30 『宿恨サイエンティスト』

 サツキとヒナは、無言で歩いていた。

 移動中、ヒナはすれ違う名も知らぬ人たちを見てつぶやく。


「オレンジ色に輝く街は、人も多いわね」

「?」


 それには返事をせず、サツキはヒナを横目に見た。

 ヒナは、それ以上は口にせず、心の中でぼやいた。


 ――この時間のこういう街って、なんだか綺麗すぎて嫌い。みんな、幸せそうに見えるから。


 特に、父親と娘が仲良く歩いているのは見ていられない。

 ちょうどサツキとヒナが歩いているのが『おやばし』という名の橋で、古い橋のようだが随分と丈夫で立派なものであった。

 そこで、後ろから声がかかった。


「見つけたぞ。うきはし

「なに? また騎士だっていうの?」


 苛立ち混じりにヒナが振り返る。

 サツキも振り返るが、立っていたのは長身の貴族服のようなかっこうの西洋人で、アルブレア王国騎士なのかは判別できない。


「オレの名前は大楠金芥吾オークス・カナカイア。『がくきゅうどうしゃ』カナカイアといえば、イストリア王国マノーラじゃちっとは知られてる。といっても、おまえはオレのことなど知らないだろうな。そうに決まってる」

「知らないわよ。なんなの?」


 答えたのはヒナで、カナカイアの目に入っているのもヒナだけだった。サツキはなにかがおかしい気がした。


 ――ヒナは今日、騎士に追われたと言っていた。それはなにかの拍子に俺の名前を出したせいで関係者だと思われたからか、あるいはヒナが何度か俺と接触したことを騎士たちが把握していたから。いずれにしても、関係者だと思われたために、ヒナはアルブレア王国騎士から逃げ回っていた。今も、ヒナはそのつもりでいる。だが、相手は俺を見てもいない。そして、ヒナの名を知っている……。


 つまり、カナカイアはヒナ個人に用がある。

 カナカイアは、四十歳に近いだろうか。長身ではあるが、メガネと細長い顔は、騎士というより医者や教師といったほうがそれらしい。この季節なのに首に巻いている厚めのマフラーが目を引いた。

 カナカイアは言った。


「ならば教えてやる。オレは物理学者だ。それも、おまえの父親とは旧知のな」

「お父さん……」


 異常を察したヒナが問う。


「どういうこと? なによ、その敵対するような目」


 ただの知り合いの娘に向ける目じゃない。


「おまえの父親は本当にひどいやつさ。うきはしあさは、この世の常識をぶっ壊そうとしている。地動説なんか唱えて、世界をひっくり返そうとしてるのさ」

「違う! 地動説が正しい! 物理学者なら、今の天動説がおかしいことくらいわかるでしょ!」

「わかるかどうかじゃない。証明できていない。それがすべてじゃないか。あの浮橋朝陽って偽学者は、他人の研究を横取りするようなやつだ。そんなやつの言うことを信じられるわけがない。そうに決まってるだろ?」

「あんた、なにが言いたいわけ? 横取りってなんの話?」


 ヒナとカナカイアの言い合いを、周囲にいる人は何事かと聞いている。足を止める人もいれば、通り過ぎる人もいる。だが、観衆がいる以上、ヒナとしては負けるつもりはなかった。


「どうせ、あんたが研究してたことをお父さんが先に究明して発表しただけなんでしょ! そういうのを逆恨みっていうのよ!」

「だまれだまれだまれ!」


 大声でヒナの言葉を断ち切るように叫び、言葉を続ける。


「逆恨みなものか! オレのほうが先に研究していて、オレは必死にやった! なのに、なぜあいつが先に発表できるんだ? おかしいじゃないか! 横取りしたに決まってる! そうじゃないとつじつまが合わない! だからオレは偽学者のあいつのすべてが許せないんだ!」

「それを逆恨みだって言ってんでしょうが! 証明できてないとか言っておいて、あんたの言いがかりだって証明できてないじゃない!」

「だまれだまれだまれ! 後ろめたいやつはいつもそうやって屁理屈ばかり抜かしやがる! 裁判にかけられていい気味だと思ってたが、おまえが動いてることを知って、『がくきゅうどうしゃ』たるオレがイストリア王国から取り締まりに来たんだ! また不正しないように! 地動説なんてデマをこの世界に広めないように!」


 目を血走らせ、カナカイアはナイフを取り出した。


「だから、科学の歴史に禍根を残さないよう、おまえを始末する! ジリジリとたっぷり痛めつけてからな! オレは元マノーラ騎士、腕には覚えがある! ゆえに、おまえを絶対にイストリア王国へは行かせない! おまえはこの世から消えなきゃいけないって決まってんだよ!」


 カナカイアは駆け出した。

 高速の移動で、群衆の中を縫うように紛れるように走る。

 サツキは《いろがん》を発動させた。


 ――この《いろがん》でも見えないか。なんて速さだ。伊達に自ら腕に覚えがあると言ったわけでもなさそうだ。でも、大丈夫。痛めつけると言ってた。つまり、すぐには致命傷を与えてこないってことでもある。


