第6話『崩壊の音が鳴る』
あれから時が流れること数年以上――。
春は桜の香風を浴びながら、庭の黄梅と蝶々を眺めて散歩し、昼寝日和を満喫。
夏は燦々照りの太陽に眩みながらも日陰に涼み、明夜の祭囃子に心構える。
秋は紅葉の舞に心も踊り、朧月夜を仰いで郷愁に浸る。
冬は清澄の冷気に髭を震わせながらも、我が家の温もりに抱きしめられ、新たな年の刻みを感じていく……。
猫屋敷家の愛猫シャルルは、齢十年を超えてすっかり大きくなった(時間だけでなく、質量もだいぶ増してしまったが)ことを除けば、現在も変わらずのんびり気ままな日常を過ごしていた。
一方、人間であるママンとパパン、ミー子、そして家族関係にも色々な“変化”が起きていた。
「さあ、今日は何キログラムになったのかしら?」
とある日の猫屋敷家の浴室脱衣場にて。ママンは脱衣場の床隅から持ち出し、平行に置いた『体重計』の上に乗っていた。
この某・有名健康電化製品会社から販売されている体重計は体の重さに限らず、体脂肪率から内臓脂肪割合まで算出する高性能な機械らしいにゃ。
数秒後にピピっと電子音が鳴ったのを合図に体重計から降りたママンは、小さな
「あらら……体重はまったく落ちてないわねぇ。困ったわ」
ママンの気落ちした声色と表情から数値が芳しくないのは、身近に見守っていた猫のシャルルの瞳からも明らかだった。
だからここ最近、ママンは毎日体重計に乗り、脱衣所の鏡前でポッコリ膨れたお腹を撫でては、膝上げを繰り返すストレッチに努めていた。
ママンも内臓脂肪と健康が気になり始めるお年頃だものにゃ。分かるにゃー。
「体重が七キログラムもあるなんて……」
二回目の測定のために再び体重計に乗りながらシャルルを腕に抱いているママンは、再び溜息を零した。
肥満が課題に上がっているのは人間のママンだけでなく、猫のシャルルも例に漏れなかった。
アメリカン・カールの平均体重はニ・五キロから五キログラムだ。
一般的な猫と同じくらいかむしろ小型の中間に分類される。
しかし、ママンとシャルルを合わせた体重からママン単体の体重を引いた数字は何と七キログラム。
シャルルの体重は危険ゾーンの六キログラムを余裕で超えている明らかな肥満で、健康面では無視できない数値だ。
「これは本気で“ダイエット”させる必要があるわ。ねぇ? シャルル……」
[にゃあん?]
一方、シャルル本人は体重の数値を囁かれても、未だピンと来ていなかった。
しかし、もはや他人事でない問題であることをシャルルは直ぐに思い知らされる羽目となる。
「はあ、シャルルといい、猫って羨ましいよね。“お
にゃに? 僕……アイドル猫王の美猫であるこの僕が“お太っちょ”だと……!?
