第3節 赤い照明の下で
天井の照明が、一斉に色を変えた。
さっきまで白かった光が、ゆっくりと暗くなり、空気ごと沈んでいく。代わりに、非常モードの赤がじわじわと室内を染めた。壁一面のモニタの映像だけが、別世界の窓みたいに冷たい色を保っている。
指揮室の奥で、低い電子音が鳴り始めた。一般フロアとは違う、ここだけの警告音だ。断続的なブザーではなく、一定の間隔で鳴る低音のチャイム。耳に残るが、うるさくはない。
その音を背中で受けながら、槙野はゆっくりとネクタイを指で整えた。
指揮卓には、さっきまで開いていた日報とボールペンが置きっぱなしだ。紙の上には黒いインクの小さな点がひとつ。ページの途中で書きかけだった文字が、そこで止まっている。
彼はそれを一度だけ見下ろしてから、肩をすくめた。
「んー……この色、落ち着かないね」
独り言のような声だったが、室内の何人かがちらりと振り向いた。
「加賀くん」
名前を呼ぶ。
「はいっ!」
すぐ後ろで、いつもの返事が飛んだ。
振り返ると、ヘッドセットを首元までずり下ろした加賀が、端末を抱えたまま立っていた。額にはうっすら汗がにじんでいる。緊張と走り回ったせいの汗だ。
「赤くなると、なんか大事に見えるでしょ。騒ぎがひとつ増えたみたいでね。あんまり好きじゃないんですよ」
槙野は、天井を見上げた。
「だから、早く片付けましょう」
「……はい。でも、片付けるってレベルじゃないですよ、これ」
加賀は半分笑いながら言った。その目は笑っていない。手元の端末に視線を落とし、指で画面を素早くスクロールする。
壁のスピーカーから、無機質な女声が流れてきた。
「警告。地下第三ブロック、外部回線切断。全フロア、非常遮断モードへ移行。エレベーター封鎖。階段ルートのみ有効」
続けて、短くチャイムが鳴る。
「通信経路、社内網のみ。外線通話は停止されました」
オペレーター席の何人かが、思わず顔を上げた。
「……完全に締めちゃいましたね」
加賀が小声でつぶやく。
「そういう仕事ですからね」
槙野は、淡々と答えた。
「外から見たら、今日も平和な一日ですよ。エレベーターがちょっと止まって、社内チャットが繋がりにくいだけです。中で何をしているかは、誰も知らない。そういう契約なんです」
彼は指揮卓の前に一歩進み、中央モニタを顎で示した。
「で、彼女は?」
「主任、モニタ三番です!」
オペレーターの一人が、慌ててチャンネルを切り替える。
壁の中央、最も大きなモニタに玄関フロアの映像が映し出された。強化ガラスの自動ドア。散らばったガラス片。警備ゲートのフレームは半分ねじれ、倒れかけている。
その真ん中に、少女がひとり立っていた。
制服に見えるスカート。肩までの髪。照明に照らされて白く反射する肌。その周囲だけ、細かい光の粒がまだ消えきらずに漂っている。
映像越しでも分かる異物感だった。
「……止まってますね」
加賀が息を飲んだ。
「さっきからほとんど動きません。攻めてこない、というか……待ってるみたいな」
「待つのが得意な人なんですよ、きっと」
槙野は、眼鏡の位置を指先で少しだけ直した。
「私たちの方が落ち着きをなくして、先に動くのを待ってる。そういう顔です」
「顔、見えました?」
「表情までは分かりませんけどね。雰囲気で、だいたい」
彼は軽く笑って、モニタ右上の別チャンネルへ視線を移した。
エントランス周辺のセンサー表示が並ぶ画面だ。心拍、体温、位置情報。通常ならば社員のIDと紐づくデータが表示されるはずの場所に、「識別不能」の文字がいくつも重なっている。
「主任、バイタル、やっぱりおかしいです。心拍数が……」
オペレーターが画面に顔を近づける。
「平均値の二倍から三倍。上がっても落ちないんですよ。普通なら息が上がって倒れますけど、一定で維持されてます」
「機械の間違いじゃないんですか?」
槙野が、わざとらしく首を傾げた。
「さっき調整したばかりですよね? 加賀くん」
「しましたよ! ちゃんとしましたって!」
即答だ。
「主任が昨日、“こういうのはね、日常点検が命なんですよ”って言うから、念入りにやりましたよ!」
「んー……そうでしたっけ」
槙野は、あまり興味なさそうに相槌を打つ。
「まぁ、いいです。せっかく君が頑張って点検した機械ですからね。信じましょう。機械は正しい。人間の方がおかしい。いつものことです」
「いつものこと、なんですかね、これ……」
加賀は苦笑しながらも、心拍の波形から目を離せない。
モニタの中の少女は、ほんの少しだけ視線を上げたように見えた。
玄関ホールの天井にも、防犯カメラがいくつも埋め込まれている。そのひとつの方角へ、まっすぐに。