 動体視力が高まっているサツキでさえも、カナカイアが見えない。当然、この周囲にいた人たちにはカナカイアの姿がまったく捉えられない。


「うおお! なんだ?」

「今、ぶつかった?」

「ていうか、地動説について言い合ってたけど、なにが正しいんだ?」

「浮橋博士って、人の研究を横取りとかしたのか?」

「え、晴和人として応援してたんだけど……」

「あの子、浮橋博士の娘なの?」


 周囲にいる人々は、消えたカナカイアに翻弄されるように騒ぎ出す。


 ――違う! お父さんはそんなことしない! 今すぐ否定してやりたいけど、しゃべってる余裕なんてない……。


「痛っ!」

「……っ」


 ヒナとサツキの頬に切り傷がつく。

 頬の熱くなったところを指でぬぐったヒナは、その指についた血を見て息を呑んだ。痛みと恐怖に身体が硬くなる。


 ――あいつ、どこに消えたの?


 スパッと、サツキの腕にも切り傷がつく。


「音さえなく、どこからか切りかかってきたのか」


 サツキのつぶやきに、ヒナがうなずく。


「そうみたい。あたしの《うさぎみみ》はどんな小さな音でも拾う。でも、周りが騒がしくて聞こえない。あいつの足音が……」

「周りのせいにするところは、父親そっくりだな! 浮橋陽奈!」


 どこからかカナカイアの声がする。

 声を探すようにヒナが頭を巡らせるが、どこにも姿を見出せない。


「人のせいにしてんのはそっちでしょ!」

「だまれ! 人に罪を押しつけるな!」

「なんなのよ、あんた!」


 悔しそうにヒナが叫ぶ。

 サツキは冷静に言った。


「ヒナ。世の中には、事実を言っても認めない者もいる。わからない者もいる。わかろうとしない者もいる。逆恨みされることもある。でも、世の中のことはすべて論理的にできているんだ。無数の論理が積み重なって集まって、その形が結果になるんだ。デタラメや間違いが人々の共通認識になる場合にも、そうなった因果がある。デタラメをつなぎ合わせて積み上げた人間たちがいるからだ」


 ヒナは鼓動が一瞬止まったように目を見開いてサツキの横顔を見て、瞳を潤ませる。


「朝が生まれて、夜が生まれて、その繰り返しの中で移り変わる空の景色は、地動説じゃないと説明できないようになってる。たぶん、それでもカナカイアは言ってもわかってくれない」


 そうしゃべる間にも、サツキの腕や脚はナイフで切られて、血が流れる。


「だから、まずはこの場は戦おう」

「うん!」


 覚悟を決めて、ヒナは大きくうなずいた。

 サツキたちの正面にフッとカナカイアが姿を現す。手に収まったナイフを指でなぞり、眉の間に深いしわを寄せる。


「戦うだぁ!? そんなの無理なんだよおッ! オレの音を聞き取れないのも論理なんだからよ」


 またカナカイアは動き出す。動きながら語りかけてきた。


「オレは元マノーラ騎士! 正義の騎士! 実力も認められたエリートだった! だが、オレは科学の道を選んだ! マノーラ騎士には智恵の足りない奴等が多かったから、オレの実力が理解されないこともしばしばで、それがストレスだったからな!」

「そんなのあんたに本当の実力がなかったからでしょ」

「今も痛めつけられて、オレのスピードを見て、それでもわからないのか? やはりおまえはつくづく頭が足りないな! オレは《ミュートマフラー》の魔法により、声以外のオレから発する音を消すことができる。しかもマフラーは空気を吐き出すごとに加速する。浮橋陽奈、おまえの魔法が音を聞く魔法だってのも運命がすり合わせた論理なのかもな。オレとは相性が最悪だぜ」


 カナカイアの挑発に、ヒナはひるまず言い返す。


「悪いわね。あたしは『がくもう』浮橋陽奈! 天才物理学者にして天才天文学者のお父さんの娘だから、運命なんて信じないの!」


 サツキは小さく微笑んだ。


 ――いつものヒナに戻ったな。


 サツキたちに注目していた一部の観衆がざわざわし始める。


「あいつ、血のついたナイフを持ってたぞ」

「でも、それだけ怒ってるってことなのかもしれないわよ」

「どうだかな。あの男、まだ自分の都合しか言ってないぜ?」


 周りの囁きを、カナカイアは聞き分けた。そして、カナカイアの言動に疑念を抱いたような発言をした青年を切った。青年の腕には、ナイフにより大きな切り傷ができ、血が噴き出した。


