第6話 イクサの刃
ヒトの世の軒借り人。
事実を突きつけられても、そうやすやすと受け入れることはできなかった。こうやって授業を受けていたら、教師から当てられるし、自分の机だってある。孝則や春野だって、笑いかけてくれる。
(どうして、あんなことを言うんだ?)
横目ですまし顔をして世界史の教科書を見ている八尋を見た。八尋は当てられても淡々と答えていく。八尋には謎が多い。
一族?
ヒトとの盟約?
鍛冶師?
何一つとして思い浮かばない。昨日の火事だって、少しずつ人の中から忘れ去られていくような気がした。
火事?
ふと、戦は自分の右腕を見た。火事にはいい思い出が無い。
(この傷は、何か意味があるのだろうか。いや、考えちゃだめだ)
でも、もし。全てが本当だとしたら?
自分になにができるというのだろうか、と戦が考えようとした時、ふと気配を感じた。気配じゃない、”臭い”だ。
まるで極彩色のうろこを持つ蛇のような、飢えた獣のような、悪寒を感じる臭いに戦は顔を上げた。戦の動きに気がついた八尋が声を潜めて問いかける。
「若君?」
「八尋、何か臭わないか?」
「いいえ、なにも? 若君、どうされたのですか?」
こんなにも濃く臭っているというのに、誰一人として気づいていない。おかしい、と思うよりも先に戦は席を立つ。
「庵さん、どうしましたか?」
温厚な世界史の教師は小首をかしげながら言う。本来なら、保健室に行きます、というような適当な嘘をつけるけれど、そんなことをしている暇はないと直感が告げている。
「便所!」
そう言って戦は教室の後ろのドアから廊下に飛び出した。走りながら、戦は感覚が尖っていくのを感じた。臭いがしている方へ、それは学校の校舎裏。実習室がある棟と、教室の棟の境目の影に見つけた。
「だ、誰ですかっ?」
戦の方を見上げ、上ずった声を上げる男子生徒に戦は目を見開いた。制服がここのものじゃない。見慣れない制服の生徒があわてふためいて、こちらを見ている。高校生なのは見た目で分かるけれど、それ以外分からない。眼鏡をかけ、いかにも気弱そうな生徒は、せわしなくあちこちを見渡している。
何かを見られたくないようで、縮こまっている。
「なにしてんだよ。ここはお前の学校じゃないだろ?」
「わ、わかってます。で、でも。こいつが、言うんです」
「こいつ?」
こいつ、という表現に戦は疑問符を浮かべる。こいつ、というからには生徒の近くに対象があるべきなのに、それらしい人物は見当たらない。
「こいつが、その。鬼の血を寄越せ、と」
ぐにゃり、と彼の頭上の空間が腐った果実のように歪みだし、ぼとり、と何かが落ちた。それは伸縮を繰り返し、ボボボボと大きな泡を作り、形を作っていく。
「鬼の、血?」
「ああ、これなんだね。
「べに、こい?」
赤い線を描き、それは鋭い刃を彼の手に握らせる。昨日会った女子生徒は黒いもやが渦巻いていたけれど、彼の周りにはそれはなく、代わりにその手にする刃は現実によくある剣によく似ていた。
「初めまして、鬼の若君。俺は、坂巻雄吾って言います」
「……庵戦だ。ご丁寧にどうも」
若君という言葉が引っ掛かるけれど、とりあえず名乗ってくれたのはありがたかった。雄吾は息をつくと、戦に剣を突き立てようとかけてくる。
しゃがみこんだ雄吾が足払いをかけてくる、それを後ろに下がって避け、戦は冷や汗をかく。それを見越していたのか、雄吾は剣を振り下ろす。剣道は体育でやったけれど、それとは全く違う。本当の剣だ。
風を斬る音が、雄吾の目が、冷酷な現状を突きつけてくる。雄吾の目は笑っていない、怯えでもない。ただただ、何かを妄信しているような目だった。
(鬼の血を寄越せ、だなんて。どういう事だ?)
