2022年3月13日 17:51 編集済
東藤と村瀬と真面目な話への応援コメント
こんにちは。 本作は、読んでいて思うところが色々ありますね。 比較するのはおこがましいかもしれませんが、僕の『なろう(系)小説談義』も傍から見るとこんな感じだったのかもしれない、と思いました。対話篇で片方が一方的に捲し立ててしまうと、もう片方が理屈の正しさ云々より先に迫力のせいで黙ってしまうといった印象がありそうです。もちろん、僕はそういう効果を見込んだ上であの作品を書きましたし、姫川さんが本作を書いたときもそれは同じだと思いますが、捲し立てている方に違和感を覚えてしまうと、何か言いたくなってしまいますね。実はそのおかげで読者の方々から応援コメントを頂けるという側面もあるのですが(笑)。 自分語りになって恐縮ですが、僕には嫌いな言葉がいくつかありまして、本作に関係するところで言えば、「きれいごと」という言葉と「正論」という言葉がどちらも嫌いなんです。「きれいごと」って、何かしらの理想や善に向かってひたむきに努力している人を嘲笑したい(努力することを最初から諦めている)人たち、あるいは、道徳と欲望を天秤にかけて丁度良いバランスを探るのでさえなく欲望のままに生きることしか知らないような人が、相手を論破できるだけの理屈を準備することもなくお手軽に相手を黙らせるために作った言葉に思えます。また、「正論」は、物事の一側面を切り取ってはいても総合的な視点を欠いている人の浅薄な理屈に「正」という字を使っており、正論を振りかざす人とそういう人に困らされている人のどちらも、それが理屈としては「正しい」と受け入れてしまっている感じがしますし、しかもそれと同時に(自分では『正しさとは何か』を真剣に考えたことなんてないくせに)「正しさ」なんてものは人それぞれ、時代ごとに違う程度のものでしかないと思っている感じがするところが、たまらなく嫌です。 お察しの通り、どちらも僕自身が言われて嫌だった言葉です。具体的には、「きれいごと」は僕が自分の考えを述べたときに友人から実際に投げかけられた言葉で、「正論」は僕が読んでいた小説の登場人物が愚痴で使っていた言葉です(「そういう正論が聞きたいわけじゃない」みたいな使い方だったと思います)。「きれいごと」や「正論」という言葉を使われてしまうと、相手に反論を聞く気がないことが分かってしまいますし、何か言おうにも、意見すること自体が「聞きわけが悪くて理性を欠いている態度」だと思われることが目に見えてしまう、だから納得できないのに黙らされてしまう、それが嫌だったんですよね。 で、本作に話を戻しますと、上手い具合に「きれいごと」を「正論」でぶった切っている感じがします。 自分でその生き方を貫徹するだけの覚悟がないのに理想だけを高々と掲げるのはたしかに「きれいごと」でしょう。覚悟がないということは努力しないということですから、一瞬だけその気になって、寝て起きれば忘れてしまう程度のことであり、そんな「理想」はむしろ唾棄すべきものだというのは、僕もそう思います。こんな奴が目の前に現れたら鬱陶しいし、僕だって難癖のひとつも言いたくなるでしょう。 ただ、当人たちが高校生であり、大学で何を専攻するかまだ決まっていない年頃であることを考慮すると、「世界平和のために英語なんかやっても何の意味もないやろ」と言ってしまうのは少々酷だとも思うんですね。僕自身の高校時代を引き合いに出して世の高校生の見識がいかに狭いかという無茶な話をするのはさすがに控えますが、英語の勉強をちゃんとしておけば(高校卒業後も継続すれば)英語圏のニュースや英語の論文を読めるようになり、そのぶん新たな知見を得るための選択肢が増えますし、大学3、4年目あたりで海外に留学するハードルもそれだけ低くなると見込めます(当然ながら語学以前に金銭的なハードルがあったりするのですが)。もちろん、英語に限らず、現代文も数学も物理学も日本史もその他の科目も、何らかの点で役に立ってくる(可能性がある)のだと思って、高校生くらいの年頃ならとりあえず基本的な手札を揃えることに専念してみるのも1つの戦略だと思います。 ひとりの個人が世界を救うだとか、みんなが学校の勉強に専念することが世界平和への道だとは言いませんが、個々人が世界平和は「きれいごと」でも「机上の空論」でもなく現実的に目指すべき目標であると確認し合うこと、そのために個々人が今の自分に出来ることを精一杯やることは、なんだかんだ言って必要だと思うんですね。もちろん、繰り返しになりますが、大したことをしてないくせに「俺ちゃんは世界平和に貢献してんだYo!」なんて言って偉そうにしてる人がいたら虫唾が走りますけども、たとえ自分が直接的に世界平和に貢献する(と思われている)仕事に就かないにしても、あるいは、たとえ自分には諸般の事情でちっぽけなことしかできないと熟知しているにしても、そういう理想を大切にする姿勢ってやっぱり必要なんじゃないかと思います。 