最低な味

沫治八

最低な味

 深夜三時頃。暗い部屋のソファーに寝そべり、スマホの明るい画面に照らされる顔。私は面白味の欠片もないサイトを延々と見ていた。

 浮気 告白

 浮気 打ち明ける

 浮気 打ち明け方

 検索バーの下に並ぶ履歴は散々なものだ。この時間、私の頭は冷静な判断を欠いていた。誰が書いたかも知れないような根拠のないサイトや、そもそも顔も知らないネットの住人の批評に踊らされ、私の頭はグシャグシャになっていく。

 「最低だ」

私は絞り出すようにそう言って、顔を伏せた。




 「おはよう。乗んないの?」

私はそう言われて初めてエミの存在と目の前に停止した電車に気付く。

「ああ、いたんだ。おはよ」

私がそう返すと、エミは爽やかに笑って見せた。

 エミは同じ大学に通う唯一無二の友人だ。偶然同じ駅から通っていることが発覚し、それ以来一緒に通学するようにしている。

 電車内は貸し切り状態で、私たち以外は誰もいない。私たちは二人横並びで座席の真ん中に座る。こうすることで端に座るより広さが際立って、優越感が味わえるとエミと初めて話した日に教えてもらった。

「駅のホームで線路を見つめてボケッとして、電車が来ても気付かないなんて。どうしたの?」

「え、いや。何だっけ」

「それに隈もすごいよ。ミカ、さては昨日は夜更かししたね?」

エミが私の目の縁を指でなぞった。

「んっ、うん」

エミの冷たい指に少し驚くが、馴れてしまえば心地よい。指はすぐに離れてしまったが、その数秒の冷たさが熱い眼球に染み入るようで、感覚だけは離れなかった。

「何してたの?」

「調べもの」

「何を?」

「自分の嫌いなとこ」

「何それ」

「ただ同じ境遇の人へ宛てられた誹謗や、事の重大さを眺めて罪悪感に浸ってただけ。結局私は変わらない」

私は目線を自分の足元に落とした。

「ミカの難しい話は分かんない」

「簡単に言えばリストカットみたいな。でもきっと誰もがしてること。自己嫌悪を真似た自己愛」

「なんも簡単に言えてないよ」

膝の上の手をひっくり返し、手首を眺めた。無論傷跡などない。だが赤い血が滴るような、痛む気がした。

「エミに、大丈夫って言ってほしい」

エミが驚いた顔をしたのが見ずともわかる。私は溜め息を吐き、眉間にしわを寄せて目を閉じた。昔からの悪い癖だ。またやってしまった。気が付けば頭の中で考えたこと全てを吐き出している。本音を隠しきれないのだ。こんな気恥ずかしいことは普通は簡単に言えないし、そんな気がなくとも言わないのが正解だ。だが私はそれを簡単に無視してしまう。正直者はなんとやら、多くの友人をこれで失った。

「ごめん、忘れて」

エミは黙ったまま目線を私から床に移す。二人きりの車両で心地悪い時間が過ぎていく。

「大丈夫だよ。大丈夫」

エミは目線を床の一点に刺したままそう言った。この空気に耐えられなかったのだろう。

「忘れるのは出来ないや」

エミはこちらを見て、微笑んだ。私もつられて頬が緩む。

「ありがとう」

そう言うとエミはご機嫌な様子で私の肩に頭を預ける。

「どういたしまして」




 「ちょっと今いい?」

リョウの肩をトントンと指で叩く。行きつけの大学のカフェテリアのカウンター席、一人スマホを眺めていたリョウは振り返る。

「どうしたよ」

「話があるの」

「ここじゃダメな感じ?」

お昼時ということもあり、それなりに混んでいる店内。近くを通りかかれば、会話は聞こえるだろう。

「まあ、リョウが良いなら良い」

「そんじゃあどうぞ」

リョウは自分の横の椅子を引いた。小さく「ありがと」と言って私はそこに座る。

「で、何?」

リョウはソワソワした様子でソフトドリンクの氷をストローでかき混ぜている。

「謝らなきゃいけないことがあるの」

リョウはストローを離す。

「あら、そーゆー系か」

指を離れたストローは氷の流れに乗って少しだけ動いて止まった。店内の雑踏がうるさく聞こえるが、二人の間の少しの沈黙は意識の中で引き伸ばされていく。

「私ね」

「ストップ」

やっと開いた口に対する急な制止に私は思わずリョウを見る。リョウは私を止めるように手のひらをこちらへ向けていた。コップの表面で結露した水滴が流れ落ちる。またもや少しの沈黙の後、リョウは口を開く。

「今は謝んなくても良いよ?それでミカがスッキリするなら良いけど」

「いや、でも」

「そんな顔されたら、俺が逆に謝って欲しくないわ」

リョウは「はは」と笑った。私への気遣いなのだろう。リョウのこういうところが好きで、でも苦手だ。私の悪癖が治らないのは、それを全て受け止めてしまうリョウのせいかもしれない。リョウの優しさに私は唇を噛んだ。