久しぶりに家族三人と傍にシャルルが伴った夕食時。
ミー子が溜息と共にふと零した台詞に、シャルルは衝撃と動揺を抑えられなかった。
確かについ最近、お腹辺りが歩く度にプヨプヨと揺れているし、前より階段を登り上がりするのに体が重くて、のっそのっそとした歩き方になっていた気はするが……よりによってあのミー子に指摘されるとは、にゃんとも言い難い屈辱を感じた。
「最近、私も前以上に太った気がしてさあ……っ」
かつて大学生だったミー子は『
二年前、何とか無事に大学を卒業できたミー子は、福祉系の専門学校へ入学した。
『
そこでも、ミー子は己の苦悩や葛藤と闘っては悩み、涙の弱音を吐いた姿も何度か見かけた。
しかし、ママンや専門学校での友達の懸命な励ましもあり、長く辛い実習訓練、国家試験の勉強と合格を何とか乗り換えたミー子は無事に精神保健福祉士として卒業できた。
今春の再来週に控えている卒業式の後、四月からは隣町の診療所に併設された精神科デイケアの生活支援員として勤め始めるらしい。
今年の春もめでたい始まりとなるが、ミー子も多少は自分の体重のことが気になっているらしい。
「あら、ミー子は太ってなんかいわいわよ。それに後、一キロ二キロ増えたって変わらないわ。女の子は痩せ過ぎたら良くないし」
「そうかなあ? まだ
相変わらずママンはミー子に甘くて、猫の僕もにゃんだか釈然としないにゃ。
人間の適正体重なる数値や、彼らの美的感覚は理解できないが、猫の僕から見てもミー子は自分を楽観視すべきでないと分かる。
普段は居間でただぼんやり眠っているわけではない僕も、ちゃあんと知っているにゃ。
ミー子の専門学校は寧湖町から離れた都心に位置し、夜間の講義であったため、授業を終えて電車に乗って帰宅した時は深夜前を刻んでいた。
しかも、最初の授業の前に夕食を取る暇もなく、かなりの空腹状態で帰宅したミー子はパパンが作り置きした夕食に買い溜めたスイーツ、
加えて、学校の授業に受験勉強と実習訓練、就職活動に勤しんでいれば、否が応でも食事と運動への意識は蔑ろになってしまう。
仕方のない側面もあるが、不規則な生活が二年も続けば、体の質量は芳しくない方へ変化せざるを得ないだろう。
実はミー子もこの二年で体重が二キロ、さらに最近はもう二キログラム増えてしまう日があるのは、傍で密かに眺めていた僕もちゃんと知っていた。
「それはそうと、シャルルもついに七キロ越えしちゃったのよ。これ以上は本気でマズイわねぇ」
話題の的はミー子からシャルルの体重問題へと移った。
ミー子自身の問題を深く掘り下げることなく切り上げ、シャルルには耳の痛い台詞を零したママンが一瞬恨めしくなった。
「えーっ。それはさすがにマズいよ、ママ。危険ゾーンの六キロをオーバーしちゃってるし。やっぱりパパが毎日与えているハムや焼き豚とかはダメだよ。これからはもう食べさせるのは、やめようよ」
にゃにぃっ!?
真面目な表情へ切り替わったミー子は、さっそくパパンが小さく切り分けた焼き豚を盛った小皿を取り上げた。
途端、納得のいかないシャルルの内なる声に呼応するように、真っ先に不満げに抗議したのはパパンだった。
「おいおい。シャルルだって食べたいんだから、ちょっとくらいいいだろう」
なー? シャルル。シャルルへ同意を求めるように笑いかけながら反対の意を零したパパンに、シャルルは心の底から肉球ガッツをしたくなった。
普段は屋敷に囚われた深窓のセレブ美猫であり、ママンとミー子の
以前から度々、ミー子やママンがパパンからの過剰な餌付けを苦言することはあったが、結局パパンの押しとシャルルの必死な愛らしいお願いポーズに折れていた。
「駄目だよ! パパはちょっとどころか、シャルルが欲しがる分だけ三切れ、四切れ、五切れもいっちゃおうってどんどん与えちゃうんだから。それにお腹緩くなるのに、お菓子のクリームまで舐めさせてっ」
しかし、今回ばかりのミー子はパパンに食い下がってきた。
今までシャルルへ施してきた甘さ、と問題点を矢継ぎ早に指摘されたパパンは、むっと唇を不機嫌に尖らせながら反論する。
隣のママンは既に嫌な予感がするとばかりに、オロオロと無言で狼狽えている。
「真面目に考え過ぎだろう。この生活を続けて、シャルルも十歳過ぎたが、あれから病気もなく元気にやっているんだからよ」
「今は問題がないように見えても、将来は分からないでしょう! それとも何? パパはシャルルが早死にしてもいいっていうの?」
パパンの反省や自覚の皆無な台詞に対して、ミー子はらしくもなく語気を荒げた。
相手を責め脅して追い詰める口調のミー子に、パパンの表情には怒りの陰りが差した。段々と
一体ミー子は何故にそんな熱くなっているのにゃー?
