第2章―1

 カッポ、カッポ……。

 心地よく揺られながら蹄鉄の音を聞いていると、のどかだなと――何度もその言葉が頭の中に思い浮かんでくる。

 ポカポカした陽気の中、穏やかな田園風景を背景に馬車はゆっくりと街道を北に進んでいた。

 ハルヒコは乗合馬車に揺られ、エオラの町に向かっていた。

 向かいの座席には軽装の兵士が二名。車内には彼らと自分だけしか乗車していない。

 ハルヒコが定期的に城に出向く日は、もっと早い時間帯に出発しているため、いつも数名の一般市民が同乗していた。エオラの町に村で採れた作物などを売りにいくため、みんな大量の荷物を抱えていた。また村で自給できない金物や陶磁器などを買い求めるために町へ向かう者もいた。そういった日用品を購入できるのは、この近隣ではエオラの町以外になかったのだ。

 乗合馬車はいくつかのルートを巡っており、市民は無料で利用することができた。元々は要所々々にある衛兵の駐屯所間で兵を輸送するために設けられたもので、もちろん今もその目的で運用されている。

 あるとき、この国の宰相であるマグダルが何気なく城下を見下ろしていたとき、徒歩でエオラの町を往来する民の中に幼い子どもの姿を見つけた。子どもとはいえ持てる限りの荷物を背負い、その足取りはおぼつかない。その姿に心を痛めたマグダルは、直ちに王へと進言した。輸送能力に余剰があるときは、市民も自由にその馬車に乗れるようにと。

 乗合馬車に停留所はなかったが、街道を毎日決まったルートで朝昼夕と運行していた。人々は街道沿いの思い思いの場所で馬車を止めて乗降することができた。ハルヒコの自宅は街道のすぐ側にあったので、馬車の姿を認めてから家の門を飛び出しても乗り遅れる心配はなかった。

 街道は緩やかに上り続けている。そんな街道と調子を合わせるように、麦穂の揺れる広大な土地が北に向かって延々と広がっていた。西には谷を挟んで大森林が大地を黒く埋めつくし、その先には白い冠をかぶった急峻な山脈が顔をのぞかせていた。

 街道の行き着く先は、この足元の大地が唐突に途切れる断崖絶壁の岬。ルアン国の最北端。大陸北の最果ての地――。そんな辺境の土地に、これから向かうエオラの町はあった。

 ところで今、北や西といった方角を語ってはいるが、実はこの世界に方位磁針――コンパスは存在しない。ハルヒコ自身、実際に目にしたこともなければ、方角を知るような道具がどこかにあるという噂も聞いたことがない。また、そこまでしっかりとした計器でなくとも、例えば水の上に何かしらの金属片を浮かべると決まった方向を指し示す、そんな現象はどうかというと、残念ながらそれさえも誰も見たことはないという。

 ――磁石が存在しないってことはないと思うんだけどな。

 電気があれば磁石を作ることは可能だ。だが、もしかすると地磁気がないという可能性も否定はできない。

 ――今度、試しに電池でも作ってみるか。

 幸い、鉄と銅らしき金属――元の世界と同じ金属かは定かではないが、色合いや硬さから類推してそう名付けている――が様々な用途で利用されている。その異なる種類の金属を電気が流れやすい電解液――もっとも簡単に手に入るのは海水だろう――に浸せば電池のできあがりだ。

 ――はずなんだけどな。

 元の世界なら……。

 では、この世界の方角はどのように決まっているかというと、これもコンパスがまだなかった時代の元の世界と同じで、太陽の動きから方角を定めていた。つまり、日が昇る方角が東であり、沈むのが西。正午――影がもっとも短くなるとき――に太陽のいる方角が南、その反対が北ということになる。

 ――磁石をもし作れたとして、それが北を指し示さなかったら……。

 それはそれでおもしろいかもしれない。

 純粋に好奇心が刺激され、すぐにでも確かめたいという衝動がハルヒコの胸に湧きおこっていた。


 馬車はエオラの城門前で停車した。

 町を取り囲む塀は大人の身長を少し超えるぐらいの高さで、目隠し程度にしか機能しないのではないかと、ハルヒコは最初その頼りなさを心配せずにはいられなかった。だが、実際には獣の侵入を防いだり、不審者の出入りが容易にはできないようにしたりといった最低限の働きは持ち合わせていたのである。

 そもそもエオラの地は王族の別荘地であり、本来の首都リュッセルはここより南方に馬車で二日ほどの距離にある。体調を崩した女王の静養のため、クロム王はこの地とリュッセルを往来していた。ルアン国の最も奥まった場所に位置しているため、エオラは戦を想定していない典型的な片田舎の町の造りをしていた。