「どう?謝りたくなくなった?」

リョウは顔を覗くように軽く首を傾ける。私は浅く息を吐いて深く吸った。

「それでも謝りたい。スッキリしない結果になるかもしれないし、どっちも悲しい思いをするだけかもしれないけど。でも謝りたい」

「はは、頑固な奴」

「私はリョウと違って要領が悪いから」

同じような笑い方をするリョウ。こんな最低なことをしておきながらまだ彼が好きなことを自覚する。

「ミカは言うほど要領悪くないと思うけどね。それで、何したの?」

私はカウンターの上の自分の手を見つめながら、口を開く。

「浮気した。同じ学部の人と」

「あ。そっ、か」

私の緊張を和らげようとしていたリョウの笑顔がフッと消えた。

「普段飲まないのに、その日はお酒を飲んじゃって。意識朦朧とする中、その人とエッチした。その後、ちゃんと私にはあなたがいることを説明して、その人は謝罪してきた。もう二度としない、ごめんなさいって」

「うん」

「私も勿論絶対にもうしない。本当にごめんなさい。私はあなたを裏切った。最低だ」

手首が痛んだ。傷一つない手首から大量の血が流れているように錯覚する。私は血塗れの手で顔を覆った。リョウの顔を見るのが恐ろしくて、とても出来なかった。

「まあ、な。裏切られたのは事実だし滅茶苦茶悲しいけど、でも最低なんて思わないよ。だって、ほら。ミカは俺のこと嫌い?」

「そんなことはない。こんな私をあなたが許してくれるなら私はあなたとまだ一緒にいたい」

私の手の中から籠った声が出る。

「じゃあまたその人と悪いことする?」

「二度としない、絶対に。この命に誓ってしない」

「じゃあ意見は一致、問題は解決。許さない理由なんてないよ」

リョウが微笑んだのが手の中からでも気配でわかる。

「そもそも全部解決してるなら黙ってればよかったのに」

「正直に話さないと気が済まなかった。けどいざ話してみたら恐ろしくて、あなたの顔が見れない」

「心配すんなよ。大丈夫だって」

リョウは私の首に手を回し、ガッチリと肩を組んだ。

「俺は何があろうと絶対にミカが好きだから」

私の心の血と溢れる涙とリョウの言葉が混ざりあって、でも最後に残ったのはリョウの優しさだった。

「ありがとう。本当に、ありがとう」




 帰りの電車、やはり最後は人が消え、エミと二人きりの時間になる。他愛のない会話は絶えず続くが何か違和感を感じる。

「ってことがあったんだよ」

「ははっ、何それ」

「笑わないでよ。私は大真面目だったんだよ?」

「可笑しな話」

笑いは夕日の差し込む車内に響く。それは徐々に薄れ、私が大きく息を吐いたところで静寂に変わった。

「ねぇ、今朝言ってたのってさ」

しばらく何とも言えぬ静けさが続き、エミが口を開いた。

「ああ、あれは忘れて欲しい。でもありがとう。おかげで成功した」

私は笑顔でエミの方を見ると、エミは真顔でこちらを見つめている。

「どうしたの?」

「我慢できないや。ごめんなさい、約束は守れない」

「え?」

私の間抜けな声が聞こえる頃には、私は手首を掴まれエミに座席に押し倒されていた。

「ちょっと、んっ!」

エミは私の唇を押さえ付けるように自分のを重ねる。強引なキス。

「んーっ、んっん」

「ぷはっ」

今度はエミが笑っている。妖艶な笑みだ。いつかのベッドを思い出す。何日も、何回も。繰り返されたそれは私の脳裏を駆けた。

「もう二度としないって、約束したじゃん」

「ごめんね。でもミカもその気なんじゃない?彼氏さんに嘘ついてたじゃん」

「それは、そう、だけど」

「何回もシてるのに一回だけなんてさ」

「でも約束は」

「じゃああれは嘘。ミカと同じ」

私は言葉が出なくなってしまった。目に涙を蓄えて、エミから顔を背ける。

「その顔、可愛い」

「これは醜い顔」

「私は好きだな」

「ああ、そう」

リョウの失望したような顔とエミの裸体の記憶が頭の中で交錯する。何だか全てが嫌になってくる。面倒で、退屈で、最低で。

「本当に最低だね」

「じゃあシないの?」

私は再び黙ってしまう。

「答えは?」

考えるのが面倒になる。泥濘に引きずり込まれるような、重たいものが頭を妨害する。私は言葉を発するのが億劫になってしまう。

「素直じゃないなぁ」

エミがそっぽを向いた私に、首を傾けて再び唇を奪う。

「っ、はぁ」

「気持ち良い?」

「気持ち悪い。心の奥底から全部、肥溜めみたいな気分。いっそこのまま死んでしまいたい」

「えー、ショックだわ」

「でも、この気持ち悪さなんてもうどうでもいい。自分の嫌なところに気がつく度に感じていたことだから、もう慣れてしまった」

私は首を浮かせた。そして三度目のキス。今度は一方的なものではなく、お互いに舌を絡ませる。不快な音が電車内に響く。それは苦くて、とっても不味い。

 最低な味がした。

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