カメラ側のレンズも、指揮室のモニタも、当然表情など返さない。それでも、画面の中の視線がこちらに届いた気がして、室内の何人かが一拍、息を止めた。
「……見てますね」
槙野が、淡々と言った。
「こっちを見てる。目が合ったつもりになってるのは、たぶん私たちだけでしょ。でも、それで十分です」
加賀が、ごくりと喉を鳴らした音が、近くにいた数人の耳に届く。
「主任」
彼は、堪えきれずに口を開いた。
「そろそろ、ガス、いいんじゃないですか。封鎖も完了してますし、避難も済んでます。これ以上近づかせたら、玄関フロアだけじゃ済まないですよ」
「んー……」
槙野は、正面のパネルを指で軽く叩いた。
「加賀くん。君ね、さっきから“そろそろ”って三回言いましたよ」
「えっ? そんなに言いました?」
「言いました。さっき、外のバリケードで“そろそろ閉めましょう”、ここへ来てから“そろそろ非常モードにしましょう”、で、今“そろそろガス”です」
と、指を一本ずつ折りながら数えて見せる。
「焦ってる人の口癖なんですよ、“そろそろ”って」
「だって、焦りますよ!」
加賀は、思わず声を上げた。
「魔法少女ですよ、相手! あんなのに基地の中まで好き放題されたら、僕ら、上から何言われるか……」
「怒られるのが怖い、と」
「そりゃ、怖いですよ!」
「私もですよ」
槙野は、きっぱりと言った。
加賀が、少し意外そうな顔を向ける。
「私だってね、報告書を書くのは嫌なんです。ああいうのはね、静かに無事に終わった案件にだけ書きたいんですよ。だから、怒られない方がいい。そこは同じです」
そこで一度言葉を切り、小さく息を吐く。
「でもね、焦るとね、だいたいろくなことがないんです」
彼は、加賀をまっすぐ見た。
「ここからガスを流すのは簡単ですよ。ボタンを押せば、管が開いて、薬剤が流れて、三分もすれば、あの玄関ホールは使い物にならなくなる。人も物も。それで本当に終わるなら、私が一番に押しますよ」
「……終わらない、ってことですか」
「たぶんね」
槙野は、中央モニタを指さした。
「見てください。あの立ち方」
「立ち方、ですか?」
「普通、あの位置に人がいたら、扉の前から動きますよ。もっと隠れるとか、カウンターの陰に入るとか。撃たれたくないから。あれは、撃たれても平気だと思ってる人の立ち方です」
少女は、ほんのわずかに膝をゆるめている。だが、その重心は常に前へ向かっている。逃げる準備ではなく、踏み込む準備だ。
「ガスが届くまで少し時間がかかります。その間、あの子はどうするか。じっと待ってくれるのか。……私は、あんまり期待してないんです」
加賀は口を噤んだ。
壁の別モニタには、玄関ホール手前の廊下に待機する武装警備隊の姿が映っている。黒いフルフェイスヘルメット。フルボディアーマー。胸元と腕には、白く「NEBULA」のロゴと渦巻き型の社章。
彼らは、射線を切りながら、膝をついて銃を構えている。すでに弾倉は交換済み。照準は玄関へ向けられたままだ。
「主任。前線の班長からも、ガス要請が上がってます」
オペレーターのひとりが、イヤホンを押さえながら報告する。
「“視認できないエネルギー反応あり”“弾が逸れる”“通常の制圧は困難”……って」
「弾が逸れる?」
槙野は、その言葉だけを抜き取った。
「そう言ってるそうです。“壁ごと抑えたのに、抜けられた”“盾を出したが、意味がなかった”……」
「いやいやいや」
槙野は、首を左右に振った。
「違うんですよ。壁ごと抑えたのに抜けられたなら、壁が足りないんですよ。盾を出して意味がないなら、盾の出し方が悪い。……まぁ、そう言いたいところですけどね」
そこで、表情を少しだけ真面目に戻す。
「分かりました。ガスは使います」
加賀が、ほっと息を吐いた。
「ただし」
すぐに、釘を刺すように続ける。
「段階を踏みます。いきなり濃度を上げない。避難が終わっていない区画がないか、もう一度だけ確認する。空調の流れも全部チェックする。書類の上だけじゃなくて、現場からも声を取る」
「……はい」
「あとで“聞いてない”“知らなかった”って言われるのは、私は嫌いなんですよ」
彼は指揮卓にあるインカムを取った。
「こちら地下指揮室、主任の槙野です」
マイクに向かって、落ち着いた声を流す。
「神経ガスの散布準備に入ります。対象は玄関ホールから第一防衛ラインまで。一般社員の退避状況を、各フロアの責任者から直接報告してください。安全区画に入っていない人間が一人でもいたら、即座に中止します」
しばらくして、各フロアの責任者から次々と報告が入った。
「第六ブロック、退避完了!」
「物流ライン、残り二名が避難通路を移動中。あと三十秒!」
