2-4

 月英が萬華宮に勤めはじめて早くも一月が過ぎようとしていた頃、藩季は燕明の謎行動に嘆息をつく機会が多くなっていた。


「燕明様、随分と隈が薄くなられましたね。やはり月英殿が処方してくれる精油が効いているのでしょうね」


 藩季は香炉台や並べてある精油瓶を整頓していた。その姿を燕明は執務机から眺め、ほうと少々物思いに耽ったような熱い溜息を何度も吐いていた。


「……」


 決して何も言うまいと心に誓っていた藩季だったが、燕明のその溜息が十五度目にさしかかれば、仕方なしにと口を開く。


「……そういえば、月英殿は太医院で上手くやっているようですね」


 単刀直入に溜息の原因について言及すれば、燕明の身体があからさまに揺れた。


「げ……月英がどうしたんだ」


 今度は藩季が溜息を吐く番だった。


「そんな見え見えの態度で、何が『どうしたんだ』ですか。月英殿の事が気になっているのでしょう? 弟としてではなく」

「ばばば馬鹿な事を!? 弟としてでしか気にならんわ!」


 藩季は呆れた様な盛大な長嘆をしてみせた。


「……書類の見落とし読み違いは今や日常茶飯事、朝議はまるで上の空、いつも太医院の方を気にしてばかりで、仕事が進まないったらありませんね。ご自覚がないとは言わせませんよ?」

「う……っ」


 どれも身に覚えのある事ばかりで、反論できず燕明は気まずそうに唇を噛んだ。


「月英殿の香療術は、近頃では官吏達の間でも噂になっていて、とても忙しくしているみたいですよ。自ら出向かないと忘れられてしまいますよ」

「だから、なんで月英がそこで出てくるんだよ」

「燕明様がおかしくなられたのは、先日、月英殿の様子を見に太医院に行かれてからですから」

「人の頭をおかしくなったみたいに言うなよ。俺は皇太子だぞ?」

「私は藩季です」


 だからどうした、と燕明が口を引きつらせる。

 普通ならば皇太子に対してこの様な物言いをしようものなら、即座に首が飛ぶ。それでも藩季が未だに燕明の側に居るのを許されているのは、燕明がそれを望んでいるからだ。

 燕明はふぅと肺の底から鬱屈とした溜息を吐き出すと、体幹など無視した座りで椅子にずるっともたれる。そして感情のわだかまりを表わすように、きっちり整えてある前髪を手でぐしゃぐしゃに掻き乱した。


「……分からないんだよ。こんな……こんな気持ちになった事がないから」

「どんな気持ちなんですか?」

「どんな、って……こうして離れていると、今あいつは何をしてるかなと気になるし、他の医官達と仲良くしているところを見ると、良かったなと思う反面、少し……面白くない。それに、あいつが俺の為に選んだと思うと、その香りも以前より心地良い香りに思えてくる」


 燕明の言葉に藩季の目は点になり、口はポカンと開く。その口からは素っ頓狂な声が漏れ出る。


「はぁ~それは一分の隙も、疑う余地もない、紛う事なき恋ですねえ」

「はああああ!? 恋ぃ!?」


 今度は燕明が声を裏返し、驚きをあらわにする。


「待て待て! 恋って、月英は男だぞ!?」

「男同士でも、恋をしたりされたりはありますよ。こと宮廷にいては珍しくありませんよ。なんせ働いている者は全員男ですからね。女が居るといったら後宮の百華園くらいですし、仕方のない事でしょうが」

「その理解力……お前もしたりされたりがある、のか?」

「あっはっはっはっはっ!」


 笑って茶を濁す藩季の顔は笑っていなかった。燕明は、この話題には二度と触れないでおこうと口を噤んだ。きっと彼にも人に言えない過去があるのだろう。


「し、しかし、俺のこの気持ちは恋じゃないぞ、決して! ただ弟が気になるというようなものだな! うん!」

「ああ、以前にもそのような事を言われていましたね。ですが、その時と今と本当に同じ気持ちでしょうか?」


 そう言われれば燕明は黙り込んでしまう。


「同じ……?」


 以前も気になっていた。だが、これ程ではない。「いじめられてないと良いな」程度のものだ。

 藩季に連れられて現れたのは、小柄な上に痩せ細った貧相な身体の少年だった。栄養が取れていないと一目で分かる血色の悪さ。それに加え、顔を隠すようなうっそうとした前髪。もしかしたらその下に見られたくない傷でもあるのかもしれない、と燕明も藩季もその点には触れなかった。