ミー子の最後の問いかけに対するパパンの答えは、当然訊くまでもなくノーだ。
パパンだって、シャルルが健康を害すればいいだなんて悪意があって猫に良くない脂質と塩分、添加物のオンパレードな食物を与えているわけがない。
自分を心から信頼して甘えてくれる子どものように愛おしいシャルルの欲しいものも優しさも、出来る限り何でも与えてあげたい、という親心からくるものだ。
特に家猫でなければ、本来は自由で過酷な外の自然で伸び伸びと走り回って生きる動物である猫を飼い、屋敷に囲って行動範囲を制限している。
なら、せめて食べるという数少ない楽しみを味わう自由は与えてあげたいのだろう。
パパンは強面だが、動物というより無垢なる命への憐憫と慈愛に深い人間なのだ。
一方、良かれと思って与え続けた先に待つ結果も、それが自分の盲目的な甘さに帰するものだという想像力も自覚も欠ける。
以前の失敗とその原因を忘れて何も学んでいないパパンの姿勢に、ミー子はいつになく厳しい物言いになったのだろう。
「ちょっと、少し落ち着きなさいミー子。パパも悪気はないのよ」
ついには互いに無言で唇を結んで俯き、沈黙で睨み合う二人の険悪な雰囲気を見かねたママンが仲裁に入る。
「ただ、そうね……確かにシャルルの健康には良くないわね。だからパパ、まったくあげるなとは言わないけれど、一日一口分だけとか、与える量を減らすことから始めたほうがいいと思うわ。どうかしら?」
さすがママン。話が分かるにゃ。
レバー押しの猫さながら利口で柔軟なママンの名案に、ミー子もパパンも多少のわだかまりを抱えつつも納得した。
結局、この夜のご褒美は一切れのみだが、好物の焼き豚にありつけることができた。
*
猫屋敷家の一触即発な諍いから時は経ち、儚い桜の散った四月半ばへ入った頃。
「やった! 前より減ったわっ」
今朝も体重計に乗ったママンは画面に表示された数値に満足げな笑顔を浮かべていた。
ママンの嬉しそうな様子に、傍らのシャルルも満悦に尻尾を上げた。
よかったにゃあ。この一週間は特に夜の間食もご飯のおかわりも無くし、積極的に散歩に出て運動量を増やしたんだにゃ。
偉いでしょにゃっ。シャルル自身も鼻を高くして見守ること一分後、信じられないような悲鳴が鋭敏な耳朶を打ちつけた。
にゃっ!? 一体どうしたにゃ? びっくりするじゃにゃいかっ。
「嘘……まったく変わっていない。むしろ、増えた……っ?」
ワナワナと手を震わせながら絶望感を口から零したのは、ママンの隣でもう一つの体重計に乗っていたミー子だった。
何だ驚かすにゃよー。実はパパンとの言い合いの後、シャルルとママンばかり努力し、パパンから楽しみを奪うのは不公平だと思ったミー子も人生初の『真剣ダイエット』を開始していたらしい。
早速、翌日から朝晩に外へ一時間ずつ自転車を走らせ、流行の『糖質制限ダイエット』に基づいて、食事に米類やパン、麺類などを一切抜くようになった。
四月から勤め始めたデイケアで、健康のためのダイエットプログラムに積極的な患者と職員の影響もあるらしい。
しかし、ミー子が乗った体重計の数値をチラ見してみると、どうやらあの言い合いの時点での体重に誤差の〇・五キロから一キログラム増えたらしい。
辛い食事制限に運動を頑張ってきたミー子にとっては、この悲惨な結果に落胆を抑えられないだろう。だが僕はちゃあんと傍で見ていたにゃ。
休日の午後三時や仕事帰りの夕方、時たま欲望と誘惑に負けたミー子が冷蔵庫を物色している様子を。
奥に詰まれたパパンのシュークリームやどら焼きに手を出し、空腹に耐えかねてヨーグルトやところてんなどを二パック以上も隠れ食いしていたことも。
自炊した夕飯も米を抜く代わりに、マヨネーズやケチャップのかかった蒸し鶏や、鯖の味噌煮缶詰めにチーズを乗せたものなど、脂質も塩分も高いものばかりを食べていたにゃ。
ダイエットをしているつもりが、無自覚なカロリー摂取が仇となったにゃ。クスクス、にゃー。
「シャルルもまったく痩せてないなんて……何か前より太ったよね?」
にゃんですと? まさか、そんな馬鹿にゃ……!