「研究棟側、全員シェルター入りました」
短く、はっきりした声が、スピーカーを通して響く。
指揮室の時計が、秒針を刻む音を立てる。実際には聞こえないはずの音まで、誰もが意識していた。
「物流ライン、退避完了!」
最後の声が届いた。
槙野は、すぐには返事をせず、わざと一拍置いた。
「……よろしい」
そして、アナウンス担当のオペレーターへ視線を送る。
「じゃあ、お願いします」
「はい」
オペレーターが、事前に用意されていたメッセージを流すためにボタンを押す。
「注意。地下第二〜第四ブロックにおいて、神経ガスを散布します。対象区画の扉はすべてロックされます。安全区画から出ないでください」
女声の合成音が、落ち着いたトーンで繰り返す。
「ガス散布まで、あと六十秒です」
その声が途切れると同時に、別のシステム音声が切り替わった。
「神経ガス、散布ライン加圧開始。安全区画の気圧調整を行います」
床下から、かすかな振動が伝わってくる。部屋の空気がわずかに動いた気がした。実際の変化はほとんどないが、人の体はこういう揺れに敏感だ。
加賀は、ごくりと喉を鳴らした。
「主任……」
「大丈夫ですよ」
槙野は、淡々と言う。
「こういうのはね、スイッチを押した瞬間より、その前の時間が一番嫌なんです。押すときは、もう決まってますから。今が一番、しんどい時間です」
「十分しんどいですよ、今」
「だからこそ、落ち着くんです」
彼は、加賀の肩をぽん、と軽く叩いた。
「加賀くん。君、さっきから端末を握る手が震えてますよ。画面が見えなくなるから、やめなさい」
「震えますよ! こんなの!」
「そうですか。じゃあ、あとで手当ての申請を出してください。“神経ガス散布に伴う精神的負荷による手の震え”」
「そんな申請、通りませんって!」
「通るかどうかは別として、出すのは自由ですからね」
わざと脱線した話を挟んでから、また正面を向く。
「さて」
中央モニタには、玄関ホールの映像が映り続けている。
天井の噴出口が、ゆっくりと開いた。細いノズルがいくつも顔を出し、白い霧を吐き始める。煙のように見えるが、これはすべてガスだ。
床近くから、じわじわと白さが広がっていく。
少女は、まだ動かない。
「主任。あの……」
加賀が、ためらいがちに口を開いた。
「一応確認ですけど、このガスって、うちの人間の防護服には効かないんですよね?」
「“一応”って言い方、やめなさいよ」
槙野は、軽く笑った。
「効かないように、作ってるんですよ。そういう契約です。ただし」
「ただし?」
「脱いでる人には効きます。マスクしてない人にも効きます。手順を守らない人間には、平等に効くんです」
「……それ、平等って言うんですかね」
「言いますよ」
槙野は、きっぱりと言った。
「システムはね、ちゃんと守る人を守るようにできてるんです。守らない人を守るようには、できてない。だから、うちでは毎月あれだけ訓練やってるんです。ね?」
「まぁ、そうですけど……」
「文句があるなら、訓練をサボった人に言ってください」
彼は肩をすくめた。
別のモニタには、玄関手前の廊下で待機している武装警備隊の映像が映っている。彼らはすでにガスマスクを装着し、ヘルメットのバイザーを下ろしていた。黒い装甲の表面には、緊急灯の赤い光が反射している。
その中に、ひときわ目立つ姿がひとつあった。
「主任」
オペレーターが、別のカメラを拡大表示する。
「レッドライン、現場到着しました」
画面に映ったのは、ほかの隊員たちよりわずかに細身のシルエットだった。コンバットスーツの形自体は同じだが、動きに無駄がない。後頭部で束ねた髪が、ヘルメットの下からわずかに覗いている。
ヴァーニ・クロフォード。
ネブラ社の精鋭部隊「レッドライン」の筆頭であり、戦闘要員として最も危険なひとり。
彼女はヘルメットを片手にぶら下げたまま、廊下の壁にもたれていた。ガスマスクはまだ首から下げた状態だ。
横を通り過ぎる一般の武装隊員たちが、自然と少し距離を空けて歩いていく。その様子に、ヴァーニは興味もなさそうに視線だけを動かした。
「やっと、来たのね」
モニタ越しにも聞こえるほど、明瞭な声だった。
彼女は、耳元の骨伝導イヤピースを指で軽く弾いた。
「主任、聞こえてる?」
「聞こえてますよ」
槙野は、マイクをオンにする。
「仕事中ですからね。あんまりだらしない声は出さないでくださいよ。部下が見てますから」
「だらしなくなんかないでしょ」
ヴァーニは笑った。
「こっちはずっと待機してたのよ。外で遊ぶチャンス、やっと回ってきたんだから。少しくらい嬉しがってもいいでしょ」
「遊びじゃないんですよ」
「分かってるって」
彼女は、ヘルメットを持ち上げて見せた。
