エルキドゥナル

水澄

第一話『苦悩』

 『娘』の話をしよう。


 娘は精神保健福祉士PSWの母親と教育学者の父親の間に生まれた。

 娘は命の花と書いて『命花めいか』と名付けられた。

 娘は夫婦にとって命であり、花のように優しくて美しい人間へ育つように、と願いを込めて。

 夫婦にとって唯一無二の宝として、娘の生まれは祝福された。


 娘は命のごとく清廉無垢、花のように静謐せいひつ可憐だった。

 娘は野に佇む花のように物静かで、変化に不安を感じやすい繊細な気質だった。 

 それでも赤ん坊と遜色ない無垢な微笑み、動植物や自然への強い関心と愛情は天使さながら愛らしいものだった。

 娘は両親にとっての愛し子だった。


 たとえ、他の子どもと同じ言葉を喋らなくても。


 生まれながらに、自分達とはで生きる存在であったとしても。


 「それでは、今日もよろしくお願いします」


 昨年と比べて花冷えの日が長引いていた中春の早朝――。

 この日も『天野美琴あまのみこと』は、出勤のために玄関で靴を履きながら、携帯端末スマートフォンの通話相手へ、依頼内容と時間割の確認をする。

 相手は今村いまむら洋子ようこ・行動援護従事者だ。

 二十代後半の若手だが、福祉業界では技術も心構えもベテランに恥じないものだ。

 上司の知り合いから紹介されて契約した人物なだけあって、信頼に足る仕事ぶりを見せてくれた。


 『それでは……今日も予定通り、午前八時〇分に自宅へ迎えに行き、午前八時二十五分発・瑠璃華大学前駅行きの電車に乗り、午前九時〇分開始の一限目「基礎心理学I」の講義に間に合うようにします』


 未だ若くて優秀でありながら決して気取らず、むしろ穏やかで落ち着いた雰囲気は無条件に安心感を与えてくる。

 その辺りは、今村を紹介してくれた知り合いとは意見が一致し、娘すら彼女に懐いているのも頷けた。


 「いつも丁寧にありがとうね……それじゃあ頼むわね、今村さん」


 今日も嫌そうな声色一つ出さずに、依頼内容の流れを事細かに説明してくれた今村に、美琴は感心と感謝を抱きながら通話を切り上げた。

 洗髪料だけでまともに手入れしていないパサついた亜麻色の髪を、ゴムで無造作に一束ねする。


 「


 氷砂糖を溶かした水のように甘く透きとおる声。

 いつの間に気配もなく近づいてきたのだろうか。

 突如うなじに雪を当てられたような柔らかい寒気に、肩を軽く跳ねさせた美琴は振り返った。


 「おはよう。もう起きていたのね?」


 ごく自然な微笑みを張り付けて応答する自分に美琴は、患者クライエントと接している時と同じ居心地の悪さを覚えた。


 「うん。ママのでかける、おと、がしたから」

 「そう……ごめんね、起こしてしまって」

 「ううん。ママが、おしごといくまえに、かお、みたかったから」


 機械仕掛け人形じみた話し方、抑揚のズレた声色は特徴的だ。

 あどけない眼差しに舌足らずの稚拙な話し方は、昔から変わらない。

 やはり、娘が来年に成人を迎える女性には到底見えなかった。

 しかし、娘の年齢に不相応なあどけない口調と雰囲気は、不思議と愛らしくて微笑ましさすら喚起させる。


 「ありがとう……先に行ってくるわね。後であなたも気をつけて」

 「うん、ありがとうママ。いってらっしゃい」


 美琴の心内を知る由もない娘は、天真爛漫に答える。

 無邪気に細めた瞳に映った母・美琴も、自然と笑顔を浮かべる。

 無垢な愛情と無条件の信頼を惜しげなく寄せるこの娘の前では、嘘も恐れも全て無意味なのだ。


 「きょうも、ずっと……」


 踵を返す前に、娘からぎゅっと強く抱きつかれた美琴は足を止めた。

 腰辺りまで伸ばした長い黒髪は一度も染めたことがなく、洗髪料の自然な甘い香りが仄かに漂った。

 既に自分を追い抜きそうな身長まで成長した矮躯から伸びる、無垢な白い両手に絡まれる。

 しかし、耳許をくすぐる囁きはどこまでも幼く甘やかで、胸は妙にざわついた。

 

