第28話
そのまま教室に戻ると、ほとんどの生徒が帰宅していた。小学校では行事の後に打ち上げや慰労会といったものは行われないのだが、こんなにもあっさりと帰ってしまう生徒を見て、少し寂しい気持ちになった。
教室の端に、拓哉が一人で待っている。
「まなと、帰ろー。葵も一緒にどう?」
僕は石神に呼ばれていたので、葵に聞かれないよう拓哉に一つお願いをした。
「石神に呼ばれてるからさ、葵のこと頼んでもいいか?」
「え、二人で帰れってこと?」
「そう」
「気まずいけど…、しゃーねーな」
そう言って拓哉は、快く引き受けてくれた。
「葵、まなと呼び出されてるから、二人でもいい?」
葵は小さく頷いた。
そうして僕は、拓也と葵と別れ、空き教室へ向かった。
どこに行けば良いのかわからなかった。
「後できなさい」としか言われていない。石神を探すのは面倒だったので、いつもの空き教室で待機した。
この場所は、僕には印象深い場所だった。一度目はもちろん、二度目の今年も不思議な体験をしたが繰り広げられた。だが今まで僕がこの教室に入った時のどれと比べても、今日が最も薄暗く奇妙な部屋だと思えてしまう。
十分ほど待っていると石神が教室に入る。手には既に煙草が握られている。
「捨てないと、校長に言いますよ」
石神に、軽蔑の視線を送る。だが、石神は黙ったまま煙草を蒸している。
腹が立った。煙草にではなく、石神のその態度に。僕が失敗したことに、内心嘲笑っている。そう思っていた。だが、石神は一度煙を肺に入れ、ゆっくりと吐き出しながらポツリと呟いた。
「惜しかったな」
その石神の発言は、見下すでも、挑発するものでもなかった。ただ純粋に、合唱祭への感想が口から漏れ出したような言い方だった。石神はどこで見ていたのだろう。
石神には確認したいことが山ほどあった。
「どうしてですか…、どうしてあの日からあなたは黙っているんですか?」
石神は笑っていない。前回ここで見せた表情ではなく、今日は真剣な眼差しだった。
「矢印を見たことがあるか?」
僕の質問には答えず、逆に質問された。
「多分…あります」
心当たりがあった。職員室で言われたときからずっと考えていた。おそらくそれは僕が教師になる要因だ。
「恐怖なら矢印を消せると言いたいんですか」
石神がどこまで理解しているのかを知りたかった。
石神がなぜ生徒に過剰に恐怖を植えつけたのか。恐怖が必要な理由はここに集約する。
「矢印」、それは一年後僕が見るものだ。
おそらく矢印とは、いじめや争い、喧嘩などの「誰かから誰かへと向かう加害の感情」のことだろう。僕が今まで苦しんできたものだ。
石神は気づいていた。教室で矢印が発生することを。だから、恐怖で生徒たちから矢印を奪った。現に生徒の間にいじめや争いは発生せず、当初の二組は不思議な団結力を持っていた。その恐怖がなくなった途端、葵や里帆のように喧嘩や言い合いが起こってしまった。
「恐怖でも、矢印は消せないんだよ」
その答えも、僕が予想していたものになった。敢えて「消せる」と聞いたのは、確かめたかったからだ。だがその事もしっかりと石神は理解しているのだろう。
恐怖によって、一見矢印が教室の中で発生していないように見えるが、先生がその矢印を生徒に向けてしまっている。その事実を理解した上で石神は、恐怖によって生徒達を統治していた。
石神は全てをわかっていたんだ。どうやっても加害の感情は消せないこと。恐怖でも「消す」のではなく、「統治」する形しか取れないこと。
そうなると僕や世間の認識は間違っていた事になる。
この先生は生徒を殺していない。生徒を守るために使った恐怖で生徒を殺めてしまうことはあり得ない。だが、今の石神に真実を聞くことはできない。これは未来の話であって、今の石神は認知さえしていないからだ。
それでも僕は、石神に確認しておきたかった。
「生徒が亡くなったのはあなたのせいじゃないんですね…」
石神は、吸っていた煙草を床に落とした。
これは賭けだった。マスコミの詮索により「過去に石神のクラスから自殺者がもう一人出ている」という報道があった。この年より前の出来事である事に僕は賭けた。
七年後に、なぜ生徒が自殺し、石神も遺書を残して自殺するのかはわからない。だが、これより前に起こった出来事なら今の石神にもわかる。
こんなに考えていて、策を講じる先生が、生徒を殺すことはあり得ない。単純にそう思った。
だが、僕の至った結論は呆気なく覆されてしまう。
石神は落とし煙草を拾い上げ、火の付いている煙草をそのまま右手で握りしめた。
「いいや、俺が殺した」
嘘だと思いたかった。だが石神の冷徹で、残酷な表情の中には嘘を言っている様子は微塵もない。
少し間が空いて、石神は教室から出て行った。何かを伝えるために呼び出したのだと思うけれど、さっきの質問は配慮のないものだったと反省した。
煙の舞ったその空間は淀んでいて、全てを反省するにはちょうど良かった。
僕がばら撒いた種は、ゆっくりとだが、憎しみを持って成長していた。
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