第18話 カバ少女ポーリー


「逃げるんじゃ、ないわよ!」


 弾丸のように飛び出すネイア。僕は息を吞むだけで、今度こそ捕まった。

 ネイアの手が僕の腕をつかんで、振り回す。


「!?」


 その時、僕は子供の頃、車にはねられたのを思い出した。


 腕を引かれているはずなのに、体全体に力が加わっている感じがして、全身をまるごと引き抜かれる感覚と、奇妙な浮遊感。これは……


 続けて僕が思いだしたのは幼稚園の頃。お父さんとプロレスごっこをして、ベッドの上に放り投げられた時の事だ。


 つまり高校男子の僕とネイアの体力差は、幼稚園児と成人男性並、いやそれ以上と言う事だ。


 数メートルのぶっ飛ばされた僕は、受け身も取れずに背中から石畳に激突。


 肺が押し潰れて、中の空気が押し出されたまま息が出来ない。


 セリアがった横隔膜が元に戻らないあの苦しさに悶える中、ネイアは一度の跳躍で僕の視界に映った。


 遥か高みから落下してくるネイア。


 ネイアのお尻が、僕のお腹に着地した。


「ガッ!」


 空っぽの肺からは、悲鳴さえ出なかった。


 ネイアが馬乗りになりながら、捕食者の眼光で僕を見下ろした。


 強い。


 人化することで弱くなるどころじゃない。僕は理解する。彼女達は、動物だった頃の戦闘力をそのままに、むしろ動物としての全戦闘力を、人の体の中にギュっと押し込めた超生命体なんだ。


 ライオンやトラのような鋭く強靭なツメがギラリと光った。


 試合だから僕のKO負け? それとも動物の世界だから、僕を殺すのかな?


 苦しくて意識がかすれる。


 でも、それでもなお僕は思った。


 

 あぁ……キレイだなぁ。


 

 僕は動物が好きだ。

 

 強くて、逞しくて、勇ましくて、カッコイイ動物好きだ。

 

 その中でも、ライオンとトラは別格だ。


 太陽のように自然な金色の毛並みに、鋭い爪と牙。たくましい四肢に勇ましい眼差し。全てが人間とは一八〇度違う、動物の中の動物。


 ライオン族のレオナや、トラ族のティアは、その美しさを備えた女の子だった。けれど、それでもネイアはさらに別格だった。


 濃淡を帯びた金色の髪と瞳、強さを繊細さを伴った顔立ち、守ってあげたくなるような華奢な腕に、包容力を感じる母性的な大きく張りのある胸。


 この世界に来て初めてネイアを見た時は、三歳の時、初めて動物園でアレを見た時と同じ衝撃があった。


 命の危機なのに、僕はその時の事を思い出そうと、記憶の底をさらった。


 アレを見た時は本当に驚いた。ライオンでもトラでもない。


 この世に、こんな完璧な生き物がいたのかと、心を奪われた。だから僕は檻の中に入って、ついやっちゃったんだ。


「? あんた何のつもりよ?」


 ネイアがなんて言っているの解らない。


 それでも僕は遠のく意識の中、無意識的に腕を伸ばした。


「なぁあっ!?」

「ん?」


 甘い声を聞いて、僕の意識が戻った。見れば、ネイアが桜色の顔で悶えて、両手を僕の胸板に添えていた。


「ぁ、ゃん、ッ、んッッ」


 何これ? どういう状況なの?


 それから、ようやく僕は自分がしている事に気づいた。


 そう、僕の右手が、

御近所中のあらゆるペットを昇天させた僕の右手の指が、


 とある事において、トップブリーダーの人に自信を喪失させた僕の指が、


 無限フレームのなめらかさでリズミカルにネイアの喉元をなでていた。


「あっ」


 ネイアはうつろな瞳で、口を少しあけたまま、必死に僕の胸板に手をついて体を支える。


 けれど桜色の顔はもう真っ赤で、腰をもどかしそうに動かして、濡れた瞳で顔を上気させて僕を見下ろした。


「ゃ、ぁ、ぁん、これ、らめぇ……」

「わーごめんネイア!」


 僕は慌ててネイアの肩を持って支えながら、上半身を起こした。同時に、僕のお腹に温かいものが広がって行く。


 ネイアは悲鳴を上げながら僕に抱きついて耳元でわめいた。


「いやぁあああああ、ひどいよ! ばかばか止めてよこれぇっ!」


 初めての経験に、僕は全身をカチンコチンにしながら、ヒーターの近くみたいに顔が熱くなった。


 周りから『おや』とか『あら』とか聞こえて来る。


「ふえぇ……」


 僕を中心に温かい水たまりを作ったネイアが体を離すと、綺麗な黄金の瞳から、大粒の涙が溢れるところだった。


 気まずい静寂の中、この時の僕の脳味噌は本当にどういう回路が繋がったのか、自然ととある単語が口から漏れた。


「マーキング?」

「あうっ」


 ネイアは頭から湯気を出して、何かを思い切り噛みしめて耐えてから。


「ニンゲンのばかぁあああああああああああ!」


 走り去るネイアの背中がみるみる小さくなっていく。


「レオナ、今のって僕の責任かな?」


 レオナが眉根を寄せる。


「う、う~ん、どうでしょう」


 すかさずエマが親指を立てる。


「ニンゲン様、グッドです!」


 ばちんとウィンクをするエマに、僕は溜息をついた。


「君は自重しようよ」


 その時、僕の耳に冷たい言葉が触れた。


「雑種のくせに出しゃばるからよ」

「ティア?」

「はい、ニンゲン様♪」


 ティアは人懐っこい笑みで返事をした。


 ティアはトラの耳としっぽを生やした子だ。


 対してお姫様のレオナは、ライオンの耳と尻尾を生やした子だ。


 けどネイアはそのどちらでも無かった。


 僕は思い出す。


 ネイアの耳はライオンのソレで、尻尾はトラのソレだった。


 そして今のティアの言葉『雑種』。


 もしかして、ネイアって…………ライガー?


 ライガー:雄ライオンと雌トラの間から生まれる混血種。史上最大の猫科動物。

 なお、雌ライオンと雄トラの間から生まれるのはタイゴンと呼び、大きさはライオンと変わらない。

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