 胸の辺りに小さな固い感触がコツっと当たる。

 娘が昔から大切にしている首飾りだ。

 青い地球みたいな瑠璃石ラピスラズリが、娘の首元で煌めく。

 楕円にトゲトゲを生やした太陽かお花が半分に欠けた形状を成す。

 

 深い瑠璃色に澄み輝く石は不思議なことに、赤ん坊だった命花が持っていた。

 胎児が石を握り締めた状態で産まれた不思議な現象に「きっと神様の贈り物ね」、と。

 浪漫的ロマンチックな助産師の台詞に、美琴も微笑みを止まらなかったのは未だ記憶に新しい。

 命花自身も不思議な瑠璃の石を首飾りにして、肌身離さず大切に持ち続けていた。


 「……私もずっと……大好きよ」


 きっと娘には理解し辛いだろう。


 母親である美琴自分分は、いつも何を胸に娘を想うのか。


 「愛しているわ、命花」


 娘の全てを愛し慈しみながらも、胸の奥で密かに巣食う影の感情を。


 「いって、らっしゃい、ママ」

 「……そうだ。今夜は仕事が長引きそうだから、夜ご飯は一人になってしまうけど、大丈夫ね? 夕食は冷蔵庫に入っているから」

 「うん、だいじょうぶ。『だから、さみしくないよ」

 