「で、あれが例の“お嬢さん”ね?」
視線の先には、白い霧に包まれ始めた玄関ホールがある。映像越しに、少女の姿が少しずつ霞んでいく。
「そうです」
槙野は、短く答えた。
「私たちが嫌いなタイプの人ですよ。契約書を読まないで現場をひっくり返す人たちです」
「いいじゃない」
ヴァーニの口元が、楽しげに歪んだ。
「あたし、そういうの嫌いじゃないのよ。うるさい子ほど、静かにさせたくなる」
「だから、あなたは人事には向かないんです」
「向いてるなんて、一回も言ってない」
軽口が終わると、彼女はヘルメットを頭にかぶり、ロックを閉めた。カチリと音がして、バイザーが密閉される。
首から提げていたガスマスクも持ち上げ、ヘルメットの下にしっかりと装着する。
「主任」
加賀が、おそるおそる口を挟んだ。
「ヴァーニさん、本当にガスマスク必要なんですか? あの人、たぶん、こういうの効かないですよね?」
「必要なんですよ」
槙野は、あっさりと言った。
「あれを着けさせないと、規定違反で私が怒られるんです。だから、着けてもらいます。どれだけ効かなくても」
「怒られるの、主任なんですか」
「そうなんですよ。世の中、そういうふうにできてるんです」
ヴァーニは、ヘルメット越しにカメラへ視線を向けたようだった。
「聞こえてるわよ。そういう愚痴」
「愚痴じゃないですよ。事実です」
槙野は、さらりと言う。
「でもね、あなたがちゃんと着けてくれるから、私は助かってるんです。ありがとう」
「……なんか、腹立つ言い方ね、それ」
そう言いつつも、ヴァーニはきちんと装備を整えた。
腰のホルスターには拳銃。背中には折りたたまれたカーボン製の長物。前線へ出れば、すぐに展開できるようになっている。
その姿を、廊下の端にいた戦闘員がちらりと見て、思わず姿勢を正した。
「主任」
加賀が、小声で尋ねる。
「出すんですね。ヴァーニさん」
「他に、適任がいますか?」
槙野は、静かに言った。
「魔法少女と正面からやり合って、戻ってこられる可能性が一番高い人ですよ。彼女は」
「……それ、褒めてるんですよね?」
「もちろんです」
彼は、少しだけ口角を上げた。
「ただ、本人にはあんまり言わない方がいいんですよ。調子に乗りますから」
「聞こえてますからね?」
ヴァーニの声が、イヤピース越しに返ってくる。
「それで?」
彼女は、エントランスへと続く廊下の先を見た。
「指示は?」
槙野は、モニタ越しに彼女の姿をじっと見た。
ガス散布のカウントダウンが、画面の隅で減っていく。残り三十秒。白い霧は、すでに玄関ホールの床を覆い尽くしつつあった。
少女のシルエットは、その中で、まだまっすぐ立っている。
「……もう少しだけ、準備の話をしましょう」
槙野は、マイクから口を離さないまま言った。
「いきなり走ると、足をくじきますからね」
ヴァーニは、わざと大きくため息をついた。
「ほんと、そういうとこ、変わらないわね、主任」
そう言いながらも、彼女は廊下の中央へ一歩踏み出した。靴底が床を踏む音が、かすかにマイクを通して伝わってくる。
加賀は、その背中を映すモニタを見つめながら、腕を組んだ。自分の手の震えが、少しだけ収まっていることに、本人だけが気づいていた。
神経ガス散布のカウントダウンが、モニタの隅で静かに進んでいく。
残り二十秒。
非常灯の赤い光が、指揮室全体の影を長くしていた。壁一面のモニタだけが、相変わらず白や青の光を放っている。
「じゃあ、段取りを決めましょうか」
槙野は、インカムを耳に押し当てたまま、柔らかい声で言った。
「レッドライン一番隊。指揮は、あなたが執ります。ヴァーニ・クロフォード」
「最初からそのつもりで来てるって」
廊下の映像の中で、ヴァーニが肩を回す。装甲越しでも、体が軽く動いているのが分かった。
「時間稼ぎは、あたしがやるわ。主任はそこで座ってて」
「座ってたいのは山々なんですけどね」
槙野は、指揮卓の端を軽く叩いた。
「ここ、立ち仕事なんですよ。だから、せめて楽に見させてください」
「はいはい」
ヴァーニは、ため息混じりに笑った。
「条件は? 生け捕り? それとも、やりすぎるな、ってやつ?」
「いい質問ですね」
槙野は、少しだけ目を細める。
「目標は“無力化”です。生きていても、死んでいても。社としては、捕獲できれば最高。無理なら、残骸だけでも回収したい」
「つまり?」
「手加減は、不要です」
言葉の調子は穏やかだが、内容ははっきりしていた。
「うちのスローガン、覚えてますよね。“制御できないものは、削除する”」
「はいはい。それね」
ヴァーニは、首を軽くかしげると、ヘルメットの中で笑った気配を見せた。
