黒バラの花嫁と闇を照らす漆黒の王

相内充希

第1話 逃亡

 がくがくと足が震えて動かない。


(動け! 私の足!)


 ジリアンは流れる涙も拭わず、言うことを聞かない足を叱咤し続けた。

 もうどれくらい逃げたのかわからない。ずいぶん長く走ったように思うけど、ほんの数分かもしれない。

 絡みつく長いスカートが邪魔だ。今は男のふりをしていたころのような服が必要だった。


 満月まであと一日あるけれど、月光に照らされた町は裏通りであっても思いのほか明るい。物陰に紛れて走り続けても、あいつらはきっと追ってくる。


 耳の奥では、育ての父ヴォルフの叫び声が何度もこだましている。


「逃げろジリアン! ――あいつに助けを求めろ!」


(パパ……パパっ!)


 呼吸が荒く、のどが焼け付くようだ。

 這いつくばるように、物置小屋らしき建物の影に潜り込む。仮の隠れ場所に少しだけ落ちつき、息を整えることに専念しようとするも、激しく胸をたたく心臓の音はうるさいくらいで、すすり上げる声を必死にこらえても、嗚咽と涙が次々とこぼれ落ちた。


(パパは生きてる)


 何度も自分にそう言い聞かせる。


 育ての父は狼男だ。簡単に殺されたりなんかしない。

 ヴォルフがもう六十をとおに越えていることを無視して首を振ると、彼の肩から噴き出す鮮血が脳裏に浮かんで、ジリアンはきつく目を閉じた。

 それでも消えない光景に、音に、叫びだしたいのを必死でこらえる。


 あれは三月ほど前から店に来るようになった客たちだった。

 ジリアンに気づいた男らの愉悦に満ちた残忍な顔を思い出し、全身が総毛立つ。


 油断していた。故国は海のはるか向こうで、あれから十五年も経っていたから。


 様々な魔族が住むこの国は人種の坩堝るつぼだ。あの国とは人も習慣も気候も、何もかもが違う。違うから大丈夫だと信じかけていたのに。


 ――ジル。この町に来てもう十年だ。そろそろ髪を伸ばして、女らしくすればいいさ――


 ヴォルフに言われ、ようやく頷いたのは、自分にもそうしたい気持ちがあったから。ジリアンは元々、可愛らしいものや綺麗なものが好きだった。できることなら、そんなものに囲まれて暮らしたいと思っていた。

 十五年間男よりも短くしていた髪を、もう一度伸ばしてみたかった。


 かみしめた唇から血の味がする。


(立ちなさい、ジリアン。あなたはもう十歳の子供じゃない。二十五歳の大人でしょう)


 心の奥で泣きじゃくる十歳の自分を𠮟りつけて、壁にもたれながらもどうにかもう一度立ち上がる。


 逃げなきゃいけない。

 生き延びなければ、ヴォルフを助けることもできない。

 自分のせいだと嘆くことも、非力で何もできない自分を責めても、今は時間の無駄だ。そんなことはあとから十分できる。


 ジリアンが大きく息をついて空を見上げると、建物の間から小さな空に青い星が見えた。


(レイン……)

 レインは春に一際輝く青い星。月の光にも負けずに輝く夜の王。

 でもジリアンの脳裏に浮かんだのは、あの星のように美しい碧眼の持ち主――店の常連客でもある便利屋、レイン・ヴァンピールだった。


 ジリアンが給仕を務めるコーヒーショップの常連なのに、いつも頼むのは牛乳。ごくまれにカフェオレ。季節によってアイスかホットかの違いはあっても、彼が他の男たちのようにブラックを飲むのをジリアンは見たことがなかった。


 短く刈り込まれた金色の髪。男らしい雰囲気で整った顔立ちのレインだが、目尻が少し下がっているためか、笑うととてつもなく雰囲気が甘くなる。なのに人懐っこい印象のほうが強くて、どこにいても目立ち、女性の友達・・も多い。


 ――髪を伸ばせばいいのに――


 ヴォルフよりも先にそう言ったのはレインだ。

 一つ年上なだけなのに、出会った時からジリアンを妹のように扱う彼は、うなじまではっきり見えるジリアンの髪にいつも不満そうだった。この国でも故国同様、女性の髪が肩より短いなんてありえないから、見てて不快なのだろう。

 そう考えるといつも、ジリアンの胸の奥がシクシクと小さく痛んだ。


 でも彼は兄でも恋人でもない。

 このリムン町に住み始めてから十年。彼とは常連客と店員の関係、もしくは便利屋とその客の関係であって、それ以上でもそれ以下でもない。


 だから彼は――いや、この町のみんなは、ジリアンとヴォルフが本当の親子ではないことも知らない。ましてやここに着くまでのジリアンが、髪をそり上げてズボンをはき、男の子として振舞っていたことも知らない。


 二度と髪を伸ばすまいと決めていた。伸ばしてはいけないと。

 そうやって慎重に見えない壁を作って生きてきた。


(でも一度だけ、少しだけなら)


 そう考えてしまった。

 老いたヴォルフに花嫁姿を見せる日は絶対に来ない。それでも一度だけ娘らしく装い、生涯一度だけのデートをし、それですべてに区切りをつけるつもりだった。


 ――ジリアン、デートしよう――


 この十年間、毎日のあいさつのように誘ってきたレイン。

 それに対して「また今度ね」とか、「誰々がいるでしょ」と答えるのが日課。ここ一年の誰々はアラベラだけで、彼が他の女の子とは、あまりデートをしていないのをジリアンは知っている。


 レインは誰ともデートしないジリアンを気にかけてるだけだ。この町の人の婚期がよそより遅いとはいえ、二十五にもなって特定の相手がいない女は珍しい。

 でももしデートを了承したらきっと、彼はジリアンのために他の男性を連れてくるだろう。そして満足げに笑顔で頷くのだ。

 そう考えるだけで、胸の奥が切り裂かれたようになる。


 それでも一度くらい、普通の女の子のようにデートをしてみてもいいんじゃないか。たった一度だけなら、それもほんの数時間であれば、もしかしたらレインが相手をしてくれるかもしれない。

 彼は優しいから、ジリアンがお願いをすれば、少しだけ特別な女性のように扱ってくれるかもしれない。

 珍しいこともあるものだと笑って、別れ際には他のデートをした女の子にするようにキスもなんて――いいえ、それはないけれど。


 心の中でアラベラに謝り、でも叶うはずのないささやかな望みを心の奥に隠して伸ばし始めた髪は、ようやく肩に届きかけていた。

 不揃いで、まだ結ぶことさえできない長さだけど、毎日くしけずるのが楽しくなかったわけがない。


 でも間違いだった。

 つまらない夢を見たせいで、恩人ヴォルフを傷つけることになってしまった。


 髪をすべて引き抜いてしまいたいけれど、自力でそんなことはできない。刃物もないので切ることも無理だ。


(行こう)


 呼吸が落ち着き、涙を乱暴に拭う。

 まだ危険だ。

 でも日が昇ったらヴォルフが言った通り、あいつ――レインに依頼をするのだ。便利屋である彼の伝手ならきっと、力のある誰かを紹介してもらえるだろう。どんなに高額であっても構わなかった。


 ヴォルフの無事を確認して、町の人にお願いし、今度は一人で遠くに逃げる。

 本当は老いていく父の面倒をみたかったけど――。


 月が雲で隠れたのを確認し、物陰からそっと出る。

 しかし左右を確認して走りだそうとしたとき、何もなかったはずの後ろから強い衝撃を受け、ジリアンの意識は闇に包まれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る