落胆を引きずっているミー子の思わぬ台詞にシャルルは動揺した。
不意に視線と意識を周りへ戻すと、シャルルは自分が今ママンに抱き上げられていることに気付いた。
真近にいるママンの顔と体重計の画面へ慌てて視線を送れば、シャルルには受け入れ難い現実が見えた。
「本当だわ……しかも、七・五キロって、どうして前より増えているの?」
ママンが囁いた体重の数値と画面の数値は紛うことなく一致していた。
馬鹿にゃ……この僕がミー子と同じだとは、にゃんたる屈辱。
ミー子の同志を憐れむような眼差し、ママンの呆れた表情にシャルルは髭を逆立てて悔しがった。
シャルルはシャルルで、結局自分が見えていなかったのであった。
実は焼き豚やハムの一切れでは物足りないシャルルが、ニャーニャーと鳴いて強請り、食卓に乗って付き纏う様子に根負けしたパパンは二切れ目を与えていたこと。
さらにはママンとミー子に咎められるのを嫌がったパパンは、隠れてシャルルへおやつを与えていたことも、ママンとミー子は未だ知らなかった。
[にゃあぁ〜……(ふわあぁ……ニャンだか頑張るのは馬鹿らしくなってきたにゃ)]
「シャルルちゃんっ。ポヨポヨさせて〜」
「嫌ー」
「パパには訊いてなーい」
五月の梅雨前のある休日。普段と変わらず長椅子のクッションに腰掛けながら欠伸を零すシャルルのもとへ、ミー子は無邪気に擦り寄ってきた。
愛情表現の激しいミー子をパパンがさりげなく諫め、ママンはのほほんと苦笑しており、猫屋敷の家庭風景は変わっていないままだった。
体重が少しだけ落ちたママンも、結局は夜にパパンが手渡してくる「半分こ!」のおやつの餡パンやソルトバターピーナッツ、好物のポテトチップスへの誘惑に最後は負けて、体重は元に戻っていた。
料理嫌いなママンに代わって、好き嫌いの激しい偏食屋なパパンの食事はカレーライスやすき焼き、カツ丼、パスタ、ラーメン、うどん、蕎麦、焼きそばなど、野菜もまったくない高カロリーなものばかりである。
結論――猫屋敷家の者は痩せることができない。
人間だけでなく猫である
[にゃあぁ……(トホホ……)」
「あ、シャルルちゃん。今日はとってもいい子でちゅねー、ふふふっ」
強引に赤ちゃん抱っこをされても、抵抗せずに大人しく座っているシャルル。
いつになく従順な様子を珍しそうに見下ろし、満足そうに笑うミー子を他所にシャルルは内心溜息を零した。
しかし、猫であるシャルルには未だ気付く余地はなかった。
猫屋敷家へ密かに、確実に、ジワりと忍び寄っている“崩壊の危機”に……。
*
チクチク、と爪先から鼻まで突き刺さすような冷気に体は震え上がる。
髭まで凍りそうな寒さにたまらず弱々しい声を漏らせば、白い息が冷夜の|帷《とばり《に浮かび、瞬く間に消えていく。
ここはどこ?
暗くて、寒くて、冷たいよ。お腹も空いた。
ぼくはなぁに?