 だ――今最近始まったことではなく、昔から繰り返し耳にし飽きた言葉。

 大学でも、同じことを周りに言いふらしていなければいいのだが。

 娘の自室に飾られたカンバスや絵描き帳スケッチブックにいる『後ろ姿の天使』――。

 薄氷さながら虚ろに凍った瞳の娘――。

 否、今は思い出すのをやめよう――。

 美琴は瞳の奥に焼き刻まれた記憶景色を振り払った。

 内心溜息を吐くと同時に、不安の暗雲が立ち込めていくのに気付かないフリをした。

 「そう」、と否定も肯定も乏しい曖昧な返事だけをして、やっと玄関の外へ踏み出した。


 *


 真っ暗くて狭い静寂は好き。

 昼の太陽に温められた後、夜月にひんやりと涼しくなった花畑みたいに柔らかな夢心地のものさえあれば完璧。

 そしたら、大いなる自然の存在に抱擁されているような安らぎに、身を沈められる。


 ゆっくり、瞳を閉じれば美しくて懐かしい故郷――本来、が見える。


 生まれた時からずっと、そんな感覚を抱いてきた。

 今ここに在る自分は、この世界の住民ではない。

 生まれながらのの持ち主だ、と。


 幼い頃は自覚すら抱いてなかった分、毎日ひたすら戸惑いながら常に手探りに生きなければならなかった。

 人の顔が見えないまま、どうやって相手が誰で、今どんな気持ちでいるのか分からないといけないのだ――と世界に厳しく教えられた。

 嘘だと分かっていながら、悪いことだと知っていながらも決して口にしてはいけないと教えられた。

 自分が好きじゃないものを好きだと言い、好きなものを嫌いと言わないといけない事もあると教えられた。

 他の子どもは、実に見事なまでにその心の技術を獲得するのだが、私は未だにどうしてもできない。

 やってみたとしても、猿真似さながら稚拙でみっともない、出来が悪いのだ。


 それでもいいよ――。


 ヒトの心が分からないと言われた自分でも、それは本心だと分かる言葉を贈ってくれた大好きな『あのヒト』を想う。

 を生きる自分は、四六時中あのヒトを繰り返し思い描く。

 もはや、呼吸と同じくらい大切で付き纏う存在なのだ。

 首元から揺らめく瑠璃石を、指先で摘んで眺める。

 星海のように艶めく瑠璃石は、太陽か花に似た不思議な形をしているのが可愛らしい。

 物心ついた頃から肌身離さず大事に持ってきた首飾りは、自分と優しい世界、そしてあのヒトを繋ぐ大切なへその緒と似ている。


 「もうこんな時間……」


 一枚の真新しいカンバスに色を描いていた途中、携帯端末に設定していた時限装置タイマーは鳴った。

 今日は午前八時〇分に今村洋子が迎えにくる。

 午前八時二十五分発・瑠璃華大学前駅行きの電車に乗り、午前九時〇分開始の一限目「基礎心理学I」の講義を受けにいく。

 予定通りに事を進ませるには、三分後の七時三十分から十五分以内に朝食を済ませる必要がある。

 出来れば、このまま延々と筆を走らせ続けたい欲を何とか抑え、水彩盆パレットの蓋を静かに閉じた。


 「おまたせ。ごはんにしよう? 


 天野命花は無邪気に呟くと、パタパタと階段を降りて行った。

 淡い若草色や薄水色の絵具が飛び散った、乳黄クリーム色の野暮ったい長衣ワンピースも脱がないまま。

 窓風にゆらめく萌黄色の窓掛け布カーテンを背後に佇むのは、一枚のカンバス。

 清明な森の緑に艶めく長い髪と両翼を生やした天使は、背を向けて天を仰いでいた。

 何かを哀しげに呟いている寂しげな唇を覗かせて。


 *


 『ひじりクリニック』は、精神疾患と巷で広く報道され始めた「大人の発達障害」患者の治療に留まらず、本人と家族の生活に関する相談と支援に力を入れる画期的な診療所だ。


 「では天野さん。午前十一時には、一ヶ月前に電話で予約してきた初診の花田紀江さんとその母親との初回面接インテーク。そして午後二時にはデイケアの寺島さんとの定期面談をお願いします」

 「分かりました、聖先生」


 通院患者が日中に過ごせる”地域での身近な居場所”として併設された「精神科デイケア」で、美琴は二人目のPSW精神保健福祉士として務めている。

 

 近年PSWの需要は高まってはいるものの、実際にPSWを配置している精神科・心療内科は未だ少数派だ。

 PSWを二人も配置している聖クリニックの取り組みは、革新的と言える。

 十年前から二代目院長を務めるひじりいつき先生は、三十代後半の若手でありながら老成した落ち着きの深い鷹揚な人物だ。

 