「じゃあ、削るだけ削ってみるわ。拾うかどうかはそっちで決めて」
「助かります」
槙野は、そこでようやく、少しだけ真顔になった。
「気をつけてくださいね」
「あら珍しい。心配してくれるの?」
「あなたがいなくなると、現場のバランスが崩れるんですよ。私の報告書の分量が増える。そういう意味で、心配なんです」
「……やっぱりそういうオチ?」
ヴァーニは、肩をすくめた。
「まぁいいわ。行ってくる」
そう言うと、彼女は廊下の奥へと歩き出した。ガスマスク越しに聞こえる呼吸音が、通信越しにわずかに耳に届く。
モニタの隅で、カウントダウンがゼロになる。
「神経ガス、散布開始」
女声のシステムアナウンスが、冷静なトーンで告げた。
「安全区画の全扉をロックします。対象区画の気圧を調整します」
玄関ホールの映像が、白くかすみ始める。
天井の噴出口から、霧のようなガスが一斉に流れ出した。床を這うように広がり、ガラスの破片も、倒れたゲートも、やがて見えなくしていく。
少女の足首あたりから、白い帯が巻きつくように上がっていった。
「主任。散布開始しました」
オペレーターが報告する。
「濃度、予定値どおり上昇中。換気シャフト、閉鎖完了しています」
「ありがとう」
槙野は、軽く頷き、中央モニタに視線を戻した。
白い霧の中で、少女はまだ動かなかった。両腕をわずかに下ろしたまま、体勢も変えない。
ただ、周囲の霧の流れだけが、どこか不自然だった。
「……主任」
加賀が、眉をひそめる。
「今、見ました?」
「見ました」
槙野は、即答した。
少女の周囲だけ、霧が触れずに流れている。空気の中に透明な壁があるように、手前で分かれて、左右に逃げていく。
「センサー値、どうなってます?」
「えっと……」
オペレーターが必死にキーボードを叩く。
「ガス濃度、ホール全体では上昇中です。でも、中心部だけ、数値が低い。……円形に、濃度が下がってます」
「直径は?」
「五メートル前後でしょうか。正確には、まだ……」
「十分です」
槙野は、静かに言った。
「つまり、あの子の周りだけ、“効いてない”」
「そういうことになりますね」
「主任」
加賀が、戸惑いを隠せない顔で振り向く。
「これ、ガス、意味ないってことですか?」
「いやいやいや」
槙野は、首を振った。
「違うんですよ。意味がないんじゃなくて、“意味のあるところまで届いてない”んです。今のところはね」
「届くようにするのは、誰の仕事だと思います?」
モニタの中で、ヴァーニが廊下を曲がりながら言った。
「そっちでしょ、主任」
「そう言われると思いました」
槙野は、苦笑いを浮かべた。
「じゃあ、届かせましょう。いいですか、加賀くん」
「は、はい!」
「ガスは継続。濃度は予定どおり。空調の逆流もなし。その状態で、ヴァーニさんたちに前へ出てもらいます」
「でも、それだと……」
「分かってます」
槙野は、加賀の言葉を静かに遮った。
「ガスと銃と人。うちは、その三つでやってきたんです。それしかないから、それでやるしかない。簡単な話ですよ」
「簡単……ですかねぇ」
「簡単じゃないですか?」
彼は、肩を少し上げて見せる。
「私たちは、選べないんですよ。ここにいるか、辞めるか。ね?」
「辞めるって選択肢、急に出します?」
「一応、世の中にはそういう自由があるんです」
加賀は、苦笑いを深くした。
「今それ言います? 主任」
「言っておかないと、あとで“聞いてない”って言われますからね」
わざとらしく、さきほどの台詞を繰り返してから、彼は真顔に戻った。
「さて」
玄関前の廊下に設置されたカメラが、ヴァーニたちの隊列を映し出す。
黒い装甲の列。前列に立つ二人が盾を構え、その後ろにライフルを抱えた隊員が続く。さらにその後ろに、ヴァーニが歩いていた。彼女は盾を持たない。両手は自由だ。その代わり、体の重心がいつでも前へ出られる位置にある。
「前線監視班」
槙野は、前方のオペレーターに声をかけた。
「状況報告を、音声で常時上げてください。黙ると、不安になりますからね」
「了解です。前線監視、回線オープンにします」
オペレーターがスイッチを操作する。
少し雑音が走り、その後に男の声が入ってきた。
『こちら前線監視一班。玄関ホール手前までガス充満。視界、二メートル以下』
『赤外線カメラ、生きてます。目標と思われる反応、一つ。玄関ホール中央付近に固定』
声の主は、まだ落ち着いていた。
『レッドライン、これより前進開始』
「主任」
加賀が、画面を睨みながら言う。
「今のうちに、できるだけ情報を取っておきましょう。あれ、次があるかどうか分からないですよ」
「だからこそ、録音録画は全部回してますよ」