 ハルヒコが馬車を降りると、すでに折り返しの出発を待つ人々が小さな行列をつくって待っていた。ハルヒコが御者にありがとうと言うと、彼は気のいい笑顔を返してくれた。

 ――この国の人は本当に気さくで、いい人達ばかりだ。

 ハルヒコ達がこちらの世界に飛ばされ、初めて助けてくれた人々もそうであった。

 ――国が豊かで平和だからなんだろうか。

 ハルヒコは城門に立つ衛兵に軽く会釈をしながら、町の中へと進んでいった。ハルヒコが城の関係者であることを衛兵はもちろん知っている。特に検査もされず門を通過することができた。町の住民など衛兵と顔なじみの者であれば自由に門を行き来することができたのだ。

 エオラの町には二百名ほどの住人が暮らしていた。鍛冶屋や薬屋、雑貨や生地をあつかう商店、宿屋を兼ねた食堂など、城下町であれば当然あってしかるべき店々が城へと続く通りに軒を連ねていた。町の門を入ってすぐの広場には露店がひしめき合い、近隣の村でとれた野菜や獣の毛皮、干し肉などがござの上に所狭しと並べられていた。

 通りも広場も商品を買い求めにきた人々でにぎわい、呼び込みの声もあいまって町は活気に満ちあふれていた。王の別荘地とはいえ、ここエオラは国の最北端に位置する僻地といってもいい場所である。それにもかかわらずこれほどの賑わいを見せるのは、やはり王が定期的に滞在し、さらに政務さえもここから執り行っていたからだろう。王が動けば必然的に人や物も一緒に移動せざるをえないのだ。

 ハルヒコは、申し訳ていどに蛇行した――ほとんど想定していない、外敵の進行を阻止するため――城へと続く通りを人にぶつからないように気をつけながら抜けていった。

 エオラ城の城門へと到着する。町の城壁と違い城は水をはった堀に囲まれており、今は城門側から跳ね橋が下ろされていた。どんなにハルヒコが頻繁に足を運んでいたとしても、さすがにここは顔なじみという理由だけで通してもらえるわけにはいかなかった。ハルヒコは肩にかけていた麻製のカバンを衛兵に預け、中の荷物を調べられている間、自分自身は軽いボディチェックを受けていた。

「結構です。どうぞ、お通りください」

「ありがとうございます」

 衛兵が中に荷物を戻してくれたカバンをハルヒコは受け取った。

「ハルヒコ殿は護身用の剣などは持たれないのですね」

 ハルヒコはカバンを肩にかけながら逆にその衛兵に尋ねた。

「普通はそういうものを持っておくものなんですか?」

「いえ、必ずしもそういうわけではないのですが。ハルヒコ様の身分であれば佩刀も許されておりますので――」

 国にもよるが、ルアン国では庶民の帯刀を禁じていた。この国がそれだけ安全であるという証でもあった。

「凶暴な獣が出たりとか、盗賊が出たりとかですか。村でも街道でも危険だと思ったことは一度もなかったのですが」

「盗賊はおりません。我々がしっかりと見張っておりますので。獣の方はときどき出没します。ですが、昼間はまず出てくることはないですし、夜は外出さえしなければ襲われることはありません。人の気配がある所には向こうから近づいてきませんから」

 ――じゃあ、あんまり刀を持つ意味なんてないんじゃないのか……。

「気分の問題かもしれません。自分は佩刀を許されている身分だと知らしめることもできますし。中にはほとんど装飾品のような剣を帯びておられる方もいらっしゃいます」

「ああ、そういうことですか――」

 ハルヒコは納得して顔をほころばせた。

「私には必要ないかもしれません。扱い方もよく分からないし。逆に自分がうっかりケガをしてしまう場面しか想像できないですね」

「もしその気になられたら、初歩的な扱い方をお教えいたしますよ」

 ハルヒコは自分が剣を振り回している姿を――いや、剣に振り回されている姿を想像してみた。苦笑いするしかなかった。

「ご子息も王子様とご一緒に頑張って励んでおられます」

「確か親衛隊の隊長さんに教えてもらっていると、息子からは聞いていますが」

「ええ、ウタル隊長です。確かな剣の腕を持つ剛の者です。教え方も実に上手い」

 あらためてハルヒコは自分達の置かれている境遇がどれほど恵まれているのかを再認識した。庶民なら、そのような立場の人に教えてもらうどころではなく、会うことさえ難しいだろう。たとえ、それが望んではいない剣術の授業であったとしても――。

「ありがたいことです。じゃあ、私は息子に稽古でもつけてもらいます」

 ハルヒコは衛兵と笑い合って城門を後にした。

 城内は大規模な城のように幾つかの区画に分かれていることもなく、馬の厩舎や武器を整備する工房、兵士の住居などが中庭に設けられ、その奥に城の中心的な建造物である居館も兼ねた主塔が建てられていた。この主塔にはクロム王やクイール王子ら王族だけでなく、宰相マグダルなどの家臣、彼らの身の回りの世話や食事の準備をする使用人達が暮らしていた。

