第34話
先生の過去の真実を伝えられる。この先生は「自分が生徒を殺した」と言っていたが、本来なら仕方のないことだ。誰にも止められなかったかもしれない。だがそれだけ責任を感じているのだろう。
だが今の話の中には、一つだけ嘘が混じっている。
「前期までに行われていたものは恐怖政治なんかじゃないですよね」
先生は僕の言ったことに無反応だったが、これは確信している。
「何でそう思う?」
石神は二本目の煙草に火をつけた。
「正確には恐怖政治を利用しているだけですよね」
恐怖が必要な理由。真意は、生徒の矢印を取り上げることではない。
恐怖政治の場合、殺戮や投獄を見せつけて、民衆のそういった負の感情の矢印を取り上げる。そうすることで、「逆らったら殺される」という感情が芽生え、統治することができるのだ。だが、見せしめを生み出す恐怖政治と今のクラスのやり方は違う。恐怖政治のような、生徒との関わりの『差』を生み出すことを石神は意図的に避けていた。
それに統治者の恐怖に耐えられなくなり、学校を休んだり、不登校になる生徒が出てきてもおかしくはない。だが、今のクラスは誰一人として欠けることなく、学校に来ている。それも不思議な団結力で守られているからだ。
以前、先生は「恐怖でも矢印は消せない」と言った。それは先生が、生徒に恐怖という矢印を向けていることに、気づいているからだと思っていた。これが今言った恐怖政治の本質だ。だから僕はこのやり方に嫌悪し、間違っていることを証明したいと思っていた。だが本当に実現したかったことはその先にある。
「あなたに矢印が向くように仕向けていたんですね」
僕らは勘違いしていた。少し考えればわかることだった。一見、先生が生徒をいじめているようで、これは生徒が先生をいじめる構造になっていることを。
「やっぱり上田は教師なんだな」
先生は驚いているが、笑いながら言った。
おそらくこのことに気がついたのは、僕が教師だからだ。教師にしかわからない。
それを理解した時、僕は大嫌いだった先生の前で涙を流していた。
先生は生徒を守ろうとした。先生は生徒を愛していた。だからこそ、この手段は悪手だ。
大好きな生徒たちに、毎年嫌われることが確定している。僕だったら耐えられないから。
その矢印が、教師に向かうということは、革命が起こった時の構造と酷似している。民衆は一丸となって統治者を襲う。少し前の二組の団結力はそういうことだった。
『先生対生徒』
この構造を作り出し、生徒たちを団結させていたのだ。
こうなると、石神を好く人間を教室に作ってはならない。その生徒も他の生徒によって避難されるからだ。結果的に先生は毎回小さな革命を意図的に起こさせていたんだ。生徒達の憎しみや嘲りの感情は、全て先生へ向かっていた。
だから、矢印は消せない。
「だけど、それじゃ、先生が…」
僕は涙を流しているのに、先生はすかした表情で笑っている。この時僕は初めてこの先生の優しい笑顔を見ることになった。
「生徒が生きていてくれることよりも重要なことなんてないんだ」
この先生はどんなに嫌われても、憎まれても、「大嫌いな教師」を演じてきた。生徒同士で争ったり、醜いいじめが起きないために。それを僕がぶち壊したのだ。
先生はこうなることをわかっていた。前回聞き逃した質問を僕は泣きながら聞いた。
「どうしてクラスが崩壊するのを黙って見ていたんですか」
僕が崩壊させる可能性を持っていたことも、今のクラスがこうなる可能性も、先生は気づいていた。にもかかわらず、夏休みが明けたあの日から、僕を野放しにした。それはどうしてなのか。
「見たかったんだよ」
石神は目元の水滴をそっと拭き取った。
「上田が作る教室を。十年前に俺が憧れていた教室を。たったそれだけで、自分が決めた覚悟を手放してしまった。それでも後悔はない。今のクラスなら取り返しがつく」
涙が止まらなかった。そんな覚悟を持った先生を僕は疎み、嫌い、そして蔑み、教師になった要因にしてしまった。
この僕の過ちを、この先生に尻拭いさせてはいけない。だからここへ来たんだ。
「僕が矢印を止めるには、どうしたら…」
虫がいいことはわかっている。それでも、どうにかしたかった。悪意や加害の矢印が、大好きな友人に向かうのは耐えられなかった。
「美来を救いたいんです!」
先生の柔らかな表情はなくなり、真剣な顔つきで僕に聞いてきた。
「中島がやったとは思わなかったのか?」
「当然です。美来はそんなことをやる人間じゃない。信じています」
先生は僕に伝えることを躊躇っていた。
「中島は俺と同じ方法を取っただけだ」
先生の話を聞いて、薄々感じていた。
おそらく美来も、クラスの矢印が葵や、葵に意地悪をした犯人に向くことを避けた。だから自分に矢印を向かうように誘導した。
「それじゃ、美来はやっぱりやってないんですね」
それはわかっていた。では一体、誰が葵に矢印を向けたんだ。
「矢印を消せない理由は、矢印を認知できないからだ」
美来も言っていた。見えないことを自覚している教師は少ない。僕もそうだった。では、どうして美来には見えていたのだろうか。
「美来が一年次から四年次までいじめられていたことを知っているか?」
聞いたことがなかった。記憶を探ったが、そんなことがあったことは覚えていない。
「俺も知らなかった」
先生はまた僕の心を読んでいた。
「あいつはその経験があるから、きっと矢印に敏感なんだろう。悪意や加害は、先生なんかよりもよっぽど被害者の方が理解している」