 十四、五くらいかと思えば、十八と言うから驚いたものだ。まさか、立派な成人とは。

 月英という人間は、今まで自分達が関わる事のなかった部類の人間だった。国に下民が居るという事は把握していた。自分の国で苦しむ民が出ている事は恥ずべき事だし、その苦しみを体現したような月英の姿を見ると心苦しかった。不甲斐ない自分を責められているようで。

 だからせめてもと月英に医官としての仕事を与えた。少しでも普通の暮らしがおくれるように。目の前の一人を助けたとてどうにもならない事は分かっている。それでも、だからといって再び下民の生活に追い戻す事など出来はしなかった。


「最初は同情だったんだろうな。この小さいのは俺が守ってやらないと……って」


 弟だと思ったのは、その庇護欲もあったのだろう。

 しかし接してみると、月英という人間は同情するのもおこがましい程に逞しかった。

 時折何かを抱え込んだような空気を纏わせる事もあるが、それにしても太医院の医官達相手に一歩も引けを取っていなかった。


「今ではすっかり太医院の華だよな」

「へえ、月英殿を華と形容するんですね。これはこれは、随分とご執心のようで」


 再度発狂するかな、と藩季が揶揄えば、予想外にも燕明は落ち着いた声で答える。


「そうだな、どうにもあの異質さが目を離させてくれん。一体何をしてくれるのか、不運な状況をどうやって生き抜いていくのか、それを見たくて堪らないんだ。これを執心と言うのなら、そうなのだろうな」


 月英のすることはまるで予想が付かなかった。

 今回の事だとて、他の医官達と歩み寄れと発破をかけたのは自分だが、それは手伝いをしたり、下男染みた事からやり始めろという意味でだった。


「まさか、真っ向勝負をするとは思わなかった」

「しかも鬼のような勢いで、医官の服を引っぺがしたらしいですからね」

「本当何をやっているのやら。全く、見ていて飽きない男だよ」


 そう言って笑う燕明の表情はどこか嬉しそうで、藩季も思わず頬を緩める。


「月英殿には今度から燕明様を見たら、見物料を取るように提案しておきましょうかね」

「やめろ。本当に取りそうだから、あいつ」


 賞与を初対面でねだるくらいだ。皇太子相手に尋常じゃない肝の据わり方だ。

 燕明と藩季は互いに苦笑して頷いた。


「この息苦しい世界を変える一手になって欲しいものだな」

「ええ。もしかしたら本当に月英殿は我が国の新しい風になるかもしれませんね。燕明様の恋心にも」

「……ほじくり返すよなあ、お前」

「すみません。折角、無鉄砲そうに見えてちゃんと考えている系皇太子として話を閉じられようとしていたところをほじくり返してしまって」

「あえて言葉にして全文ふっかけてくるよなあ、お前。良い度胸だ」

「お褒めにあずかり光栄です」

「これが褒めてないんだよなあ」


 瞼を重くしたうんざりした顔で藩季を睨むも、藩季はにこにこといつもの表情を崩さない。


「残念ながら、俺は月英が笑っていてそれで良いとしか思ってないね。もちろん、弟として――」


 藩季はにたりと意地悪い笑みを浮かべ、燕明の耳元でぼそりと呟いた。


「不男色」


 途端に、余裕を繕っていた燕明の顔が火を噴きそうにぼんっと赤くなる。


「あ……なっ、お……ま、さか……見っ!?」

「とても見事な書き取りでございました」

「っ藩季ィィィィィ!!!!」


 藩季は新しい揶揄いの種が出来た、と高らかな笑声を部屋にこだまさせた。


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