 主塔の扉は開け放たれており、その両脇には衛兵が待機していた。

「こんにちは」

 ハルヒコが会釈すると、彼らからもまた気持ちのいい挨拶が返ってきた。

「マグダル様に呼ばれて参りました」

「ご苦労様です。マグダル様は別の用務で少し遅れるとのことです。執務室でお待ちください」

 ――あいかわらず、お忙しそうだ。

「分かりました。では、先にサムさんとマロニーさんのところに寄らせていただきます」

 そう言うと、兵士にとがめられることもなく、ハルヒコは主塔の中へと進んでいった。

 マグダルの執務室や王族の居室などは上階にあったが、ハルヒコは階段を上らずに一階のフロアをどんどん奥の方へと進んでいった。城のもっとも奥まった区画には厨房があり、王族や家臣のためだけでなく兵士や使用人など城に関わる人々のための一切の食事を取り仕切っていた。また、住み込みで働く使用人らの居室もあった。

 廊下は薄暗かった。窓から取り入れられた光が壁に何度反射してもたどり着けない。城のもっとも奥まった場所では常にランプが必要とされていた。下働きの者達がはたらく区画はこのような薄暗くじめじめとした場所にあったが、もちろん身分の高い王族や貴族が生活する場は違っていた。ガラスのはめられた窓からふんだんに取り入れられた光が隅々まで行き届くように、城の構造は考えられていた。つまりは城の主人がすべての中心であり、彼の幸せや快適さだけを考慮して、この主塔は設計されているのだ。

 ハルヒコがそんな薄暗い廊下を進んでいくと、今度は逆に周囲が明るくなっていった。城の裏側にたどり着いたのだろう。北側の窓から差し込む光は、南から入ってくる突き刺すような鋭い光とは異なり、反射して間接的に届いた優しい明るさをその場にもたらしていた。

 ハルヒコは城の裏側にある一室の扉をノックした。

「サムさん、マロニーさん、こんにちは」

 その部屋は厨房だった。それもかなりの広さを持っていた。

 壁沿いにはいくつものかまどや流し、数々の食器を収めた戸棚が並び、中央に配置された調理用の巨大なテーブルには野菜や肉、魚といった食材が山積みにされていた。天井からはフライパンや小ぶりな鍋など数多くの調理器具がぶら下がっていた。

「おお、ハルヒコ。家族のみんなは元気にしとるかね」

 どっしりとした風貌のサムが、ハルヒコを見るやにっこりと笑顔をつくった。

「シュウちゃんは城でよく見かけるんだけどね。トウコやカナちゃんは元気でやってるかい?」

 サムの隣にいた、やはり立派な体格をしたマロニーも笑ってハルヒコを迎え入れてくれた。二人の間には、誰でも一目で夫婦だと分かってしまうような、気心のしれた雰囲気があった。

「みんな、元気ですよ。今日は庭でとれたトマトを持ってきたんです。みなさんで召しあがってください」

 ハルヒコはカバンの中からトマトをいっぱいに詰め込んだ麻袋を取り出した。

「まあ、ありがとうねえ。お昼になったら、それを使ってスープでも作りましょうか。ハルヒコも食べていくでしょう」

 ハルヒコもその言葉を期待していたようであった。

「ありがとうございます。お言葉に甘えて、お昼ご飯いただいていこうかな。マロニーさんの料理、本当においしいから」

 ハルヒコがそう言うと、サムが思い出したように言った。

「ああ、そうだ。マグダル様からハルヒコの昼食を用意しておくように言われとったな」

 それを聞いて、マロニーは残念な表情を浮かべた。

「それじゃあ、一緒に食べられないねえ」

 だが、すぐに何かひらめいたように、ぱっと明るい笑顔に戻る。

「その昼食にこのトマトのスープもつけておくよ。きっとマグダル様もよろこんでくださるよ」

「ありがとうございます。今からお昼が楽しみになってきました」

 ハルヒコは二人とそんなやり取りをしながら、自分達家族が初めてこの城にやってきたときのことを思い出していた。

 帰る方法を探すどころか、言葉も分からず、これからどのようにこの世界で生きていけばよいのかと途方に暮れていた。サムやマロニーの仕事を手伝いながら、言葉を覚え、文字を学んでいった。思い返すと、はるか昔のことのように感じてしまうが、実際にはまだ半年しか経っていないのだ。

 ――あのときは毎日が不安で仕方がなかった。

 何も知らない、分からない――それがこんなにも心細いことだったなんて……。

 ハルヒコの脳裏に、この世界に飛ばされたばかりの頃の生活がよみがえってきた。

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