小さくて、柔らかくて、ふわふわで、氷のように冷たくて、真っ黒。
そうだ、いかなきゃ。
体の思い付いたまま、仄黒く冷たい土の上を当てなく歩き這う。
どこにいるの? いかないで、おいていかないで。
果てなき冷闇を独り突き進んでいく内に、僕は凍えていく頭でぼんやりと思い出す。
知らぬ間にこの身から切り離されてしまった“唯一無二”を――。
どこにいるの? いまからいくから、まっていて。どうか。
氷柱のように凍えて痩せ細った手足を動かしていく。
お願い、おいていかないで――ママ――。
飢えた腹には
*
灼熱の夏陽が
百年に一度来るか来ないかくらい稀で凄まじい暑さに、さすがの
こういう暑い夏は蛇口の新鮮な水をレロレロ飲みするのに限る(これをするとママンとミー子がまた「可愛いー!」、と湧いて出てやかましいが)。
散歩のために外の庭へ一歩踏み出すと、大気は皮膚に触れただけでブワッと暑さにやられ、瞬く間に汗がじんわりと湧いてくる。
玄関の庭に敷かれた煉瓦畳の床へ触れると、石窯のような熱さに、無防備で繊細な猫の肉球が焼けるのではないか、と肝が冷えた(熱いはずなのに不思議)。
百年獄暑の影響なのか、今までの夏よりも濃厚な“不吉の匂い”が熱風に混じって漂っているのを髭でヒシヒシと感じた。
[え? 亡くなったって……あのお方が?]
[そうなのよ! まさかあのお方が、信じられないわ]
夕暮れ時の散歩中、シャルルは生温い日陰で共に涼みながら、近所のペル吉先輩と相棒のチビ子と雑談していた。
そこで僕は今年最大の
[最近は衰弱していたらしいが、多分この百年獄暑にやられ、人間が戯れに与えた食べ物に当たったのかもしれないんだ……]
[ええ、可哀想なフロイドさん。あんなに博識で知的で、リーダーシップまである方が何故……ペル吉さん、あなたは私から離れないでちょうだい]
[当たり前だろう、馬鹿だなあ。俺がチビ子を置いていくわけがない]
ペル吉先輩を通じて知ったのは、彼の寧湖浜の岩辺と寧湖公園を拠点に野良猫達を指揮していた高名な猫フロイド氏の急な死去だった。
フロイド氏といえば、寧湖町の夏祭りに乗じて起こる“爆発騒ぎ”の陰謀論説を唱えて研究する聡明で博識な天才猫だ。
ペル吉先輩以上に寧湖町界隈の人間と猫事情にも通じていたフロイド氏と面識はなかったが、ペル吉先輩に一目置かれている猫をシャルルも尊敬していた。
しかし、さすがの天才猫も意図せず降りかかった病と死を避けらなかったらしい。
しかも、衰弱した身には厳しい異常な酷暑に加え、夏休みで浜辺へ訪れた人間達の喧騒や縄張り荒らし、いたずらな餌付けによる食中毒などの負の要因は、不運にもフロイド氏の死期を早めたのかもしれない。
猫の平均寿命については、命の危険に晒される心配のない室内猫の方が、平均十五年から二十年とより長生きだ。
一方、野良育ちや人間による虐待などの影響か、野良猫は室内猫と比べて短命率が何倍か高い。
しかも、毎年真夏へ差し掛かると、多くの野良猫達が亡くなるという話を聞かされる。
お盆という真夏の催事を迎える人間に限らず、野良猫達にとっても“死の気配”が濃厚に漂う真夏は、不吉な季節と言えるのかもしれない。
[ところで……シャルル君に伝えておきたいことがあるんだ]
[ペル吉さんっ。まさか本気なの?]