「この剣があれば、きっと、きっと! 紅鯉のお陰で、俺は強くなれたんだ! だから、もっとこいつを強くするんだ! そのために、血を寄越せ!」
「なに言ってんだ! 俺は人間だ!」
「この剣が見えて、なおかつ避けられるなら、お前は人間じゃない!」
「!?」
人間じゃない、という言葉に戦の足がもつれた。朝の出来事がフラッシュバックする。己が初めてこの世の住人でないことを知ったこと、今まで積み上げてきた時間が無駄だと突きつけられたこと。それらが戦の足を止めた。
その隙を雄吾は見逃さなかった。戦の腹部に剣を突き刺し、そして引き抜いた。
背中から地面に叩きつけられ、戦は宙に舞う己の血を見上げた。赤い、赤いその色。人間じゃない、ならなぜこの色は赤いのだろう。
(俺は人間だ)
ドクン、ドクン、と心臓の音が間近に聞こえる。
(みんなと過ごした時間が無駄だって、思いたくない)
ドクン、ドクン。
(俺にはまだ知らなきゃならないことがある)
それに、死ぬな、と言われた。あの自分は一体何を見てきたのだろうか。
ドクン、ドクン。
(さぁて、御役目御役目っと)
誰かが手招きしている。
――― ここに罷り通る。
「あっけない。この血を吸わせれば、紅鯉が……」
雄吾がその剣を戦の心臓に突き立てようとしたその瞬間、まばゆい光が戦を取り囲んだ。目がくらんだ雄吾の体が二、三歩下がる。と、その体はそのまま背後の校舎に叩きつけられる。ぱらぱらと砂ぼこりが巻き上がり、何が起こったか雄吾には判断がつかなかった。
「―――
低い、イクサの声が響く。その手には昨日顕現したばかりの白刃。脳裏に浮かんだ名前をイクサは告げる。その目には怯えはなく、ただ一点のみを見る。その目にとらえられた雄吾ははは、と笑いだす。
「はは、やっぱり。鬼はそうじゃなくちゃ!」
混乱と恐怖にかたどられた声を雄吾が上げる。白い体、白い髪。体に浮かんだ文様に、もう驚きはしない。なぜなら、自分は17年間そうだったのだから。
「紅鯉、行けるな!」
雄吾の手に力が込められる。そして、イクサに向かって駆けだしていく。イクサは止まったままだ。けれど、雄吾が剣を振り上げたその一瞬を逃さなかった。
頭に思い描いた線をなぞるように振り下ろす。
ミシリ、と音を立てながら紅鯉は崩れ落ちて行く。鱗のように、花弁のように空に昇っていくそれをイクサは見上げた。
「………」
どさり、と地面に伏した雄吾に恐る恐る近づく。イクサはどうしようか、と思った。ふと顔を上げると、雄吾を担いだ八尋がいた。
「せいとうぼうえーって奴かいね。なぁ、八尋」
「ええ、その通りでございます。これは、おそらく最近になって鍛冶師がばら撒いた剣でしょう。あなた様が狩るべき大業物ではありません」
口調も雰囲気も変わった戦に大した反応もなく、八尋は淡々と続ける。
「剣憑きになったものは、その深度によってその反動は異なります。この人間はまだそこまで進んでいないので、しばらくすれば元通りに生活できるでしょう」
「ならよかった。八尋、大業物って何だ」
この剣が大業物だとは知っている。けれど、それがどんなものなのかは全く分からない。
「大業物は鍛冶師どもがその心血を注いだこの世に五振ある剣の事です。名前までは存じませんが、昨日この辺りを焼いた剣は間違いなく大業物で間違いないでしょう」
「…………」
「大業物は大きな力とともに、その浸食度合いも深く、早く剣憑きを探し出さねば、手遅れになりかねないのです」
「そうかィ」
「では、私はこの人間をしかるべきところに連れて行きます」
「情報を吐かせるのか?」
その問いに、八尋は首を振った。
「この程度の力しか出せないのであれば、有益な……鍛冶師に繋がるものは持っていないでしょう。病院に知り合いがいるので、彼女に見せに行くだけです」
「まかせた」
「承知」
そういうなり、八尋は飛び去っていく。
「是空、か」
イクサは空を睨む。初めて見上げた本物の空に手を伸ばす。白い手、赤い文様。
「さぁて、御役目を果たさせても……」
そう言いかけ、イクサは目を閉じる。目を開けた戦は深くため息をついた。
「なんだったんだ? なにも、覚えてないや」
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