五.悲憤
平井の話の通り、赤沢家老の独断専行が父彦之進の苦渋を
そこへ追打ちをかけるようにして、間もなく母が病没した。
これが愈々の止めとなったらしく、母の葬儀が済んで暫く経っても、父は後添いを取ろうとしなかった。
いや、望んだところで取れなかっただろう。
「赤沢幸之助殿と試合をすることになりました」
与十郎が帰宅の挨拶をしても、父は背を向けたきり振り返ろうともしなかった。
ところがその名を出すと、俄かに父の背が強張ったように見えた。
近頃は落ち着いている様子だったのを、この一言で再びその神経を逆撫でしたかと与十郎は些か身構える。
こうやって何年、顔色を覗い神経を尖らせながら来ただろうか。身構えながら、これまでの己自身を俯瞰するような心持ちだった。
今や父の背も肩も小さく、与十郎の膂力ならば容易く組み伏せてしまえるだろう。
家督を継いだ頃には強大に見えていた父も、今や恐るるに足りぬ存在となっている。
与十郎が剣に打ち込んだのも、今にして思えば偏に暴れる父への恐怖を克服するためだったかもしれない。
「赤沢家老の三男だそうです」
すると、父の強張った背中が微かに揺れ、頭を垂れたかと思うとすぐ様仰け反る。
「赤沢か。あの人で無しの赤沢の子だ、どうせろくな奴ではあるまい」
隣近所にも聞こえるほどの明朗な大声で罵倒して、父は笑声を上げた。
「父上、外に聞こえます。ご自重ください」
ぎょっとしたが、与十郎は努めて静かに窘める。
仮にも執政を貶す物言いを、誰かに聞かれてはまずいと思った。
だが、父の笑い声は収まるどころか一層大きく響く。
(何がそんなに可笑しいものか)
そう思う傍ら、やはり赤沢家老との間に何かがあったのだろうと思わざるを得なかった。
或いは、与十郎の知らぬその何かが、長らく父とこの家を苦しめ続けている──。
日の落ち掛けた時分、家の中は暗く闇が淀み、その中に父の気の触れたような笑声が響き渡る。
異様な空気であった。
ぞっと
***
張り付くような視線を感じ、与十郎は足を止めた。
正月を控えた堀端の通りは、行き交う人々の足取りも忙しない。
立ち止まった与十郎を気に留める者はなかったが、行く先から懐手でこちらへやって来る男の姿が目に留まった。
はらはらと小雪のちらつく中、じっと与十郎を見たまま歩みを詰めてくる。男はにやにやと小馬鹿にしたような笑みを浮かべていた。
やがてあと二間ほどという距離まで近付くと、男も歩みを止めた。
「
懐手はそのままに、男はいかにも横柄な様子で与十郎を値踏みするように眺める。
不躾にも程がある。
が、与十郎にはそれが誰であるか大方予測が付いていた。
「如何にも。御手前は赤沢幸之助殿とお見受けするが、相違ないか」
「よう解ったなァ。次の試合では世話になる」
「………」
気味の悪い薄ら笑いを浮かべ、赤沢は再び与十郎に歩み寄る。
赤沢の下駄の歯が砂を噛む音が近付き、真横まで来て止まった。
「親父殿はお元気か」
「……お陰様を持ちまして」
与十郎より僅かに背丈の勝る赤沢は、睨めつけるように胡乱な眼差しを寄越すと鼻で嗤って行き過ぎた。
その剣の腕を役立てるでもなく、部屋住みの身分に甘んじたまま酒色に耽る男だ。
その放蕩ぶりは誰の目にも顰蹙ものであったが、現執政の子息であることに遠慮してか、表立って咎める者はないようだった。
あれで気配だけは
与十郎は暫しその背を眺めてから、屋敷町の道場へ向かった。
***
「父と赤沢家老の間に昔、何事があったか御存じではありませんか」
単刀直入に訊ね、与十郎は平井の返答を待った。
当時は幼く、また今となってはすべてを知るであろう父もあの様子だ。
当時から世話になっている平井ならば或いはと思い、与十郎は意を決したのである。
しかし平井の口は重く、訊ねた途端にいつもの磊落さが掻き消えるのを目の当たりにする。
「お主の亡き母君は、病に臥しておったろう」
「はい」
「当時は随分と悩まれていてな。御実家からは彦之進殿と離縁するよう度々説得されてもいたそうだ」
当時は母もまだ三十路前で、再嫁する宛は多かっただろう。
悩んだ末に島崎家に留まったようだが、そこからの母の衰弱ぶりは酷いものだったらしい。
「しかし、それと赤沢家老とは関係がないのでは」
「いや、そうでもないのだ」
与十郎は首を捻った。
「赤沢はお主の母を
「………」
「心労に心労を重ね、とうとう母君は病に臥したが……、その実、最期は服毒による自害であったという話だ」
可哀想にな、と、平井は打ち沈んだ声を絞り出すように言った。
「彦之進殿も、単純に格下げと役替えに馴染めず気を病んだわけではないのだ。……気の毒なことよ」
背に冷水を浴びせられたようだった。
赤沢は既に子もある人の妻を狙って、離縁するよう仕向けていたわけだ。
恐らく母は、自ら命を絶つことで父を助けたのかもしれない。
母が存命で島崎家にいる限り、嫌がらせが止むことはなかっただろう。
離縁して、夫を苦しめ続ける男の妾になるくらいなら、と考えたかもしれなかった。
「赤沢幸之助が女にだらしないのは、親譲りというわけだ」
平井はそう結んだが、与十郎は己の胸中に修羅が疼くのを感じていた。
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