「うああああ!」

「きゃぁっ!」

「な、なに!?」


 隣にいた人たちが戦慄しあわてふためく。もうカナカイアについての非難を口にする者もなくなる。ただ見守るだけになった。

 ヒナがサツキに言った。


「これ以上、あいつを好きにさせちゃいけない。あたしのせいで、他の人にも危害が……」

「だな。早く片をつけるぞ。でも、ヒナのせいじゃない。あいつの身勝手のせいだ」

「う、うん。だよね!」

「ヒナ。あいつの呼吸とか息づかいとかは聞こえるか? 目では追えないから、音で探れると助かるんだが……」

「そんなのいいんだよ。サツキ」

「?」


 強気なヒナの顔に、サツキは期待を持って聞いた。


「つまり、策はあるんだな」

「一つだけ。サツキ、あたしを信じてまっすぐ正面を攻撃して。あたしの合図に合わせて、まっすぐに」

「了解。俺は不器用だから、まっすぐは得意なんだ」


 すぅっと息を吐き出し、サツキは肩幅に足を開く。両手の拳を前にやり、集中を始めた。


 ――《せいおうれん》。


「ヒナ。あと二分だけ待ってくれ」

「わかった」


 カナカイアは挑発を続ける。


「どんな策があるって? あと二分だけで盤面をひっくり返すってか? だが、オレの移動を追えるわけがないのさ! 決まってる! オレが教えてやるよ、おまえらの死をもってな!」


 声と共に、サツキの足にまた切り傷ができる。

 ヒナの足首にも切り傷がつく。


 ――痛っ! でも、我慢! サツキの集中の邪魔をしないようにしなくちゃ。


 今度はサツキの腕にもさらに切り傷ができる。両腕両足、肩にまで切り傷ができて白い服には血が滲んでいる。

 そんな中でも、サツキは構わず目を閉じて集中力を高める。魔力を圧縮して強く練り込んでゆく。


 ――サツキ……なんて集中力なのよ。身体も傷つけられてるのに。助太刀したって利益なんてないのに。あたしの戦いなのに。でも、今ならわかるわ。サツキには、そうやってまっすぐに立ち向かうべき敵がいるんだよね。だから、そんなに気持ちが強いんだ。あたしも、足首の痛みなんてふりほどいて、サツキに教える! この《うさぎみみ》を澄ませて、敵の位置を捕捉する! ……そろそろ、二分経ったよね。


 ヒナも目を閉じた。


「そろって目を閉じて、戦う気をなくしたか? やっと己の間違いに気づいたか? そりゃそうだ。オレが勝つに決まってるからだぁ! 死の前にたっぷり痛めつけるって言ったあれ、まだまだ終わってないぞ! 泣け! 叫べ! 苦しめ!」


 やかましいカナカイアの声を無視して、ヒナはうさぎの耳に神経を集める。


 ――こいつ、カナカイアっていったっけ。あんた、修業が足りないんじゃないの? それで、本気で音を消せてると思ってるの? あたしがちょっと集中すれば、その程度のかすかな足音、聞こえるってのよ! そして、あんたの軌道の計算だってできるんだから!


 わずかに聞こえる音を聞き分け、ヒナは鋭く言った。


「今よ!」

「はあああああぁっ!」


 合図を受け、サツキは弾き出されたような瞬発力で、真っ正面に向かって拳を突き出す。


「サツキ!」

「《ほうおうけん》!」


 集めた魔力を解放させる。

 まっすぐ最速で放たれた正拳突きは、正面を横切ろうとしたカナカイアの顔面を直撃した。

 めりっと音がしそうなほどにクリーンヒットすると、


「ぃあああああああ!」


 カナカイアの長身は、数メートル吹っ飛ぶ。仰向けに倒れ、伸びてしまった。

 傷だらけで勝利したサツキとヒナを、周囲にいた人たちは拍手で讃えてくれた。なにかのショーだと思われたわけではないだろう。だが、「すごいぞー」とか「かっこよかったぜ!」といった声援も送られた。

 サツキは数メートル先にいるカナカイアに、届くことのない声をかける。


「俺にあなたの真実はわからない。でも、本気で悔しかったら、こんなことしてる暇はないよな。きっと、まっすぐ地道に集めた論理たちが証明してくれる。科学の歴史に、地動説を記してくれる」


 一連の流れを見ていたらしい人たちの会話も聞こえてきた。


「結局、あの男の言ってることは本当だったのか?」

「そんなわけないだろう。逆恨みってやつさ。決めつけでばっかりしゃべってるんだもんよ。『決まってる』が口癖の学者なんて聞いたこともねえ」

「そうだな。議論の余地なくすぐ『だまれ』だもんよ。考えてみれば、なに一つ論理的なこと言ってなかったなあいつ」

「わたしもそう思ってたの。子供相手にナイフ振り回してる時点でまともじゃないわ。自分を律することもできない求道者だもんね」

「おれは腕を切られたけど、やっつけてくれてすっきりしたよ」


 カナカイアに腕を切られた青年もそんなことを言っていた。

 急に、サツキの手がつかまれる。

 手首を引かれて、サツキは走り出す。

 もちろん、手を引くのはヒナだった。


「行くよ、サツキ」

「どこに……」

「人のいないところ! 話があるんだ!」


 ヒナがサツキを連れて行った場所は、砂浜だった。

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