 『精神疾患に薬物療法は非常に有効だが、ヒト・心・人生は薬だけでは治せない』


 クリニック開院当初から引き継がれてきた聖先生の治療理念には、美琴個人もPSWとしても共感と尊敬を覚えた。

 さらに聖先生には、「娘の件」でもお世話になりっぱなしだ。

 数年前、あんな『恐ろしい出来事』が娘の身に起こり、娘は恐怖と絶望感、美琴は激しい後悔と罪悪感に苦しんでいた最中。

 聖先生と彼と繋がっていた人達に助けられていなければ、今頃は――。


 「天野さん。命花ちゃんからメッセージでも来ているのかしら?」

 「ええ。いつもは今村さんの報告だけど、娘からは珍しいですね」


 昼休憩中、美琴と同僚看護師の三島由紀子の二人は他の職員と交代し、事務所の専用デスクで昼食を取っていた。

 弁当屋を営む「就労継続支援B型事業所」からクリニックへ配給される手作り弁当は、栄養バランス満点で美味だ。

 値段もたった二〇〇円前後であるため、料理も財布も厳しい患者だけでなく多忙な職員も重宝している。

 手羽元の紅茶煮と青菜きのこのバターソテー、わかめご飯、出し巻きの素朴な美味しさに舌鼓を打ちながらも、二人は世間話に興じる。

 最中、美琴の携帯端末に搭載された無料メッセージアプリ・ライクは、娘からの連絡を受信した。


 「あの命花ちゃんが大学に通って、お母さんにライクを送る。まさに学生! って感じで新鮮ねぇ。うちの息子はライクを送っても返事が素っ気なくて」


 看護師歴三十年の気さくなベテランである三島は、美琴の娘とも面識がある。

 休憩時間では、互いの子どもの話ができる数少ない相手だ。

 今年の春に、命花が『国立瑠璃山大学』へ入学したことも話した。


 「本当にそう思います。入学式から三週間しか経っていない今でも実感が湧いてなくて。命花がこうしてまた学校に……しかも大学にまで行かせてもらえるなんて」

 「……ええ。きっと命花ちゃんも成長しているのね。私達親の知らない内にね」


 感慨深そうに呟く美琴の声と表情には喜び反面、不安と切なさがない混ぜになっている。

 数年前に受診した頃の命花を今も覚えている三島も、美琴の複雑な胸中を察した。

 三島の優しい眼差しに見守られる中、娘からのライクを開いた美琴は瞳を瞬かせた。


 「どうかしたの? 天野さん」

 「あ、すみません三島さん。その、どう返事したらいいのか」


 ライク全文を読み終えた美琴の悩ましげな沈黙と表情の理由は、内容にあった。

 返信に窮している美琴の携帯画面を、三島は少し遠慮がちに覗いた。

 しかし、三島の顔に自然と浮かんだのは微笑ましげな表情だった。


 「あら楽しそうじゃない。サークル主催の新入生歓迎パーティーだなんて。懐かしいわ」

 「はい……ただ、命花も少し悩んでいるみたいです」


 命花の連絡内容は四限目の授業後、体験中のサークルが主催する新入生歓迎会があるため参加すべきか、という相談だった。

 

 大学生にもなれば、親へ報告したのだから参加自体は悪いことではない。

 ただ命花の場合、問題は午後五時以降はヘルパーの今村も時間終了だ。

 それに、娘を大勢の知らない同級生に囲まれる空間へ、一人で行かせることに強い不安が付き纏う。

 最近ここ一年は、パニック発作を起こさなくなった命花だが、強い不安に神経が昂りやすい性質は昔のままだ。


 『命花はどうしたい?』


 親としては心配反面、せっかく入った大学時代にしか体験できない青春を取り零してしまうのはもったいなかった。

 先ずは、一番大切な命花の素直な気持ちをライクで問い返した。

 幸い、返信は数分足らずで来た。


 『正直な話、ちょっとだけ興味はないこともないけど……やっぱり不安で……でも、行っておいたほうがいいのかなって』


 命花の伝えたいことは、生まれた時から娘と長く接してきた自分には理解る。

 娘の本心は普段通り定時に帰宅し、絵描きへ没頭する「いつもと変わらない日常」だ。

 齢としては成人寸前へ成長した娘は、昔よりは他人と世界にまったく興味がないのではない。


 ただ、それが一般的な人達よりもだけ。


 ただ、他の人よりも興味が非常に限られ、優先順位が人よりも自分の趣味やモノに先立つだけ。

 きっと娘も本当に自分が行きたいのか、行きたいと感じるだと言う義務感に駆られているだけなのか複雑なのだろう。


 『命花の傍に優しいって感じる人はいる?』


 美琴にとっても何気なく大切な質問に胸が高鳴るが、ライクの返信は朗報だった。


 『一人だけ。同じ学科の一年生』


 一人でも親しくなれそうな同級生と巡り会えたなら、美琴が反対する理由はほぼない。

 命花は対人恐怖や不安が人一倍強いせいか、冗談や皮肉は見抜けないが、相手の人間性への直感に優れている。

 歓迎会をきっかけに、命花がやっと友達と呼べる同年代の誰かと関わりを深められたら喜ばしい。


 『ならせっかくだから、試しに参加してみてはどうかな? 今日はママも七時までクリニックにいるから迎えに行けるわ。途中で辛くなったらいつでも連絡入れていいから』


 聖クリニックの最寄り駅から瑠璃山大学前駅まで、わずか五分離れているだけ。

 退勤後なら、その足で直ぐに命花を迎えに行ける。

 歓迎会の主催場所も、駅前に建つ焼肉店だと教えられたため、合流は容易い。


 『ありがとう! ママ。そしたら、歓迎会に参加します。終わったら連絡します』

 

 ライクの文面だけでは伝わらないが、文章を打つ命花は今頃かつてない戸惑いや緊張、微かな高揚を芽生えさせていることを母親美琴は容易に想像できた。


 「よかったわね。命花ちゃんも喜んでいるわ」

 「そうでしょうか」

 「もちろん。命花ちゃんが瑠璃山大学の心理学科受験に合格できたのも、こうして”普通の女の子”みたいに今からできるお友達と一緒に楽しい学校生活を満喫できるのも、お母さんあなたの支えのおかげだわ」