[ああ。こういうのは早い内に知ってもらわないと]
亡きフロイド氏の話題を打ち切り、妙に改まった様子で話を持ち出そうとするペル吉にシャルルは首を傾げた。
隣のチビ子はどこか寂しげで気まずそうな眼差しで、ペル吉とシャルルを交互に見つめる。
一方、複雑そうな表情のペル吉は一呼吸口を噤んでから、意を決してシャルルへ告げた。
[これからは、なるべく俺達に近付かないでほしいんだ]
え……? ペル吉先輩が申し訳なさそうに零した予期せぬ台詞に、シャルルは頭の理解が直ぐに追いつかなかった。
シャルルは室内飼いのセレブ猫で、ペル吉とチビ子は野良暮らしの庶民猫であり、生まれも育ちも住む世界も何もかも正反対だ。
だからこそ互いの雑談から知る情報は新鮮で刺激的だったし、室内で独り飼われていても、人間への想いや関心、愚痴などを気兼ねなく明かせる友達がいることは嬉しかった。
[ど、どうしてにゃ!? 今まで、あんなに仲良くしてくれたのに]
自分との離別を望む言葉を面と向かって言われたシャルルは、動揺を抑えられない。
理由にまったく心当たりのないシャルルは、必死に問い詰める。すると、ペル吉とチビ子も躊躇した様子で数秒逡巡してから、気の重たそうに口を開いた。
[実は……シャルル君家の奥方は……僕達のことを嫌っているみたいだから]
またしても、シャルルは困惑するしかなかった。
猫屋敷家の奥方と呼ばれる人物から浮かび上がるのは一人しかいない。
しかし、シャルルはすんなりと信じられるはずがなかった。
何故なら、いつもシャルルを玄関中庭へ散歩に出して見守ってくれる時に、ペル吉が明かしたような素振りは見せたことがないからだ。
[まさか、気のせいじゃないの? よりによって、あのママンが……]
[気のせいじゃないわ。ほんとについ最近のことだけど、面と向かってはっきり言われたの。「あなたのことなんか嫌いよ!」って……追い払われたわ]
普段はのんびり屋で温和なチビ子が神妙な表情で明かした事実に、シャルルは絶句するしかなかった。
チビ子に続いてペル吉も「最近、俺もあっちに行け! って睨まれたよ」、と打ち明けた。
[本当だとしても、どうしてママンがそんなことを?]
[人間の気持ちはよく分からないけど、多分僕達が野良の分際でご主人様のお世話になって……子息のシャルル君に馴れ馴れしく接しているからじゃないかな……]
野良猫の分際? お世話? 馴れ馴れしいって……どういうことなのか。
どちらの主張も容易には受け入れ難かったが、聡明なシャルルは薄々理解した。
基本は他の野良や鴉に突かれ、傍に車が通っても呑気に寝転がるくらい呑気で、初対面にも擦り寄るほど猫らしくない懐っこいチビ子が、シャルルを傷つけ貶める嘘を吐くとは思えない。
ペル吉も神経質で人間への警戒心が強い性格だが、シャルルに信じてもらえないような嘘を吐くとは思えない。
しかし、一方であの穏やかで慈しみ深いママンがペル吉とチビ子のような野良猫を邪険にする姿を想像することはできない。
シャルルの困惑と葛藤を感じ取っているペル吉とチビ子は、いたたまれなさそうに励ましの言葉をかけてくれた。
[急にこんな話をしてすまないな、シャルル君。君が混乱するのもよく分かる。僕達の話を信じるか否かは君の自由だ。ただ……]
もう近付かないでほしい――たとえ立場や毛色がまったく違っていようと、同じイエネコ族という仲間意識を以て、長らく友達でいてくれた二匹から突如告げられた絶交に、シャルルは心だけが追いついていなかった。
絶交を申し込んだ方の猫が、むしろ傷ついているような眼差しでこちらに詫びてくるのが、一層の悲壮感を強めた。
[そこまで言うのなら、分かったにゃ……もう、僕と口をききたくないって言うなら、言う通りにするにゃ……]
[! 待って、シャルル君っ。ご主人様と奥方様のことだけれど……]
いたたまれなくなったシャルルは、パパンが椅子に腰掛けて待機する玄関扉へ戻ろうと二匹に背を向けた。
するとチビ子は何かを言い残したような様子で、慌ててシャルルを呼び止める。