槙野は、足元のサーバラックを指さした。
「あとで、全部、書類になりますからね」
「そういうことじゃなくてですね……」
「分かってますよ」
彼は、軽く笑みを浮かべる。
「でもね。私たち、現場で“次のため”って言い始めたら、たぶん今の事件で誰か大怪我してますよ。だから、今は“この一回で済ませる”つもりで、やりましょう」
「……はい」
加賀は、深く息を吸い込んだ。
モニタの中で、ヴァーニたちの部隊が白い霧の中へと消えていく。
玄関ホールの映像が、別のカメラからのものに切り替わった。高い位置から見下ろす俯瞰映像。白い霧の海の中に、黒い影がいくつも浮かび上がる。
『前進中。ガス濃度、規定値以内。防護装備異常なし』
『音響センサー、玄関ホール内で心拍に近い反応を継続捕捉。変動なし』
「心拍、変わらないですねぇ」
加賀が、モニタの数値を見ながらぼそりと言う。
「普通なら、少しくらい上がりますよね。こういう状況になったら」
「普通じゃないから、魔法少女なんですよ」
槙野は、あっさりと言った。
『レッドライン、ホール手前到達』
前線監視班の声が、少しだけ緊張を帯びる。
『視界確保のため、照明レベルを上げます』
「照明、上げていいです」
槙野が、指示を出した。
「どうせ、隠せるものでもないでしょう」
次の瞬間、玄関ホールの映像が少し明るくなった。非常灯に加えて、天井の補助ライトが上向きに点いたのだ。
白い霧の向こうで、少女の輪郭がはっきりする。
肩までの髪。制服のスカート。細身のシルエット。
その足元から、奇妙な現象が起き始めた。
「……主任」
オペレーターのひとりが、思わず声を上げた。
「ガス、裂けてます」
少女の前に、見えない刃物が通ったかのように、霧が左右に割れた。地面が見える細い筋が、彼女へ向かって伸びる。
そこへ、レッドラインの先頭が踏み込んだ。
『目標視認。玄関ホール中央に少女一名。年齢推定、十代前半』
『武器は視認できず。両手は下ろしたまま』
『表情、不明。視線はこちら』
「いい位置ですね」
槙野は、淡々と呟く。
「さて、ここからが本番です」
「主任」
加賀が、反射的に言った。
「もう、撃っていいタイミングですよね?」
「いいかどうか、決めるのは現場ですよ」
槙野は、マイクを少しだけ口元に近づけた。
「レッドライン。交戦判断はそちらに任せます。うちのルールどおり、“危険と判断したら撃つ”」
『最初から、そのつもりよ』
ヴァーニの声が、静かに返ってきた。
『ただ、あたしの感覚だとね』
彼女は、わざと一拍置いた。
『もう危険は越えてる』
次の瞬間、玄関ホールの映像が、激しく揺れた。
銃声。
短い連射音が、モニタ越しにもはっきりと聞こえる。防音処理された指揮室の壁を通しても、重い音が耳に届いた。
『レッドライン、発砲!』
前線監視班の声が、かき消されないように必死に報告する。
『制圧弾、二十発以上命中。……しているはずですが……』
「“はず”?」
槙野が、小さく首をかしげた。
「そういう言い方、いいですね。あいまいで」
『すみません!』
報告者が即座に謝る。
『着弾はしてます。壁面にも弾痕多数。ですが、目標へのダメージが……視認できません』
モニタの中で、少女の周囲に淡い光のようなものが見えた。
弾丸がそこに触れた瞬間、軌道を逸らされる。床や壁に、予定にない角度で弾痕が増えていく。
「主任。あれ」
加賀が、画面を指さした。
「バリアみたいな……」
「みたいな、でいいですよ」
槙野は、目を細めた。
「名前をつけるのは、もう少し後にしましょう。今は、“当たらない”で十分です」
『目標、前進開始』
前線監視班の声が、一段と緊張を増す。
『歩行速度、上昇。ホール中央から、こちらへ接近』
「歩いてきてるんですか」
槙野は、机に片肘をついた。
「走る必要もない、と」
「主任。笑いごとじゃないですよ!」
「笑ってないですよ。口角がちょっと上がってるだけです」
そう言いながらも、彼の声は落ち着いていた。
『レッドライン、距離二十メートルまで接近』
『抑制弾に切り替え。再度一斉射撃』
再び銃声が重なる。
白い霧の中で、火花が散った。
だが、少女の歩みは止まらない。淡い光の膜が揺れ、そのたびに弾丸が弾かれていく。
『効きません!』
前線の声が、初めて大きくなった。
『抑制弾、効果なし! 目標、距離十五メートル!』
「主任っ!」
加賀が、思わず叫んだ。
「どうするんですか、これ! 本当にどうしようも……」
「落ち着きなさい」
槙野は、静かに言った。
「さっきも言いましたよね。焦ると、ろくなことがないんです」
「でも……!」
「まだ、手は残ってます」
彼は、視線だけを別のモニタへ移した。