 決して気休めやお世辞ではなく、心からの笑顔の台詞を述べる三島に美琴は励まされた。

 三島の言葉こそ、美琴が彼女と聖先生へ返したいくらいだ。


 「そんなこと……むしろあの頃、聖先生と三島さんがいてくれたおかげでだいぶ救われました。私のによって、傷ついてしまったあの娘はっ」


 違う。こんな贖罪を言いたいのではない。

 本当は感謝と笑顔を見せたいはずだ。

 しかし美琴の口から突いて出た言葉は、数年前と変わらない強い自責の念と罪悪感だ。

 淡い隈の浮かぶ下瞼から化粧気のない青白の頬へ、一筋の水滴が零れた。


 「天野さん……同じ母親として気持ちは痛いほど分かるわ。でも、あまり自分を責めないで? そんなお母さんの姿、きっと命花ちゃんは悲しむわ」


 美琴の台詞の理由と意味を知る数少ない人間である三島は、心配の面持ちで真摯に励ます。

 口癖のように根付いてしまった後悔と自責の繰り返しループに美琴も、我ながら嫌気が差す。


 「ごめんなさい。分かっているのです。自分を責めても過去を悔いても、仕方がないと。それでも考えてしまうんです……もしもあの時、命花にもう一つ別の道を選ばせれば……に従っていれば、何か違ったんじゃないかって……っ」


 命花が未だ六歳だった頃、美琴は旦那と”離婚”した。

 理由は、命花を「普通学級」のまま進学させたい美琴、「特別支援学級」のある小学校もしくは遠い田舎町の「特別支援学校」に通わせたい旦那との意見の対立。

 元夫の台詞が今も鮮明に蘇る――。


 『美琴、お前は母親としてもPSWとしても間違っている。私に従うべきだ』


 諍いの末に離婚の決定打となったのは、美琴への不満や苛立ちを爆発させた夫の娘に対するだった。

 元夫は命花の異変に気付いて受診を促し、「診断」を与えられた娘をすんなり受け入れた。

 勤勉で理解の深い彼を、美琴は理想のだと信じて疑わなかった。

 だからこそ自分の目を疑った。

 美琴にとっても衝撃的な事件は、夫婦関係の亀裂を修復不能なまでに広げた。

 結局、両親の離婚と美琴の親権勝ち取りよって、命花は自然と普通学級へ進学した。

 しかし、今となっては己の個人的な価値観と選択は、命花にとって本当によかったのか、溜飲の下がらぬ疑問が湧く。


 「命花が生まれた時点で、母親の私はもっと早く気付いて、何かしてあげるべきだったんじゃないかって」


 生まれた時から命花は、他の普通の子ども達と違っていた。

 赤ん坊の頃から、命花は野に咲く花のように穏やかで寡黙な娘だった。

 子育てにありがちな夜泣きやかんしゃくはほとんど見られず、泣くのは空腹や排泄、眠気を訴える時ぐらい。

 命花が最初で唯一の子どもだったため「赤ん坊は案外育てやすい」、と拍子抜けすると共に変に納得した。


 今思えば、命花の「こちらを見ているようで、透明な眼差し」は異様だった。


 目と耳がついていないのでは? と疑うほど周りへの無関心、紙や色、物に対する強い執着など予兆はいくらでもあった。

 そして、四歳を過ぎても意味のある言葉を話さなかった。

 代わりに、独特な抑揚の無意味な発声や、英語ともつかない謎の外国語単語しか漏らさなかった姿に確信した。


 『あなたの娘さんは――「高機能自閉症」に該当するかと思われます』


 四歳になった命花は、「他の子どもとは明らかに違う」と気付いた旦那と保育士の指摘が始まりだった。

 旦那に紹介された精神科医へ命花を診てもらった際に、美琴は静かに告げられた。

 自閉症は知っている。

 PSWの勉強時代に、名前と簡易な説明は教科書に記載されていた。

 実習で訪問した知的障害者福祉施設でも、自閉症児と会った。


 でも、自閉症? しかも高機能自閉症?

