過ち


 僕に初めての恋人が出来た。


 幼馴染みのハナには「へー良かったじゃん。今度からテンちゃんにムカついたら、彼女に昔の恥ずかしい秘密をチクればいいんだねー」とか意地悪なことを言ってからかわれたけど。

 

 彼女……音無さんは意識の高いお嬢様だ。


「神乃ヶ原くんのような才能のある人と一緒にいることで、自分も色々と頑張ってみようという気持ちになれますし、とっても刺激になるんです」


 ハッキリとした自分の考えを持っている彼女に、僕は興味を持った。今もその考え方には好感を持っている。


 相手に甘え依存するワケでも、甘えさせ依存させるワケでもない。自分を高める為に人と関わる、か。


 なるほど、と思った。


 確かに彼女との会話は興味深かったし、荒んでいた心も癒された。少し世界が明るく見えるような、そんな錯覚を覚える。


 こんな気分のときに人は「もっと頑張ろう」とか「挑戦してみよう」なんて思うのだろう。


 最初から「あなたの為に」なんて言ってくる人間は信用できない。その点で彼女の考え方はありがたかったし、見習いたいと思った。


 彼女は最初から「自分の為に」とハッキリ言ってくれたのだから。


 見返りを要求してきて、いつの間にやら返ってくることを当たり前にして、それが満たされないときは、相手に責任を問うて非難するような人ではないと分かったから。


「……そう思っている一方で、『この人の為に何かしてあげたい』なんて、矛盾する気持ちを抱いていたりもするんですよ。神乃ヶ原くん、何だか放っておけなくて」


 このギャップも可愛いと思った。


 整然としたポリシーを持った凛々しさの、一枚奥にある一人の女の子の本音に、僕だけが触れることが出来るのだという優越感に、僕の胸は高鳴ったものだ。


 しかし、彼女は男子生徒達にとって高嶺の花だったようで、彼らから僕への風当たりは益々激しいものとなった。




◆◆◆◆



「よう、一体どんな手使ったんだよ」


 男子トイレで出くわしたヤツに、突然声を掛けられた。


 確か……僕にやたらとちょっかいを出したり、イジったり、一番絡んでくるヤツだ。


 名前は……駄目だ。思い出せない。


 とにかく、そいつが声を掛けてきた。


「何の話?」


「分かってんだろ。音無さんだよ。付き合ってるのか?」


 見れば、そいつの後ろには三人ほど取り巻きがいた。


 見覚えがある。確か全員セットで見たはずだ。きっと同じ部活か何かの仲間なのだろう。


「どんな手も使ってないよ」


「……じゃあ何で一緒にいるんだよ」


「……彼女のこと好きなの?」


 ちょっとムカついた僕は、敢えて質問に質問を返してやった。


「だったら何だよ」


「告白しないの?」


「……放っとけ。タイミング見計らってるんだよ」


「じゃあ……タイミング見誤ったね」


「あ?」


 別に、こんな流れに持っていきたいワケではなかったのだが、もう仕方ないか。


「付き合ってるよ」


「……あ?」


「音無さんと付き合ってる」


「…………」


「…………」


「……は?」


「音無さんと付き合ってるよ」


「……マジ?」


「うん」


「……へえ、告ったのか?」


「いや、向こうから」


「…………」


「…………」


「……へえ」


 完全に、彼との仲は修復不可能になったな。


 確かに、僕はたまたま音無さんが抱いてくれていた好意に応じただけで、彼女に好かれるような努力は何もしていない。


 でも仕方ないじゃないか。あそこで僕が「僕はあなたに好かれる努力をしていないのでお断りします」なんて言ったら何だよこいつってなるだろう。


「…………」


 僕はそれ以上、何も言わずにその場を後にした。ここで「この幸運を大切にするよ」や「幸せにするから」なんて言ったらただの死体蹴りだ。それは僕の主義じゃない。




◆◆◆◆




 その日の放課後のことだ。


「どうぞ、少し散らかっていて、お恥ずかしい……」


 僕は音無さんの部屋に来ていた。『付き合っている彼女の部屋にお邪魔する』なんて男子学生の夢を一つ叶えてしまったな。しかも『今、両親がいないの』とお呼ばれした上で、だ。


 ももも、勿論いかがわしいことなんて考えていないぞ。そんなこと僕にはまだ早い。


 でも、何ていうか、実に女の子らしい部屋だ。最近はハナの部屋にも行ってないけれど、確かこんな感じではなかったと思う。


 予想通り、彼女はお嬢様だった。僕の家もだが、明らかに一般家庭より裕福な家だと分かる。


 ……何だか、いい匂いがするような?


