第三十二話 暖かい

 幼い日の記憶。


 お父さん。


「なんだい、彩」


 お母さん。


「なあに、彩」


 あはは。


「私、今、幸せたい」


 その言葉を聞いた両親は笑顔を見せた。


 元から温厚な両親が、さらに暖かく見えた。


 ソフトクリームで口を汚した私に、お母さんはハンカチで口を拭ってくれた。


「いい? 彩。幸せは数字じゃないの。大きさでもない。どう感じるかよ。小さくても大きくても、同じやけん。なら何回も幸せを感じた方がお得でしょ」


「?」


 頭にクエスチョンマークを浮かべる私に、お父さんは笑いながら話しかける。


「つまり幸せは足し算でもなく引き算でもないってことばい」


 小さな幸せも大きな幸せも同じ。


 ならたくさんの幸せを感じていたい。それが私の両親の考え方だった。


 暖かい。


 お父さん。


「……」


 お母さん。


「……」


 なんで返事してくれないと?


「子供を一人確認! 救出します!」


「急げ! 炎がすぐそこまで来てるぞっ」


 見知らぬ男の人たちが私を抱え上げる。


 止めて! 助けて、お父さん、お母さん!


 私は必死に抵抗する。けれども大人の力には適わない。


「こら、暴れるな!」


「だって、だってお父さんが、お母さんが……」


「……ごめんね、二人は連れていけないんだよ」


「何で……」


 こんなにも暖かいのに。どうして親を連れて行ってくれないのだろう。


 どうして私だけここから連れていかれているのだろう。


 ああ、家が遠ざかっていく。あんなに暖かい家から。


「ひどいな……、幼い子を残して放火殺人か」


「ああ……胸糞悪いよ。本当」


 私は最後に見た両親の、乾いた瞳を忘れることができなかった。


「ここが今日からあなたのお家よ」


「……はい」


 私は方言を敬語に直した。私を引き取ってくれた親戚の叔母さんは、家に話し方が違う人がいるのを嫌がった。


 家族に見えないからだと。


 何よりも世間体を気にする人だった。礼儀正しく在りなさい。遊ぶ暇があるなら勉強しなさい。自分以外の人に迷惑をかけない。


 窮屈で仕方なかった。


 でも贅沢は言えない。私はまだまだ子供で、一人で生きていくのは不可能だ。


 だから私は人形のようにふるまった。言われればなんでもしたし、完璧もどきのようになった。


 そんなある日、私は自分が壊れていることに気付く。


 何も自分でしたいことが無くなっていたのだ。四六時中無気力になったと言ってもいい。


「君」


「はい?」


 塾からの帰り道、道を歩いていた時、怪しい男に声をかけられた。


「な、なんでしょう」


「実はわたしはこの辺りで探偵事務所をやっているものなんだがね。鍵を落としてしまって中に入れないんだ。どこかに鍵、落ちてなかったかい?」


 男はベタな探偵の格好をしていて、コスプレのように見えた。


「見てませんけど……、探偵ならすぐに見つけられるんじゃないですか?」


 すると探偵の男はくすくすと笑った。


「ふふふ、わたしは探偵だ。でもね、推理で鍵の居場所を見つけることはできないんだよ。コ〇ン君じゃないからね」


 わたしは不審に思いつつも、自分に害を及ぼすような人ではなさそうだ。


「探すの……手伝いましょうか?」


「本当かい!? いやあ助かるな。鍵を無くして事務所に入れない探偵なんてダサくて名乗れないからね」


 十分今もダサいですよ、とは言わなかった。


 それから男と二人で歩き回り、鍵を探した。


 数十分歩き回ったが、鍵はどこにも落ちていなかった。


「無いですね」


「……ん、おっとすまない。鍵はポケットの中に入っていたみたいだ」


 すると探偵の男は悪びれる様子も無く、鍵を取り出した。


「……良かったですね。では」


 私は少し呆れていた。だから別に怒っていたわけでは無い。そう、焦っていただけだ。


 早く帰らなければ叔母さんに説教される。


「ちょっと待ってくれ。まあ怒らずに聞いてくれよ」


「何ですか。もう鍵が見つかったのならいいですよね」


 私は初めから、男が焦っている様子が無かったことに気が付く。


 今思えば彼は本当に探偵かどうかすら怪しい。コスプレをしてそれっぽく見せているだけの馬鹿には見えないが。


「君、だいぶ心が限界だろう?」


「……え」


「わたしはね、うん、人の感情に敏感なタチでね。困っている人をほっとけないスーパーマンなのさ」


「……」


「というのは冗談で、わたしの娘がね君ぐらいの年なんだよ」


「へえ、そうなんですか」


「生きていればね」


「ッ!?」


 衝撃が走った。


 何故かは分からない。子供を亡くしている人だっている。別に驚くことではない。


 だが謎のシンパシーを感じ取ったのだ。


「妻と一緒に……ね。ああすまない、別にしんみりとさせるつもりは無かった。まあ、だから君がそんな目をしていると胸が痛いんだよ」


「え?」


 私は自然と流れ出ている涙に気付くことができなかった。


「君にこれをあげよう。何かあったら来るといい。コーヒーは好きかい?」


 もらった名刺に目を通す。


 そこには小暮英司と書かれてあった。そして事務所名は小暮探偵事務所。


「そのままなんですね」


「あまりイジらないでくれよ。ネーミングセンスが無いのは昔からさ」

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