りっぱなおとな⑨
「……おはようございまーす」
いつものように挨拶を口にしながらオフィスに入ると、始業までまだ三十分くらいあるにも関わらず、室内が既に昼間と同じ明るさで照らされていた。その割に人の姿がほとんど無くて違和感を覚えたが、室内を見回してようやくひとりの人影を見つけた。
「よう。早いな」
休憩スペースで湯気が立つ紙カップを片手に佇んでいたのは沖田さんだった。いつも始業の五分前くらいに出社してくる印象だったので、ちょっと驚いてしまった。
「お、沖田さんこそ早いですね」
「まあな。白川っていつもこのくらいの時間に来てるんだろ? だからあいつとちょっと話がしたくてな」
今日は白川くんが忌引き明けで出勤してくる日だ。試聴会終わりに沖田さんと電話した時、その口ぶりからいろいろと思うことはあるんだろうなって気がしていた。
「で、そういう野中も……、ってお前はいつも通りだったよな」
「まあそうですね」
「でも、なんか一言ぶつけてやりたいって顔をしてるようにみえるんだが?」
「そ、そんなことないですよ」
そう否定してみるけど、沖田さんの全部お見通しとでも言いたげな目線に耐えかねて、自分から目線を逸らしてしまった。まあ白川くんに対して思うところがあるのは事実なんだけど……。
ただ、白川くんに対してどういう言葉をどんな口調で伝えるべきなのかが旨くまとまっていない状態だ。目を覚ましてから電車に乗ってここに来るまでの間ずっと考えていた訳だけど、以前沖田さんに注意されたことが頭に過ってしまって、結局自分の中での正解が見つけられなかった。
そんな気持ちも顔に出てしまっていたのか、沖田さんがため息を吐く。
「まあその気持ちは否定しないぞ。俺だって一言文句を言ってやりたいと思うし。ただ、言いたいことが纏まってないんだったら一旦言葉を飲み込んでな、よーく考えてからでもいいんじゃないか?」
言葉が出なかった。でも、沖田さんの言うとおりかもしれない。今の自分では勢いに任せてどんなことを口走ってしまうかわからない。
「まあいいや。とりあえず今は俺が話をするから――」
諭すように話しながら沖田さんが頭を掻く、その時だった。
――ビターンっ!
沖田さんの話を遮るように背後から大きな物音が飛んできた。それに驚いて振り返るが、室内に誰かがいる気配が無く物が倒れた様子も無い。ただ、空気を揺らし続けるように何かが震える音だけがオフィス中に低く響いていた。
「な、なんですか今の?」
「多分、入り口の方からだったよな」
沖田さんが手に持っていたカップをテーブルに置き、入り口の方へずんずんと歩き出した。実月もそれに続いてオフィスの扉の前までやってくると、おそるおそる扉を押し開ける。すると、その先の廊下にばったりと倒れている人の姿があった。
「だ、大丈夫ですか?」
咄嗟に声をかけると、その人物はゆっくり顔を上げる。その顔を見て、実月と沖田さんははっと目を見開いた。顔色が青白いのに汗まみれで、すっかり息が絶え絶えになってしまっているその人物は白川くんだった。
「あ……、お、おはよう……ございます……」
彼は荒れる呼吸の合間で、何とか挨拶の言葉を述べていた。
*
「どう、落ち着いた?」
「は、はい……。もう大丈夫です」
休憩スペースのソファに座ってそう答える白川くんだが、未だに息が整いきってない様子でちょっと心配だ。ただ本当に落ち着いたのか、青白かった顔色はいつも通りの血色を取り戻しており、倒れたときに扉へぶつけてしまったであろう額を手で摩っていた。
時刻は既に始業時間の目前で、オフィスには人がほぼ出揃っている状態だ。そんな中でECチームの人間が休憩スペースでただならぬ様子の白川くんを囲んでいるものだから、側を通った誰もが何事かと二度見してくる。
「あの、白川さんどうしたんですか?」
ついさっき出勤してきたばかりの阪根さんが実月と白川くんを交互に見比べながら首を傾げたので、実月は彼女の顔を見ながら口を開いた。
「白川くんがついさっき入り口の前ですごく息を切らした状態で倒れてたんだよ」
「えっ、ここに来るまでに一体何があったんですか?」
「えっと、会社まで急がないとと思って駅から走って来ただけなんですけど……」
昔から運動が苦手で……、と付け加えた白川くんはテーブルに置かれたスポーツ飲料のボトルに手を伸ばし、それをちびちびと飲み始めた。明らかに尋常じゃ無い体調の彼を心配して、実月が買ってきた物だ。だけどいくら運動が苦手でも、最寄り駅から普通に歩いて十分もかからない距離を走っただけで命の危機が頭を過る様な顔色になったりするものなんだろうか?