そこには、ヴァーニのヘルメットカメラからの映像が映っている。白い霧の中、少女の姿が正面に見える。距離は、先ほどの報告どおり、十五メートルほど。
少女の周囲の空気が、わずかにゆがんでいた。光が曲がって見える。そこに弾丸が触れるたび、散るように弾かれていく。
『主任』
ヴァーニの声が、静かに響いた。
『ちょっと、撃ち方変える』
「お任せしますよ」
槙野は、即答した。
『あの子、銃は見慣れてる。正面から撃っても、ぜんぶ止められる』
ヴァーニは、短く息を吐く。
『こういう時はね。殴った方が、話が早いのよ』
「そういう発想、嫌いじゃないですよ」
槙野は、素直に答えた。
『それ、褒めてる?』
「褒めてます。たぶん」
ヴァーニは、前列の隊員の肩を軽く叩いた。
『あんたたちは、そのまま撃ってて。壁になる。あたしは真ん中、もらうから』
『了解!』
隊員たちが、一斉に位置を少し変える。左右に開き、射線を広げる。
ヴァーニは、そのわずかな隙間を抜けて、前へ踏み込んだ。
床を蹴る音が、通信越しに響く。
「主任」
加賀が、息を呑んだ。
「行きましたよ……!」
「見てれば分かりますよ」
槙野は、あくまで落ち着いていた。
「大丈夫ですよ。彼女、そう簡単には倒れませんから」
「根拠、あります?」
「経験ですよ」
彼は、短く言った。
「うちの社員の中で、あれだけ無茶して、まだ契約更新されてる人、他にいます?」
「……言われてみれば、いないですね」
ヴァーニのカメラ映像が、大きく揺れる。
彼女は、白い霧を突き抜けて、少女の目前まで一気に距離を詰めた。体勢を低くし、肩からぶつかるような勢いで踏み込む。
その瞬間、映像が白くはじけた。
激しい衝撃音。
通信にノイズが走る。
『っ……!』
ヴァーニの短い息が、マイクを通して漏れた。
『固い……! これ、何よ……!』
「バリアに体当たりは、なかなか勇気がありますね」
槙野は、少しだけ目を見開いた。
「大丈夫ですか?」
『まだ生きてる』
ヴァーニは、荒い息の中で笑った。
『でも、体がしびれる。これ、ただのガードじゃないわ。触っただけで、こっちの方が削られる』
「触らなければいいんですよ」
『簡単に言うわね、主任』
それでも、彼女は下がらない。
カメラ映像の中で、少女の顔が近くなる。表情は、驚くほど静かだった。恐怖も怒りもなく、ただ何かを見定めるような目。
『……あんた、本当に人間?』
ヴァーニの口から、自然にそんな言葉がこぼれた。
少女は答えない。
代わりに、周囲の空気が一段と強くゆがんだ。
次の瞬間、前線監視班のマイクに、複数の悲鳴と衝撃音が一気に飛び込んできた。
『っ……ぐっ!』
『何だ、今のは……! 押された……!?』
『盾が……!』
玄関ホールの俯瞰映像が、一瞬、真っ白になった。
見えない衝撃波が、ガスと隊員と装備をまとめて押し飛ばしたかのように、白い霧が四方へ吹き飛ぶ。
次のフレームで、黒い影が床へ叩きつけられているのが見えた。盾が滑り、ライフルが手から離れ、装甲が床を滑っていく。
「……主任」
加賀が、モニタの前で固まった。
「今の、何ですか」
「説明は、あとにしましょう」
槙野は、視線をモニタから離さない。
「今、必要なのは、人数です。前線監視班」
彼は、マイクへ向けて声を出した。
「現時点で、立っている人間の数を報告してください。感想はいりません」
返事が、すぐには返ってこなかった。
『……こちら、前線監視一班』
数秒後、かすれた声が入る。
『立ってるのは……三名。残りは、転倒。意識不明者、二名。状態確認中』
「通信は生きてますね」
槙野は、小さく頷いた。
「よかった」
「どこが、よかった、なんですか……」
「全部切れてたら、もっと面倒ですよ」
彼は、淡々と言う。
「少なくとも今は、“三人は動ける”って分かりました。ゼロよりは、だいぶマシです」
『主任』
今度は、ヴァーニの声が入ってきた。
息は荒いが、はっきりしている。
『あたしは、まだ立てる。足も折れてない。装備も生きてる』
「それは、何よりです」
槙野は、心からの声のように言った。
「体のどこが一番痛いです?」
『胸。思いっきり押された』
「それは、心配ですね」
彼は、少しだけ冗談めかして続けた。
「社内の診療所、混んでますからね。ちゃんと順番待ってくださいよ」
『その前に、この子を何とかしないと』
ヴァーニは、笑いを含ませながら言った。
『主任。認めるわ。これ、今までの相手とはレベルが違う』
「そういう評価、嫌いじゃないですよ」
『でも』
そこで、彼女の声の調子が少し変わった。
『あたしの方も、まだ本気じゃない』
「そのセリフ、ちょっとダサいですよ」
『分かってる。でも、本当なんだからしょうがない』