とか言いつつね、「正論ではあるけど真理ではない」なんてことは誰のどんな理屈に対しても言えることであって、突き詰めていくと「人間はみんな黙るべき」って話になりそうなのは分かっているんですよ。「きれいごと」だとか「正論」だとかで片付けるのではなく、丁寧に議論していくことが必要なんだと思いますが、それもなかなかね。 姫川さんと僕では見ている「世界」が多少なりとも違うわけですから、僕の話もおそらく姫川さんには納得できない部分があると思います。きっと僕は何かを見落としながらこの文章を書いているはずですが(逆に姫川さんには分かり切っていることをまるで僕個人の発想であるかのように書いていることもあると思いますが)、世の中で発生する議論それぞれに生じるこういった違和感をいちいち言語化していくのは気の遠くなるような仕事です(要らんことを言うと、こういうとき発想を日本語の枠組みだけに縛られないためにも、やっぱり英語の勉強は有用だと思います)。インターネット(特にTwitter)が意見交換や議論に向いていないように思うのですが、会って話したとしても表情や話しぶりで何となく分かった気になっているだけで、本当のところは分かり合えないのかもしれません。 ただ――何度も話を反転させて申し訳ないですが――、理想が遠いときにそれを諦めるのか、少しずつでも前進しようとするのかでは、結局届かなかったという意味で同じ結果が待っているにしても雲泥の差があると言いますか、いや、特定の人たちにとってそれは同じような意味しか持たないんでしょうけども、人間の生き方としてそれらに全く違った意味を見出す価値観もたしかに存在するわけで、それはそれで尊ばれるべきと言いますか、少なくとも最初から相手にされずに「きれいごと」や「身の程知らず」なんて言葉で切って捨てられるような類のものではないんじゃないかという気がします。 こんな話をした後でこんなことを言うのはアレですが、本作、東藤と村瀬の対話篇は、現代日本を生きる人々にとってすごく率直なところを鋭く突いている作品だと思います。本作のようにきちんと言語化したり友人と正面から話し合ったりはしないまでも、何となくこういうことを思っている人は多いような気がします。それこそ、世界平和のために自分も頑張るんだと言うと、踏み込んだ議論以前に「中二病」と言われてしまうような気配を感じます。当然ながら、突発的に「頑張るんだ」と思いついて頑張り続けられるほど現実は甘くないですし、理想に燃えるだけではすぐに燃え尽きてしまうのが人間の悲しいサガなわけですが、甘くない現実、複雑な現実とどう向き合っていくのかということは、特にウクライナ・ロシアがあんなことになっている現状だと、切実な問題になってくると思います。最後に言うことでもありませんが、考えるきっかけ、考えを言語化するきっかけを作ってくれたという意味で、本作は興味深い作品であると思いました。 長文失礼しました。 いつものことと言われればそれまでなのですが、今回は特にまとまらなかった方だと思います。1文も長いですし。すみません。<追記> 先日のエッセイに対するコメントの追記にさらに追加で申し上げたいことなのですが、書き言葉としては間違っている(少なくとも美しくはない)はずなのに違和感なく使ってしまっていた言葉、僕にも見つかりました。「○○の感覚を覚える」です。 言葉の綾とはいえ、「はぁ? 姫川さん何言ってんの?」みたいな書き方をしてしまい、本当に申し訳ありませんでした。
作者からの返信
コメントありがとうございます。 エッセイの方であればコメント内容に細かく返信させていただくのですが、こちらは創作ですので、作者が語るという野暮なことは控えたいと思います。なんかいろいろとみっともないので。せっかく丁寧なコメントを頂いたのに、すみません。 ただ言えるのは、彼らは良くも悪くも高校生です。村瀬の語る「ご大層な理想」も、東堂が語る「知ったような現実」も、程度なんて知れています。 今回、滑稽な話をしていたのはどちらだったのか。そんなことを考えて、私は1人でニコニコしています。気持ち悪いですね。 ちなみに、私は「きれいごと」も「正論」も大好きです! そう思い込むことで、日々私を悩ませる研究課題たちに立ち向かおうとしていたわけですが、……嫌いだったことを思い出しました。あじさいさんのせいです。← また、追記もありがとうございます。人間は間違っていても正しいことを言えるのです……なんてね!!(笑) 改めてありがとうございました。お褒めの言葉をいただきうれしいです。残念なのはそんな言葉をいただきながら読んでもらえないことです(笑)