 普通の自閉症と、何が違うのか。


 美琴にとって、知っているようで聴き馴染みのない診断名にただ頭が混乱し、鬱然とした衝撃へ沈められた。

 

 あの日を境に、家族の全てが変わってしまった気がしてならない。


 「天野さん……どちらが正しくて、何が一番良かったかなんて、誰にも分からないわ。どちらを選んでも、必ず何かしらの困難はある。ただ言えるのは、今の選択のおかげで命花ちゃんは入りたい大学で好きなことを学べる。それは幸せなことだと思うわ」


 今度の三島が紡いだ言葉は、ただの励ましではなく事実だった。

 三島の言う通り、普通学級にいた命花は小学校の段階から後の大学受験に欠かせない一般教養の基礎を学べた。

 今は大学でより高度で専門的な勉強ができるし、将来は安定した就職の選択肢も広がる。

 まさに、美琴が普通学級に固執した理由と求めた結果であった。

 それは間違いではない、と美琴も信じたかった。それでも――。


 「ありがとうございます、三島さん。ただ……それは命花が幼くして父親を失い、仲の良い友達を作ることなく孤立し……同級生からを受けた――命花の苦痛に見合う対価なのか。最近はそんなことを考えてしまうの……っ」


 今度の美琴が放った沈痛な台詞に、さすがの三島もついに閉口した。

 美琴の選択は、安定した一つの人生設計として正解だった。

 しかし、にとって、本当に正解だったのか。

 その答えは、美琴と命花にしか導き出せない。


 「ごめんなさい、三島さん……またこんな話をしてしまって」

 「いいのよ、気にしないで。困った時はお互い様じゃない。天野さんは私の息子のこともよく話を聞いてくれるもの。ただ天野さんも疲れているなら、休める時はしっかり休んでね」

 「ありがとうございます」


 母親としての苦悩と葛藤へ理解を示し、娘の命花にも親身になってくれる職場と同僚の存在は本当に心強い。

 新たな人生の節目を歩み始めた天真爛漫な命花。

 そんな娘を見守る美琴の過去の傷や悔恨は、時間をかけて少しずつ折り合いをつけるしかない。

 今夜娘が大学の同級生達と親睦を深め、今度こそ充実した学生生活の門出を祝う楽しい歓迎会になることを願った。


 *


 午後六時半頃、「ちゃんちゃん焼肉店」で瑠璃山大学新入生の歓迎会が催されている最中。

 手洗い場へ用を足し終えた自分が席へ戻ると、左隣に座っていたはずの同級生は消えていた。


 「あ! 佐藤君おかえり〜。飲み直そ?」

 「ああ……それより、知らない?」

 「あまのぉ? 何か具合悪いから、さっき先輩達が送るって外に行ったよ〜」


 代わりに空席を陣取っていたほろ酔い気味の同級生・『加納かのうエレナ』から聞いた話、空になったスクリュードライバーのグラスに、『佐藤祐介ゆうすけ』は胸騒ぎを覚えた。

 

