075 『表』稼業の営業(その2)
予定した時間通りに入店した為、すぐに応接室へと通される。
「初めまして、株式会社『
入室直後、睦月からの挨拶(名刺付き)から、商談が始まった。
その名刺を受け取り、さらには自分の名刺を渡しているのは由希奈の姉、菜水のかつての上司でもある、旅行代理店の女店長だった。
「
一通りの挨拶を終えた明田は、肩の所で纏めた長髪を揺らしながら、睦月に席を勧めてきた。それに合わせて、共に入店して案内された由希奈もまた、菜水の隣にある空席に腰を降ろす。
「では早速ですが、
「かしこまりました。こちらになります」
その時ふと、由希奈は首を傾げた。
それに気付いた菜水は、由希奈に顔を近付けて小さく声を掛けてくる。
(どうかした?)
(えっと……職務経歴書って、何?)
(ん~……簡単に言うと、これまで自分が働いてきた会社や、そこでの実績を紹介する書類のこと)
職務経歴書とは転職活動に用いられる書類の一つであり、過去に勤めていた会社やそこでの業務内容、そして自らの実績や培ってきた
今回は商談なので形式や用途は異なるのだが、職歴のない由希奈にはその書類自体、理解できていない。別の機会に詳細を説明して貰おうと、この場で菜水に追加の説明は求めなかった。
向こうも由希奈の言いたいことは分かっているのか、菜水もまた最後には簡潔に、今回使われているのは通常とは異なることだけ付け加えてくる。
(今日の場合だと多分……睦月君の会社の実績と、所属運転手の所持免許や簡単な経歴じゃないかな?)
菜水の予想は、半ば間違ってはいない。違うのは、記載された運転手の紹介が睦月
「失礼ですが……御社の運転手は、荻野さんお一人ですか?」
「誠に申し訳ございません。お恥ずかしながら、こちらも個人経営ですので……運転できる社員が私しかいないのです」
「ああ、いえ! こちらこそ、失礼しました……」
事前に話を聞いていたのではないのかと、由希奈は隣の菜水を見た。若干睨み付けられたと思ってか、返事にどこか申し訳なさを含めながら説明してくる。
(私も個人経営
たどたどしくなる菜水に合わせてかは分からないが、そこで睦月は、ようやく相手の意図を汲んだかのように話を続けてきた。
「いえ……こちらも他の会社や、フリーの運転手も一緒に紹介できれば良かったのですが……何分、免許の問題もありますので」
「ええ、そうですね……こればかりは、仕方がありませんね」
本来であれば競合他社に該当するのだろうが、個人経営では代理を用意するのも一苦労だ。なので、横の繋がりもまた、必要となってくる。その件については後日、由希奈は睦月から改めて説明を受けた。
「それでは、弊社が用意しているプランについて、説明させていただきます」
睦月の鞄から取り出された書類、商談に臨む前に由希奈の目の前で確認していた資料が配られていく。目上である明田から菜水、そして自分へと順に渡された。
「では事前に伺いました、代理運転手の件について説明させていただきます」
睦月の説明は、手渡された資料に沿って行われた。
「プランとしては今回、二種類を紹介させていただきます。まず、特定の期間を仮押さえし、仕事が入った際に対応するプランです」
最初に紹介されたのは特定の期間、相手の
指定された期間内では他の仕事を請け負うこともなく、代理の運転手が必要となった際にすぐ対応して貰えるプラン。ただし、待機中もまた料金が発生するので、少し割高な保険のようなものだと、由希奈は聞いてて思った。
「次に、弊社の都合が付けば仕事を請け負うプラン。簡潔に言いますと、『他に仕事がなければ請けます』といった流れのものですね」
こちらは逆に、仮押さえはしないプランだった。
期間指定という余計な費用を払う必要がない代わりに、都合が合わなければ諦めなければならない。由希奈としては、依頼を請けて仕事をする睦月を見ているので、普段の印象はこちらの方が強かったが。
「以上二点が、私共がご紹介できるプランとなっております。ここまでで、何か質問はございませんか?」
そこで明田がすかさず、プラン毎の料金について睦月に質問していた。もっとも、質問の内容は由希奈が聞く限り、値段交渉に思えてならなかったが。
(お姉ちゃん……今って、質問の時間じゃないの?)
