お菓子の後は幸せを
人気のない朝の廊下で、無慈悲なインターホンが鳴り続けること数分。
扉の向こうから人気の漂う物音が聞こえ、美空はインターホンを鳴らす手を止めた。
どうやら、るいが起きたらしい。
ゆっくりと、けれども確実に、おぼつかない音を立てながら、こちらへ近づいてくる足音。
鈴香に言われたからとはいえ、この気まずい空気の中、自分は一体どんな顔をして会えば良いのだろうか。
そんな罪悪感を抱きながら、美空は一人、その時を待つ。
そして――
開けられた扉の奥から現れたのは、僅かな隙間から顔を覗かせる、眠そうに眼を擦らせたるいの姿だった。
「……はい……」
「や、やっほー……。るい君……」
未だに寝ぼけた様子を見せるるいに、美空はとりあえず、ぎこちなく挨拶をする。
そして、互いの眼が合うこと数秒。
眠そうだったるいの瞳が、直様大きく見開かれるのがわかった。
「……美、空、さん?!」
そこでようやく、来客者が美空であることに気づいたらしい。
途端寝ぼけていたるいは、一瞬にして慌てふためいた。
「あの、え、えっと! その! ご、ごめん! 少しだけ待ってて!!」
そう言い残し、るいは直様玄関の扉を閉めた。
直後。
部屋の中から、盛大な物音が響いた。
恐らく、大急ぎで身だしなみや、部屋を整えたりしているのだろう。扉越しからでもわかるくらい、忙しなさが伝わってくる。
元はと言えば、押しかけた自分が原因だというのに。なんだか、とつてもなく申し訳ない気分になった。
――るい君、なんか、ごめん……
結局慌ただしい物音は、その後しばらく続いたという。
それからしばらく経った頃、漸く部屋の物音が鎮まり、るいが玄関から顔を出した。
「お待たせ」
「なんか、ごめんね。色々と」
「流石に少し驚いたけど、大丈夫だよ。どうぞ」
「お、お邪魔しまーす……」
美空は促されるまま、部屋の中へと脚を踏み入れた。
室内は、思いの外質素だった。
部屋には、マットレスに敷かれた布団と、小さな座卓がひとつ。その周りにも色々と物が置かれているが、十代の少年の部屋にしては、あまり物が少ない印象だった。
「実は今日遊びに行くこと、本当は昨日の夜にメールしてたんだ」
「え、そうだったの?」
「うん。ただ、返信も確認しないまま今日来ちゃって。それでどうしようか悩んでいたら、さっき廊下でるい君のお姉さんに会ったの」
「鈴香さんに?」
その言葉に、美空が頷く。
「それで経緯を説明したら、多分寝ているだろうから、インターホンを鳴らし続けると良いよって、教えてくれたのよ」
「なるほどね」
経緯に納得し、るいは苦笑いを浮かべる。
鈴香の慣れた言動といい、るいの様子といい、このやり取りが今回が初めてという感じはない。
どうやらあの起こし方は、彼らにとって日常茶飯事だったようだ。
「今お茶を淹れるから、適当に座ってて」
そういうと、るいは台所でお茶の用意を始める。
美空はその厚意に甘えることにすると、座卓の近くに腰を下ろし、待っている間、改めて室内を観察してみた。
お札と思しき紙の束、仕事道具と思しき、お香や壺。壁には、お寺で会った際に着用していた、仕事用の装束と思しき狩衣も掛かっている。
他にも、何の用途で使うのか不明なものがいくつかあったが、それ以外で目を引く物はあまりない。
質素というよりは、私用のものがほとんどない、そんな雰囲気だった。
唯一、目を引くものがあるとすれば――
「やっぱり、気になるよね。それ」
突如掛けられたその声に、美空は一瞬驚いてしまった。そんな彼女を小さく笑いつつ、るいは持っていた湯呑みを美空に手渡す。
中身は、るい御用達の緑茶だ。
「これって、あの蛇を倒した時に持っていた刀だよね?」
「そうだよ。
「彼岸流艶……」
「僕が独り立ちをした時に、恩師が譲ってくれてね。強い陽の力を宿しているんだ」
「へえ……」
強い陽の力、ということは、穢れや怨念を祓う力が強い、ということなのだろうか。そう考えれば、あの時彼が容易く呪詛を斬ったのにも納得な気がした。
柄の色合いといい、鞘に施された波紋や彼岸花の意匠といい、これらは彼岸をイメージしてのものだろうか。
鑑賞するだけでも、観る者をどこか引き付けてしまう。素人の美空でさえ、この刀がかなり価値のある代物であることを、理解できるほどだった。
「ところで、今日はどうしたの?」
「あ、そうそう。今日は、るい君にお菓子を持ってきたんだ。ほら、この前お礼に作ってくるって約束したでしょ?」
そう告げて、美空は鞄からクッキーの入った包みを取り出した。期待度を高めるために、包装は外から中身がわからない仕様だ。
「改めて、助けてくれてありがとう。るい君」
「ありがとう。開けても良い?」
「もちろん」
期待に満ちた表情を浮かべながら、るいが袋を開ける。
今回は、我ながら上出来の仕上がりだった。きっと彼も喜んでくれるはず。
そんな期待を込めながら、るいの様子を伺う美空。
しかしそんな予想とは裏腹に、クッキーを手にしたるいは、目の前にあるそれを不思議そうに見つめ、呟いた。
「これは……?」
「これはって、クッキーだよ?」
「クッキー、これが……」
まるで初めて見たと言わんばかりに、興味津々な表情で目の前に映るクッキーを見つめるるい。
これには、流石の美空も困惑してしまった。
今回美空が作ったのは、一般的にもよく見かけるバタークッキーの類だ。何か特別なことや、目を引く工夫をしているわけでもない。
けれど、そんな変哲もないクッキーを興味津々に眺めるということはーー
「るい君。もしかして、クッキー初めて?」
途端、図星と言わんばかりに、るいが苦笑いを見せる。
どうやら、当たりらしい。
「えっと、そういう
「そ、そうなんだ……」
和菓子にしか縁がなかったなど、彼の実家は家元か何かなのかと問いたくなる気持ちを、なんとか納める。
なにせ彼は陰陽師だ。もしかしたら、本当にそういう生活を送っていた可能性もあるではないか。
外国を
そんな葛藤を知る由もないるいは、しばしの間クッキーを眺め続けていたが、やがてそれを口へと運んだ。
食べた瞬間に広がる、しっとりとした食感。初めてなのに何処か懐かしさを感じる、甘くも優しい味わい。
和菓子とはまた違う魅力が、そこにはあった。
「……美味しい!」
その一言とともに、るいの表情は自然と綻んでいく。
その瞬間、美空の中に衝撃が走った。
――か、可愛い!!
まるで溶けたかのような、この世の幸せと言わんばかりの綻びが、るいの顔を満たしていく。
るいの容姿は童顔に近い。恐らく、あどけなさが残る彼の出立ちがあって初めて、この魅力が成立しているのだろう。
様子からして、当の本人にその自覚はないようだが、これは並の女性ならイチコロかもしれない。
「どう? 美味しい?」
「うん! すごく美味しい!」
「よかった。またまだあるから、たくさん食べてね」
「はい!」
最初は、ただのお礼だった。けれども今、彼はそれをこんなにも嬉しそうに食べてくれている。
――頑張って作ってよかった
幸せそうにクッキーを堪能するるいを眺めながら、美空はしばしの間、和やかな気分を味わうのだった。
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