 天野命花は、同じ心理学科の必修講義とオリエント文学の講義が重なることからよく顔を合わせた。

 天野命花の第一印象は、とにかく不思議な女の子。

 今時の女子大生の中では、絶滅危惧種レベルの純朴さ。

 どんなに退屈な講義も最後まで眠気眼なしで聞き入り、課題も必ずこなす勤勉性。

 普段の天野はもの静かだが、好きなことを話し出すと子どものように目を輝かせながら夢中で止まらない。

 他の学生にはない尋常ならぬ熱意と知識の豊富さは、祐介も一目置いている。

 一方純粋で天真爛漫な少女のまま大人になっただけあってか、彼女は冗談の通じない世間知らずだ。


 先程も先輩が手渡してきたグラスを、本物の蜜柑果汁オレンジジュースだと疑わずに飲もうとした。

 飲み会の場で笑顔と蜜柑果汁を差し出されたら、先ずはスクリュードライバーを疑う。

 しかし、天野はそんな定番のひっかけもスクリュードライバーも知らない様子だった。

 危うく先輩の毒牙にかかる寸前の天野から、裕介は酒を奪って注意を促した。

 さらに、途中で手持ち無沙汰になってスケッチブックを取り出そうとした彼女の話し相手にもなってあげた。


 知識と理解力は大人顔負けなのに、心は純粋な子どもさながらふわついた夢に夢見る神秘的ミステリアスな天野。

 彼女が周りに馴染めずに孤立気味なのも、祐介は放っておけなかった。

 しかし、混雑していた手洗い場へ裕介が席を外していた隙に、天野は先輩達と共に姿を消してしまった。

 加納の言った通りならいいのだが、天野にもしものことがあれば気が気でならなかった。


 「ねぇ佐藤君。今から私と抜けない?二人で……」

 「ごめん。用事を思い出したから」


 いてもたってもいられなくなった祐介は、鞄を取って焼肉店を後にした。

 背後から加納の不満げな甘え声が響いていたが、裕介にはもう届かなかった。

 まだ、遠くへ行っていないといいが。

 焼肉店の裏手にある駐輪場へ駆けつけると、天野と先輩達の姿を遠くから確認できた。


 「待ってくれ! 天野!」


 足元のおぼつかない不調な天野を、先輩二人は甲斐甲斐しく支えながら車へ乗せようとしている。

 遠目からは、先輩らが後輩を親切に介抱しているように見える。

 しかし、先輩の一人は女子への身体接触ボディタッチの多い軟派な男で良い印象はない。

 天野を先輩達へ任せると、彼女が傷つくかもしれない悪い予感は止まらない。

 祐介は、最大声量で天野を遠くから呼び止めた――。


 *


 午後六時五十分頃――勤務時間終了直近で、今日の診療録の整理をしていた美琴は、溜息を零した。

 午後は仕事中も時折娘の顔が頭を過ぎったが、幸い娘の方から緊急連絡は入っていない。

 今頃娘は、初めての大学生活の青春の一ページたるサークルの歓迎会を無事楽しめているのかもしれない。

 娘に会いたくなった美琴は、逸る気持ちで白衣をロッカーのハンガーへ掛けた。


 「天野さん、お疲れ様です。申し訳ないですが、少しよろしいですか」


 外套コートを羽織り、鞄を肩に背負った所で、同僚の一人が尋ねてきた。

 デイケアの固定電話の受話器を見た美琴は、担当患者か関係機関からの急な連絡かと思った。

 しかし受話器を一向に手渡そうとしない同僚は、険しい表情で切り出した。


 「実はからの連絡です。その……娘さんの天野命花ちゃんの件で」


 看護師の口から溢れた単語と名前に、美琴は急な胸騒ぎに駆られ、恐る恐る受話器を耳に当てた。


 「もしもし……?」


 受話器越しに響いた無愛想な警察の声が奏でた、簡潔な報告と指示を聞いた直後。


 「天野さん……!?」


 呼び止める声すら耳に入っていない様子で、美琴は裏口扉から慌てて走り去った。


 *


 同時刻――煙の昇る焼肉店の周辺には、パトカーと救急車のけたましいサイレンと野次馬で騒然とさんざめく。

 事件現場の一つである駐車場では、人形さながら手足を弛緩させた男性二人を、救急隊員は担架で順番に運んでいく。


 「これはひどいな……」


 緊迫に張り詰めた惨憺たる現場、と被害者の無残な姿に、警察と救急隊員すら固唾を呑んだ。

 搬送された被害者の一人が所有していた車は、屋根が無残に剥がされ、座席にはおびただしい血飛沫が染み込んでいた。


 一体どういう状況が、ここまで凄惨な現場を生み出せたのか、まるで。


 首筋から背中にかけて走った深い裂傷から、真紅を咲き散らせた男子大学生二人――彼らの隣で、返り血一つもなく意識を失っていた”女子大生”の青い顔を見ながら、警察達は首を捻った。

 真紅をこびりつかせた被害者の手のひらから、何かがひらりと零れ落ちた。

 薄くて儚い物体は、夜の青闇で目映い水色に輝いていた。




***次回へ続く***

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