二匹から聞かされたママンらしからぬ冷たい態度、その理由にママン自身とパパンに心当たりがあるようだ。
しかし、一度背を向けて一歩踏み出したシャルルは、振り返る気にはなれなかった。
「おう、帰るかい。シャルル君。さあ、入れ入れっ」
もやついた気持ちを振り払うように、急ぎ足で煉瓦畳の床を歩いて玄関扉へ戻ると、いつものパパンがシャルルを迎えてくれた。
扉に少し隙間を開け、大きなかけ声で入室を促すパパンに従い、シャルルは家の中へ帰って行った。
一方、シャルルに続いて家の中へ入ったパパンは、玄関に置きっぱなしの一つの特大袋をガサゴソと漁り始めた。
何かジャンキーだけど、濃厚で芳しい風味を鼻で感じるにゃ……。玄関をフワリと漂う仄かな匂いに誘われて、シャルルはパパンの足元へふらりと擦り寄った。
「こらっ! シャルル! これはお前の食べるもんじゃない! あっちへ行ってろ!」
凄まじい剣幕で声を張り上げたパパンにビクッと驚いたシャルルは、心臓の高鳴りに合わせて体を跳ね上がらせた。
お漏らしをした時ほどではないにしろ、自分を猫可愛がりしてくれるパパンに予期せず怒鳴られた衝撃に、シャルルは気落ちせずにはいられなかった。
きっとパパンはシャルルが口にしてはいけないものから注意を逸らすために、シャルルを守る罰として怒声を吐いたのだろうが。
シャルルはパパンが出て行った玄関扉を見上げてから、トボトボと肩を落として玄関から敷居へ上がった時だった。
「シャルル……ああ、可哀想に」
直ぐ目の前に立っていたママンに気付き、シャルルは思わずビクッと驚いた。
先程までペル吉達と話していた本人を前にして、シャルルはママン達の重い愛情表現から逃げる時とは異なる緊張を覚えた。
一方、ふと見上げたママンは穏やかに微笑みながら、シャルルをそっと優しく抱き上げた。普段と変わらないママンのぬくもりに包まれ、シャルルが安堵したのも束の間。
「またあの人は……あんな野良猫のために、あんな餌を大量に買って与えて……シャルルがいるのに……っ」
パパンに対する怒りと悲しみの入り混じった口調で囁いたママンの衝撃的な台詞。
シャルルは一瞬、思考が凍りついていくの感じながらも、本当は彼自身も薄々勘づいていた“変化”を悟った。
そしてペル吉とチビ子の言葉は、シャルルに負い目を感じていた故に零れたのだ、と。
むしろ、ペル吉とチビ子の方が、シャルルに気を遣ったのだ、と後に思い知らされた――。
「ママ。パパは今、いないのね?」
あ……暗い表情で僕を抱きしめていたママンの背後から、ミー子の声が聞こえた。
二階の自室にこもっていたミー子は一階へ降り、パパンの所在を確認する。
パパンが外でペル吉先輩達にご飯を与えながら戯れていることをママンに教えられたミー子は、事も無さげに答えた。
「よかった! パパがペル達と遊んでいる内に台所使わなきゃ。だって、パパまでいると邪魔だもんっ」
そういえば、ここ最近は家に居てもあまり姿を見ていなかった気がする。
ミー子の部屋を覗いてみても、何か調べ物に集中していたり、マットの上で奇妙な踊りに耽っているらしく、猫目からも入り辛い雰囲気を感じた。
久しぶりに聞いたミー子の声は懐かしいはずが、どこか別人のような違和感を与えた。
以前のミー子は基本的に能天気で、神経質なパパンにも素直に応じ、反抗の意を示しても思春期相応の可愛げあるものだった。
しかし、今この場にいないパパンを露骨に煙たがっているミー子の様子は、明らかに以前とは違っていた。決して皮肉や揶揄ではなく――腹の底から湧いた軽蔑と嫌悪だった。
「そうね……また、あなたに口うるさく言うでしょうから。それに、パパは相変わらずだし……」
「またあの子達といるんでしょう? まったく、真っ当に飼ってあげられないくせに、一時の情けとエゴに突き動かされて野良猫に餌付けして……それに、ワクチンも打たれていない野良が運んでくる病気や菌が、シャルルへ移った時のことまで考えていないの?」