「あ……」


 僕が見つけたのはバイオリンケースだった。


「アレが、例の……バイオリン?」


 前以て話には聞いていた。彼女は小さい頃からバイオリンを弾いており、コンクールなどにも顔を出していると。


 実は今日招かれた時点で、僕はそのバイオリンに興味津々だったのだ。


「ええ、私の親友です」


 バイオリンが親友か……いい表現だと思った。多分僕とハナみたいもんだろう。いつも一緒にいると楽しくて、落ち着いて、喧嘩して顔も見たくなくなる時もあるけど、やっぱりそばにいないと落ち着かない……そんな関係なのだろう。


「何か弾いてよ。聴きたいな」


「ええっと……はい」


 僕がいつになく興味津々な視線を注いでいたので、彼女は観念するようにリクエストに応えてくれることになった。


「では……いきます」


 そう言って彼女が真剣な顔つきになる。いつもニコニコ淑やかに微笑をたたえている彼女とのギャップに僕はドキっとした。


 しなやかな彼女の指が弦の上を踊る。


 それを僕は、目を皿にして眺めていた。


 すごい……何というか、優雅だ。


 また一つ……彼女を好きになってしまった。


「……ふう。こんな、感じです」


「すごい! すごいよ音無さん!」


 僕は子供のように興奮して、精一杯の拍手を送った。


「あ、ありがとうございます……何だかテレますね」


「すごいなぁ……僕にも教えてよ!」


「え、ええ……ちょっと初心者には難しいかもですが」


「何か……久々に感動したかも……!」


「ふふふ……私、お茶を淹れてきますね」


「うん……しかしすごかったなぁ……いつもの静かでニコニコしてるのもいいけど、ああいうのも素敵だなぁ」


「か、神乃ヶ原くん……そのくらいで。は、恥ずかしいです……」


 僕にバイオリンと弓を押し付け、顔を真っ赤にして彼女は出ていった。


 何というか……色んな反応が見れて面白い。


 いつか彼女が綺麗なドレスを着て、コンクールなんかで万雷の拍手を浴びるのだろう。


 そしてそんな人が恋人なんだと、僕は誇らしい気持ちになるのだろう。


 ……本当にすごかったな。繊細で、所々力強くて……!


「……こんな、感じ?」


 僕は見よう見まねで、先程の彼女の動きを再現してみた。


 当然、思った通りにはいかない。


「ん、こうすると……この音が出て……こうすると……」


 ……あ、いい感じ。


「えーと……」


 ……そうそう、確か彼女はこうしていた。


「ん~……ふ~ふ~ん」


 うん。コレコレ。思ったよりイケてるんじゃないか?


 ……楽しいな。彼女がお茶を淹れて戻ってきたら、もっと色々聞いてみよう。そして色々な曲を聴かせてもらおう。


 彼女に好きになってもらえて、彼女の気持ちに応えて本当に良かった。


 ……きっとコレから、もっともっと楽しい日々が僕達を待っているんだ。


 丁度、先程音無さんが弾いていた箇所まで、僕が再現したタイミングでのことだった。


 ガシャン! と背後で大きな音がしたので、僕は驚いて振り返る。


「音無……さん?」


 部屋の入り口に立っていた彼女が、ティーセットの乗っていたお盆を落としたようだ。


「だ、大丈――」


「神乃ヶ原くん……!」


 いつもニコニコ淑やかに微笑をたたえている彼女の……その表情に、僕は先程とは違う意味で驚いた。


 彼女は普段からは想像もできないような険しい顔で、僕に詰め寄ってきた。


「あ……」


 彼女の大切なバイオリンを――勝手に弾いてしまった。


「ご、ごめん……!」


 マズイ……!


 そう思って僕は謝罪の言葉を口にした。


 だが彼女はそのまま僕の肩を掴み――


「バイオリン……弾けたんですか!?」


 ――そう叫んだ。


「い、いや……弾けな――」


「弾いてたじゃないですかっ!!」


「ち、違う。さっき音無さんが弾いていたのを見て……見よう見まねで」


「見よう……見まね……?」


「そ、そうだよ……楽譜も読めないし、生のバイオリンを見たのも、演奏を聴いたのも、さっきが初めてだよ!」


 僕は必死に弁解した。


「触るのも……初めて……?」


「そ、そうだよ……痛っ!?」


 肩を掴む力が強くなった。爪が食い込む。


「い、痛いよ……音無さ――」


「本当に……初めて聴いて、初めて触って……初めて真似をしてみたって言うんですか……?」

 

「そ、そうだよ……き、気に障ったなら謝るよ――」


「だから……実は私が失敗していたところも……そのまま再現したって言うんですかぁ……?」


「……!」


 音無さんは見開いたその瞳から、ボロボロと涙を流していた。


「天才……ですね……!」


「…………」


 何と答えればいいのか、分からなかった。


 肯定しても、否定してもマズイ結果が待っている気がする。


「――てって」


「え」


「出てって! 出ていってよぉぉ!!」


「っ!!」


 狂ったように泣き喚く彼女に急かされるように。


 その慟哭に背中を押されるように。


 逃げるように彼女の家を飛び出した僕は……知らぬ内に彼女と同じように涙を流していた。


 予想していた、待ち焦がれていた僕達の未来なんて、幻に過ぎなかったんだ。

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