すると、スポーツ飲料を飲み干した白川くんを見下ろしながら、沖田さんは呆れたように話し始めた。
「あの時間なら全然遅刻じゃないし、走ってくる必要も無かっただろ?」
「えっと、無断で勝手に休んでしまったので、その……」
目を逸らしながら歯切れ悪く答える白川くん。それを聞いて、沖田さんは大きくため息を吐いた。
「この前も電話で話したけど、別にそんな気を回さなくて大丈夫だって。休暇の取り方がよくわからなかったんだろ? それが今回ので理解できたんだから、次からはその通りにしてくれたらそれでいいし」
沖田さんの口振りはどこか呆れたような感じだったが、白川くんのことを責める訳でもないものだった。すると、白川くんがおそるおそる沖田さんの顔を見上げる。その顔は恐れと不安とほんの少しの驚きが入り交じっているようだった。そんな白川くんの様子に、沖田さんは表情を緩めて彼に微笑みかけた。
「それより、ちゃんとおばあさんのお見送りができたか?」
「……は、はい」
「よしっ。それならこの話は終わりっ! お前が休みだった間に仕事が溜まってるんだから、体調が落ち着いたなら早く机に戻れ」
「わ、わかりました」
沖田さんに発破をかけられ、白川くんは戸惑う様子を見せながらソファから立ち上がって自分の机へと早足で向かっていく。そして、椅子に腰を下ろすと早速パソコンを立ち上げながら机の上の書類に目を通し始めた。そんな彼の様子を目で追っていると、
「ほらっ、阪根ちゃんも。始業の時間がとっくに過ぎてるから、席に戻った戻った」
白川くんの時と同じように促された阪根さんが「は、はい」と返事をして、バタバタと慌ただしげに自分の机へと向かっていった。
「さてと、そろそろ俺たちも仕事を始める……、ってどうした?」
ハッと気がついたように横へ顔を向けると、沖田さんが不思議そうな顔で実月のことを見つめていた。
「あっ、いやその、なんかあっさりと話が終わったなって驚いてしまって……」
「そりゃな。言いたかったことはこの前電話で全部伝えてたからな、必要以上にグチグチ責める必要は無いし。野中だってそれをされたら嫌だろ?」
「そう、ですね」
「時間の無駄だし、聞く方だけじゃなくて言ってる方も気分が悪くなるだけだしな。どうしたらみんなが気持ちよく仕事できるのか考える事も上司の仕事だぞ」
……器が大きいな。両手に腰を当ててそう語る沖田さんを見て、そう感心する気持ちが湧き上がってきたのと同時に、一抹の暗い何かが押し寄せてくる。
「あの……、俺も、その、沖田さんのように上司としての仕事をこなせるでしょうか?」
気がつくと、ここ一週間くらいの間で生まれていた不安が口から零れ出ていた。自分でも今更何を言っているんだろうとは思う。だけど、この一週間くらいの自分を振り返った上で沖田さんの振る舞いと比較してみると、自分も同じような役割が担えるだろうかと心臓が潰れるような苦しみに襲われてしまうのだ。
すると、真顔で実月の話を聞いていた沖田さんは明るい表情を作ってから口を開いた。
「野中ならできるはずだぞ。だってお前ももういい大人なんだしな」
そう笑いかけてくる沖田さんは実月の背中をポンと叩くと、自分の机があるほうへ向かって歩いていってしまった。その背中を目で追いかけながら、実月は頭の中で沖田さんの言っていたことを噛み砕いていた。
……いい大人、か。
確かに自分の年齢的にはそう言われてしかるべきなんだろう。だけど心のどこかでは、自分はまだ大人とは呼べないんじゃ無いかって気がしてならないのだ。
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