ヴァーニは、ゆっくりと体勢を立て直した。
ヘルメットカメラの映像が、再び水平になる。
少女は、相変わらず静かに立っていた。だが、さっきよりも距離が近い。ほとんど、手を伸ばせば届く距離だ。
その足元から、床に細いひびが走っているのが見えた。さっきの衝撃で生まれたものだろう。
『主任』
前線監視班の声が、再び入る。
『さっきの衝撃で、監視カメラの三割がダウンしました。映像、乱れてます』
別のモニタに、砂嵐のようなノイズが広がる。
『音声ラインも、一部不安定に……』
「優先するのは、レッドラインとの回線です」
槙野は、即座に指示する。
「他の監視ラインは、必要最低限でいい。人間の声が途切れると、こっちが困ります」
「了解!」
オペレーターが、一斉に手を動かす。
その間にも、玄関ホールからの銃声と衝撃音は続いていた。
だが、突然、その音が途切れた。
『……?』
前線監視班の声も、そこで途切れる。
「通信、どうしました?」
槙野が、すぐに問う。
「回線状態、確認して」
「主任!」
オペレーターの一人が、驚いたように叫んだ。
「前線監視のライン、一瞬でノイズになりました! 音声、拾えてません!」
「映像は?」
「映像も、一部が真っ黒に……!」
複数のモニタが、同時に暗転した。中央の俯瞰映像だけは、まだ生きている。
そこには、白い霧の中に点在する黒い影が、静止画のように映っていた。
動いているのは、その中心にいる少女と、その前に立つひとりの装甲兵だけだ。
ヴァーニ・クロフォード。
他の隊員たちは、床に倒れたまま動かない。
「……前線監視班」
槙野は、もう一度、ゆっくりと呼びかけた。
「こちら地下指揮室。聞こえますか」
返事はない。
数秒、沈黙が続く。
「主任」
加賀が、不安そうに顔を向ける。
「これ……」
「まだ、決めつけない」
槙野は、短く言った。
「確認が取れるまで、“沈黙”とだけ書いておきましょう。死亡とか全滅とか、そういう言葉は、あとでいくらでも書けますから」
「……はい」
彼の口調は、いつもどおり落ち着いていたが、眼鏡の奥の目だけは、モニタの映像を逃さない。
「ヴァーニさん」
槙野は、マイクをオンにした。
「聞こえますか」
『聞こえてる』
少し遅れて、ヴァーニの声が返ってきた。
『こっちはまだ生きてるわよ。あたしと、この子だけ』
「それは、ずいぶん寂しい会議ですね」
『楽でいいじゃない』
ヴァーニは、短く笑った。
『主任。ここから先は、あたしとこの子でやる。監視班は巻き込まれたら死ぬだけ』
「それは困ります」
槙野は、すぐに言った。
「巻き込まれて死なれると、書類が増えるんです」
『……またそれ』
「でも、事実ですよ」
彼は、少しだけ息を吐いた。
「撤退可能な隊員は、即時後退。負傷者の位置だけ、最後に報告してから下がらせてください。回収は、状況が落ち着いてからです」
「主任、それでいいんですか」
加賀が、思わず口を挟む。
「ここで下げたら、戦力が……」
「ありませんよ」
槙野は、きっぱりと言った。
「でも、ゼロになるよりはマシでしょ」
加賀は、言葉を詰まらせた。
『了解』
ヴァーニが、短く返事をする。
『あたしも、あんたも、わりと冷たいよね、主任』
「今、気づきました?」
『前から知ってた』
そこで、彼女は言葉を区切った。
『主任。ひとつだけ、確認』
「何です?」
『この子を、ここで止められなかったらどうする?』
ヴァーニの声は、淡々としていた。
『このまま上層に行かれたら、あんたの言う“怒られる”じゃ済まない』
「そうですね」
槙野は、少しだけ黙り、指揮卓の端に置かれた赤いキーを見た。
ガラスケースの中に収められた、そのキーには、小さく「最終封鎖」と刻まれている。
「その時は、別の鍵を使います」
彼は、静かに答えた。
「ここごと閉じる。上に行く前に」
『あーあ』
ヴァーニは、ため息をついた。
『そうなったら、帰り道なくなるじゃない』
「だから、そうならないように頑張ってください」
槙野は、穏やかな声で言った。
「そこは、あなたの腕の見せどころなんですよ」
『……ほんと、主任のそういうとこ、嫌いじゃないわ』
「嫌いじゃない、でいいんですよ」
彼は、少しだけ笑い、モニタを見据えた。
「さて。ここからが、本当に“最初の交渉”です」
中央モニタの中で、ヴァーニが一歩前に出た。
少女と向かい合う。
白い霧の中で、黒い装甲と制服姿が、はっきりと対峙していた。
指揮室の空気が、さらに静かになる。
誰もが、モニタの中の二人から目を離せなかった。
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