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東藤と村瀬と真面目な話への応援コメント
こんにちは。
本作は、読んでいて思うところが色々ありますね。
比較するのはおこがましいかもしれませんが、僕の『なろう(系)小説談義』も傍から見るとこんな感じだったのかもしれない、と思いました。対話篇で片方が一方的に捲し立ててしまうと、もう片方が理屈の正しさ云々より先に迫力のせいで黙ってしまうといった印象がありそうです。もちろん、僕はそういう効果を見込んだ上であの作品を書きましたし、姫川さんが本作を書いたときもそれは同じだと思いますが、捲し立てている方に違和感を覚えてしまうと、何か言いたくなってしまいますね。実はそのおかげで読者の方々から応援コメントを頂けるという側面もあるのですが(笑)。
自分語りになって恐縮ですが、僕には嫌いな言葉がいくつかありまして、本作に関係するところで言えば、「きれいごと」という言葉と「正論」という言葉がどちらも嫌いなんです。「きれいごと」って、何かしらの理想や善に向かってひたむきに努力している人を嘲笑したい(努力することを最初から諦めている)人たち、あるいは、道徳と欲望を天秤にかけて丁度良いバランスを探るのでさえなく欲望のままに生きることしか知らないような人が、相手を論破できるだけの理屈を準備することもなくお手軽に相手を黙らせるために作った言葉に思えます。また、「正論」は、物事の一側面を切り取ってはいても総合的な視点を欠いている人の浅薄な理屈に「正」という字を使っており、正論を振りかざす人とそういう人に困らされている人のどちらも、それが理屈としては「正しい」と受け入れてしまっている感じがしますし、しかもそれと同時に(自分では『正しさとは何か』を真剣に考えたことなんてないくせに)「正しさ」なんてものは人それぞれ、時代ごとに違う程度のものでしかないと思っている感じがするところが、たまらなく嫌です。
お察しの通り、どちらも僕自身が言われて嫌だった言葉です。具体的には、「きれいごと」は僕が自分の考えを述べたときに友人から実際に投げかけられた言葉で、「正論」は僕が読んでいた小説の登場人物が愚痴で使っていた言葉です(「そういう正論が聞きたいわけじゃない」みたいな使い方だったと思います)。「きれいごと」や「正論」という言葉を使われてしまうと、相手に反論を聞く気がないことが分かってしまいますし、何か言おうにも、意見すること自体が「聞きわけが悪くて理性を欠いている態度」だと思われることが目に見えてしまう、だから納得できないのに黙らされてしまう、それが嫌だったんですよね。
で、本作に話を戻しますと、上手い具合に「きれいごと」を「正論」でぶった切っている感じがします。
自分でその生き方を貫徹するだけの覚悟がないのに理想だけを高々と掲げるのはたしかに「きれいごと」でしょう。覚悟がないということは努力しないということですから、一瞬だけその気になって、寝て起きれば忘れてしまう程度のことであり、そんな「理想」はむしろ唾棄すべきものだというのは、僕もそう思います。こんな奴が目の前に現れたら鬱陶しいし、僕だって難癖のひとつも言いたくなるでしょう。
ただ、当人たちが高校生であり、大学で何を専攻するかまだ決まっていない年頃であることを考慮すると、「世界平和のために英語なんかやっても何の意味もないやろ」と言ってしまうのは少々酷だとも思うんですね。僕自身の高校時代を引き合いに出して世の高校生の見識がいかに狭いかという無茶な話をするのはさすがに控えますが、英語の勉強をちゃんとしておけば(高校卒業後も継続すれば)英語圏のニュースや英語の論文を読めるようになり、そのぶん新たな知見を得るための選択肢が増えますし、大学3、4年目あたりで海外に留学するハードルもそれだけ低くなると見込めます(当然ながら語学以前に金銭的なハードルがあったりするのですが)。もちろん、英語に限らず、現代文も数学も物理学も日本史もその他の科目も、何らかの点で役に立ってくる(可能性がある)のだと思って、高校生くらいの年頃ならとりあえず基本的な手札を揃えることに専念してみるのも1つの戦略だと思います。
ひとりの個人が世界を救うだとか、みんなが学校の勉強に専念することが世界平和への道だとは言いませんが、個々人が世界平和は「きれいごと」でも「机上の空論」でもなく現実的に目指すべき目標であると確認し合うこと、そのために個々人が今の自分に出来ることを精一杯やることは、なんだかんだ言って必要だと思うんですね。もちろん、繰り返しになりますが、大したことをしてないくせに「俺ちゃんは世界平和に貢献してんだYo!」なんて言って偉そうにしてる人がいたら虫唾が走りますけども、たとえ自分が直接的に世界平和に貢献する(と思われている)仕事に就かないにしても、あるいは、たとえ自分には諸般の事情でちっぽけなことしかできないと熟知しているにしても、そういう理想を大切にする姿勢ってやっぱり必要なんじゃないかと思います。