美来は未来から来たわけじゃない。単純にいじめの矢印を熟知していただけだ。だから、石神の考えも、優香がいじめられることも、生徒が大人ではないことも理解していたんだ。
そして、自分に矢印が向いた時に、友達がいなくなってしまうことも経験していた。優香もいじめられた時、一番仲の良かった瑠夏という少女を失った。だから友達も作らず、一人で行動していたんだ。
友達を作ることを避けていたにもかかわらず、今年はできてしまったんだ。一度手に入れた大事なものを誰が捨て去ることができるのだろう。美来はその覚悟を持っていた。だから僕に「友達でいてね」と念を押していた。あの時の美来は苦渋の選択をしたのだ。
「美来はこうなることをわかっていて、犯人もわかっていたんですか?」
「そうだな。中島は知っていたよ。合唱祭で失敗した久保に矢印が向かうことも、その悪意に耐えられず、別の被害者を作り出すことも」
「じゃあ…」
「上履きを隠し、メモを下駄箱に入れたのは、久保自身だ」
信じがたいが、言われると、そうとしか思えなくなる。僕らのクラスにそんなことをする人間が見当たらない。そう思っていた。だが、それも少し間違った結論だった。
「久保葵の件は久保自身で行われたが、矢印はすでに存在している。田中晃は鹿島航にいじめられている」
それは全く理解していなかった。だが、それも言われると心当たりがあった。
美来はこのことにも気づいていた。自分は何も見えていない。ポンコツ教師だった。
晃が学級委員にもかかわらず、学校をサボっていたこと、航達と仲が良かったわけでもないのに付き合い、そしてキーパーをやらされていたこと、そして、なぜだか一度も失点をしなかったこと。あの時の拓哉の表情はおそらく気づいていたからだ。
だが、それだけでいじめと捉えることはできないが、小さな種であることは間違いない。晃が嫌がっているなら、それは矢印が向かってしまっている。
「美来みたいに、矢印を見るにはどうすべきなんですか?」
「見えないさ。さっきも言ったけど、矢印は認知できない。たまたま、中島は何個か見つけ出しただけだ。教室には無数に存在している。俺のやり方も、こっちになるべく矢印を向けるように誘導しているだけで、本当は生徒が何を考えているかなんてわからない。結果的にうまく行っただけだ」
『結果的にうまく行った』
その通りなんだろう。これが完璧な采配であるなら、七年後に先生が死ぬことはない。
「それでも、何かあるはずです。先生も生徒もみんなが手を取り合って過ごせる方法が…」
この後に及んで、僕は綺麗事を言った。でも、誰かに悪意や加害の感情が向かうことが当たり前という事実が気に食わなかった。
だが、そんな淡い期待もすぐに打ち崩される。
「新学期初日、自転車で出かけたのを報告したのは山田だ」
綺麗事を並べる僕は、真実を突きつけられる。
「あんなに仲のいいお前らですら、矢印は発生する。立場や、状況で人は誰であろうと容赦なく襲い掛かる。俺を脅威に思った生徒の中には、必ず味方につけようとする生徒が現れるんだよ。矢印を全て自分に向けるためには、それすら許してはいけない」
真美のことを「性根が腐っている」と怒ったのは、ここで味方になってしまったら、矢印が真美へ向かう可能性があるからだ。拓哉も同じだ。新学期初日、拓哉は石神に呼ばれていた。僕を言いつけた拓哉に説教をし、先生が嫌われるように仕向けたんだろう。拓哉がちくったことが露呈して、僕の矢印が拓哉へ向かうことを避けるために。
現状、矢印を統治するには、先生と美来が行ったように、矢印を自分に誘導するしかない。それ以外、統治する方法は今は存在していないのだ。
絶望した。でもそれもわかっている。みんなが手を取り合って過ごせるクラスは、今はまだ、存在していない。それは人間の本能だ。群の中にいる異端を排除する見せしめが、群れで生活するということだ。そうやって人間は進化を続け、生きてきたんだ。
ならもう、方法は一つしかない。先生や美来、そして十五年前の優香が、友達を守るために使った方法しかなかった。
優香は瑠夏という少女をいじめから守った。最初、いじめの被害を受けていたのは、優香ではない。優香以外の生徒が、瑠夏に矢印を向けた。それを庇って優香はいじめられてしまったんだ。
一年半もの間、誰にも言わず、一人で戦ったのは、他の友達やクラスメイトに矢印が向かうことを避けるためだったのかもしれない。今思うと、優香も美来も強い子だ。そして人の感情を僕なんかよりずっとわかっていた。
「愛斗」
「はい?」
名前で呼ばれ、たじろいでしまった。
「愛斗がやったことは、ある意味では正しいことだ。世間の目から見たら、中島や俺がやっていることのほうが回りくどく、汚い方法だ。だからこそ、合唱祭では期待したし、胸が弾むような気分だった。あんな生徒の顔は本当に久しぶりに見たよ」
クラスに矢印が発生しているというのに、終始笑っている。今までの先生の統治の方法を利用すれば、今からでもこのクラスはどうとでもなるのだろう。
「それでも、僕のせいで美来は…」
すると吸っていた煙草を携帯灰皿に捨て、先生はそう言った僕の目線に合わせて地面に膝をついた。
「なら、愛斗が矢印を消してくれ。生徒も先生も手を取り合った綺麗事を実現してくれ。俺はそれが見たいと思った。だから愛斗に任せたんだ。教師である愛斗にな」
そう言って僕の顔を見て慰めるように笑っている。
やらなくてはならないことが増え、本当の覚悟を決めた。
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