますね」


 接客上手の看板娘の営業文句に合わせて、厨房からアイスクリームを取り出した加藤にガラスの器を差し出してからコーヒーを入れて、伊吹はカウンターを出る。


 客が帰ったテーブルから、グラスとコーヒーカップを下げて、すっかり活気を取り戻した窓の向こうの元町通を眺めた。

 婦女子たちのパラソルの白、卵色のクロシェ、桑茶のキャプリン、そこに混ざる深い色合いの山高帽や中折れ帽の紳士たち。


 事件が解決するまでは足早に通りを歩いていた人たちも、平穏を取り戻した今はのんびりと買い物を楽しめているようだ。


 きっと新開地の目抜き通りはもっと混雑しているだろう。


 若緑の麻の葉柄の着物に鳥の子色のアールヌーボーの帯を合わせた今日の伊吹の装いは、南京藤の絞りの帯揚げが差し色になっている。


 この帯には、躑躅色のあの着物もとっても合うのに・・


 詮無い事をつらつらと思い浮かべる伊吹の視界に、背の高い二人連れの男が飛び込んできた。


 店の前を通り過ぎるかと思いきや、看板を確かめて店内へと入ってくる。


 そして、伊吹の前で立ち止まった。


 中折れ帽を被った二人のうちの一人が、帽子を軽く持ち上げて垂れ気味の目尻を綻ばせた。


「げっ・・・」

「よかった、やっと見つけた」


 二つの声が重なる。

 思い切り顔を引き攣らせた伊吹と、怪しい術師の男との再会の瞬間だった。








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