とか言いつつね、「正論ではあるけど真理ではない」なんてことは誰のどんな理屈に対しても言えることであって、突き詰めていくと「人間はみんな黙るべき」って話になりそうなのは分かっているんですよ。「きれいごと」だとか「正論」だとかで片付けるのではなく、丁寧に議論していくことが必要なんだと思いますが、それもなかなかね。
姫川さんと僕では見ている「世界」が多少なりとも違うわけですから、僕の話もおそらく姫川さんには納得できない部分があると思います。きっと僕は何かを見落としながらこの文章を書いているはずですが(逆に姫川さんには分かり切っていることをまるで僕個人の発想であるかのように書いていることもあると思いますが)、世の中で発生する議論それぞれに生じるこういった違和感をいちいち言語化していくのは気の遠くなるような仕事です(要らんことを言うと、こういうとき発想を日本語の枠組みだけに縛られないためにも、やっぱり英語の勉強は有用だと思います)。インターネット(特にTwitter)が意見交換や議論に向いていないように思うのですが、会って話したとしても表情や話しぶりで何となく分かった気になっているだけで、本当のところは分かり合えないのかもしれません。
ただ――何度も話を反転させて申し訳ないですが――、理想が遠いときにそれを諦めるのか、少しずつでも前進しようとするのかでは、結局届かなかったという意味で同じ結果が待っているにしても雲泥の差があると言いますか、いや、特定の人たちにとってそれは同じような意味しか持たないんでしょうけども、人間の生き方としてそれらに全く違った意味を見出す価値観もたしかに存在するわけで、それはそれで尊ばれるべきと言いますか、少なくとも最初から相手にされずに「きれいごと」や「身の程知らず」なんて言葉で切って捨てられるような類のものではないんじゃないかという気がします。
こんな話をした後でこんなことを言うのはアレですが、本作、東藤と村瀬の対話篇は、現代日本を生きる人々にとってすごく率直なところを鋭く突いている作品だと思います。本作のようにきちんと言語化したり友人と正面から話し合ったりはしないまでも、何となくこういうことを思っている人は多いような気がします。それこそ、世界平和のために自分も頑張るんだと言うと、踏み込んだ議論以前に「中二病」と言われてしまうような気配を感じます。当然ながら、突発的に「頑張るんだ」と思いついて頑張り続けられるほど現実は甘くないですし、理想に燃えるだけではすぐに燃え尽きてしまうのが人間の悲しいサガなわけですが、甘くない現実、複雑な現実とどう向き合っていくのかということは、特にウクライナ・ロシアがあんなことになっている現状だと、切実な問題になってくると思います。最後に言うことでもありませんが、考えるきっかけ、考えを言語化するきっかけを作ってくれたという意味で、本作は興味深い作品であると思いました。
長文失礼しました。
いつものことと言われればそれまでなのですが、今回は特にまとまらなかった方だと思います。1文も長いですし。すみません。
<追記>
先日のエッセイに対するコメントの追記にさらに追加で申し上げたいことなのですが、書き言葉としては間違っている(少なくとも美しくはない)はずなのに違和感なく使ってしまっていた言葉、僕にも見つかりました。「○○の感覚を覚える」です。
言葉の綾とはいえ、「はぁ? 姫川さん何言ってんの?」みたいな書き方をしてしまい、本当に申し訳ありませんでした。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
エッセイの方であればコメント内容に細かく返信させていただくのですが、こちらは創作ですので、作者が語るという野暮なことは控えたいと思います。なんかいろいろとみっともないので。せっかく丁寧なコメントを頂いたのに、すみません。
ただ言えるのは、彼らは良くも悪くも高校生です。村瀬の語る「ご大層な理想」も、東堂が語る「知ったような現実」も、程度なんて知れています。
今回、滑稽な話をしていたのはどちらだったのか。そんなことを考えて、私は1人でニコニコしています。気持ち悪いですね。
ちなみに、私は「きれいごと」も「正論」も大好きです! そう思い込むことで、日々私を悩ませる研究課題たちに立ち向かおうとしていたわけですが、……嫌いだったことを思い出しました。あじさいさんのせいです。←
また、追記もありがとうございます。人間は間違っていても正しいことを言えるのです……なんてね!!(笑)
改めてありがとうございました。お褒めの言葉をいただきうれしいです。残念なのはそんな言葉をいただきながら読んでもらえないことです(笑)