(うん、
これは
「ああ、疲れた……」
「……お疲れ様です」
一通りの商談が終わり、店を後にした睦月は由希奈と共に、入店前の時とは別の喫茶店に入っていた。菜水や明田は旅行代理店内にて、今後利用するかどうかを話し合っているのだろう。
その結果がどうなるかはまだ分からないものの……少なくとも、今日の睦月の仕事は終了した。
配膳されたアイスコーヒーを前にネクタイを緩めた睦月は、さらにワイシャツのボタンを一つ外し、ようやく一息吐く。
「あの明田って人、
「聞いてた、ってお
「今は仕事じゃないし、無理に言い換えなくてもいいから……由希奈も少し休もう。疲れただろう?」
ただ話を聞くだけでも、集中していればそれなりに疲れるものだ。たとえ聞き流していたとしても、あの状況では気疲れしていてもおかしくない。
それでも気になるのだろうか、未だに睦月の方を見つめてくるので、仕方なく由希奈に事情を説明した。
「明田さんの知り合いが、偶々俺の知り合い……の知り合いか? 何にせよ、人伝に聞いてたんだよ。あの人のことは」
じゃなきゃ、
「本当、営業担当雇いたい……姫香は緘黙症持ちだから、万が一を考えると下手に任せられないし」
しかも彩未とかから聞く限りだと、姫香の口調はかなり荒く、直接的らしい。
(まあ……半分以上俺との会話の影響だろうな)
自分が
(何で『言葉』はいくつも教えてるくせに、『話し方』は教えてなかったんだよ……)
挙句の果てには、姫香の古巣に内心で舌打ちしながら、睦月はようやくストローに口を付けた。
「ふぅ…………」
「もしかして……あの店長さんも、睦月さん達と同じ……」
言葉が、途中で途切れた。上手く言い換えられずに言い澱んでしまったのだろうと予想を立てた睦月は、由希奈の言いかけた質問に答えた。
「いや……あの人の知り合いが、
関係者、つまりは彩未と同じ『ブギーマン』の一員ということだ。
「ついでに言っとくと、月偉の件もそこから流れたらしいぞ? 元々明田さんが気を利かせて、その知り合いに身辺調査できる人間を紹介して貰おうと相談した結果、巡り巡って彩未の耳に届いたんだと」
「何というか……世間って、狭いですね」
「俺も今年に入ってから、そんなことばっかり考えてるよ……」
大なり小なり、世間の狭さを痛感する日々だった。
高校に進学して早四ヶ月になろうとし、年度で言えばもう半ばを過ぎている。その間に起きた出来事を思うと、果たして世間の狭さだけで済ませても良いのだろうか?
(運命や因果関係、なんてのは信じてないんだけどな……)
もう……偶然では済まされないと、睦月はアイスコーヒーを味わいながら、これからの予定を考えた。
(由希奈と別れた後……ちょっと
「それで、彼はどうでしたか?」
「どう、と言われてもね……」
淹れ直したお茶を飲みつつ、睦月に渡された資料に目を通しながら、明田は菜水の疑問に答えた。
「免許はあるけど、
職務経歴書や今日の振る舞いを見る限り……中卒の学歴だろうと、働けるだけの下地はできていた。仕事に対する誠実さや、相手が何を求めているのかを理解して説明できるよう、
……いや、しっかりと
「学歴を気にしないのは、家業等の理由で仕事がすでに決まっている場合か、逆に何も考えていないことがほとんどだが……彼は完全に前者だ。しかもそれを支援した者が居て、あそこまで徹底して鍛え上げている。私も親としては、子供をああ育てたいものだ」
個人学習にも、限界がある。
一人で何かを学んだ気になっていても、それが世間に通用するかどうかは分からない。学歴はある意味、それを測る為の指針にもなる。
下手に中卒を雇わない会社が多いのは、学歴という分かりやすい
けれども、明田から見た睦月は完全に……中卒という背景を匂わせてこなかった。
「おまけに『高校進学』という、向上心の証明もある。腕前ゆえの過信も見たところなく、
バサッ、と資料をテーブルの上に置いた明田は、肘掛けに腕を突きながら、菜水の方を見つめた。
「……で、
人手不足という背景に、偽りはなかった。しかし、だからと言って誰を紹介してもいい、という話にはならない。
誰かを推薦するということは、もし何かがあった際、自らも汚名を被る恐れがある。特に外部からの紹介ではなく、今回みたいに
それでもなお、菜水は睦月を紹介した。
ただ……『妹の友達』や『個人経営の運送業者』というだけでは、今後の評価を賭ける程の理由にはならない。それどころか、『
「残りの判断材料は
だからあえて、明田は菜水に聞いてみた。
すでに
果たして、リスクを抱えた上で、彼を雇っても良いものか?
そう訴えかける明田からの視線に、菜水は軽く息を吐いてから、ゆっくりと答えてきた。
「……妹の交友関係を、
「潔白に?」
「将来どうなるかは分かりませんが、少なくとも……私の時みたいに、妹が
菜水が睦月を紹介した理由を聞き、明田は納得したように腕を組んだ。
(なるほど……つまり彼を、
相手を、自分の価値観に閉じ込める。
身勝手な言い分であり、本来であれば決して褒められる行動ではない。しかし、この場合は一個人の思想ではなく、法律という
要は睦月を更生させ、犯罪や裏社会とは無縁な生活を送らせる。その上で……
菜水はそう願って、睦月を明田に紹介したのだと、ようやく腑に落ちた。
問題は、明田が納得しようとも……睦月が生き方を変えるとは
(
「まあ……話は分かった」
清濁併せ呑む程には、明田もまた人生経験を積んでいる。
「さすがに期間指定での待機は難しいが、
「分かりました。ありがとうございます」
話は終わり、席を立った菜水は部屋を出て行った。その背中を眺めながら、明田は再び頬杖を突き、思索に耽っていく。
「『
何を想って、社会の狭間を彷徨っているのか、と……明田は少し、睦月に興味を覚えていた。
「そういえば睦月さん……『
「あ~……そっか、まだ言ってなかったっけ?」
名刺を一枚、由希奈に手渡しながら、睦月は改めて会社名を紹介した。
「株式会社『
「そうなんですか……
「実質有限会社だけどな。当時はもう法改正の都合で、株式会社でしか起業できなくてさ……」
休憩中の束の間。睦月は起業について、由希奈に軽く説明して過ごすことにした。
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