ママンだけでなく、娘のミー子ですらペル吉達を含む野良猫に良い感情を抱いておらず、彼らを可愛がるパパンを軽蔑していることが分かった。
またしても、シャルルは動揺に凍り付く。
以前、ミー子だって懐っこいチビ子さんをよく撫でてあげ、警戒するペル吉先輩へ遠くから優しく微笑んでくれて、寧湖町に住む野良猫のことも愛しんでいたはずにゃのに。
ミー子の言葉と表情にママンも思う所はあるらしく、言葉では肯定を表しながらも、声は覇気にかけていた。
一方、ミー子も自分へ注がれた眼差しに揺らめく寂しげな影に、何か言いたげだったが口を噤んだ。
いたたまれなくなったママンも、何気なく話題を変えた。
「あら、ミー子。今夜もそれだけで、足りるの?」
「そうだよ。もう慣れたし」
ママンの視線が向けるのはミー子が準備しているミー子だけの夕食だ。
最近、ミー子をあまり居間で見かけなくなった理由は、ミー子が自炊するようになり、食べるものも時間帯もママンとパパンと一緒ではなくなったからだ。
ミー子が自発的に始めたことならば、とママンは尊重したが、パパン一人だけは内心納得していないようだった。
今思えば、パパンの醸す空気がピリピリするようになったのは、丁度ミー子が自炊を始めた頃だった。
「でも、ミー子……最近、またちょっと痩せたんじゃないかしら? 大丈夫なの?」
「ほんと? ありがとう! でも、ママはおおげさだなあ。全然大丈夫だよ。目標までまだまだ先だし。友達の方がもっと細いんだよー。最近、とっても順調なんだ」
ママンの心配そうな言葉を聞いたシャルルは、改めてミー子を見上げてみる。
あれれ? ミー子って……こんなにも細かったっけにゃ?
そういえば、最近ミー子に付き纏われることも、抱っこされることもなくなっていたから気付かなかった。
以前、大福餅のように丸みを帯びた顔、プニプニと摘める柔らかな二の腕や腹部、太腿は見るからに健康的な丸みを帯びており、シャルルの『人間枕』として程よい弾力と柔らかさを誇っていた。
しかし、細長い卵のようにシャープな顎、球体人形のように細長くなった手足に浮かぶ青白い血管と骨角、くっきりと浮き出た鎖骨を覗かせるミー子は、
ミー子が手にしたお盆から仄かに漂う芳しい
茶碗一杯分の鰹のタタキの横には、お酢がプンプンと香る蒸したピーマンやナス、きのこ、キャベツなどの野菜大盛り、猫舌なミー子が苦手だったはずの熱々麦茶一杯だけが置かれていた。
今になって違和感に気付いたシャルルを他所に、ミー子はあまりに質素な夕食を二階の自室へ運んで行った。
すっかり痩せ細ったミー子の後ろ姿を呆然と見送るシャルルの傍ら、ママンは暗い表情で俯き気味だった。
*
最近になって、ママンとパパン、ミー子の三人の間にはギスギスとした空気が充満していることを、ようやく僕は確信した。
家族団欒で和んでいたはずの一階の居間には、テレビの賑やかな音に混じった冷ややかな静寂、ママンとパパンで交わされる淡々とした短い言葉のみが流れるようになった。
ミー子も台所を使用する時にしか居間へ降りてこなくなり、パパンとはまともに会話をせずに素通りすることが増えた。
以前の猫屋敷家の様子を鑑みれば、今の家庭内風景は“異様”に尽きる。
ママンとパパンの様子も、最初はよくある口喧嘩、半年に一度くらい交わす言い争いと束の間冷戦、自然和解を辿る大喧嘩によるくらいにシャルルは捉えていた。
しかし、今回ばかりは一筋縄ではいかない剣呑な雰囲気だった。
しかも、ママンとパパンの間に娘のミー子も深く絡んでいるようであれば尚の事。
そのせいか、最近のパパンは険悪な空気の居間を避け、自分のプラモデル製作室へ閉じこもり、ペル吉先輩やチビ子さんを中心とした野良猫達を
不意に気になった僕がパパンとペル吉先輩達のいる製作室へ入ろうとしたら、パパンには「勝手に入ってくるんじゃない!」、と怒鳴られた。
以前なら、パパンは製作室に置いてある折り畳み椅子に毛布を敷き、その上に僕を乗せて傍にいさせてくれたのに。
最初は叱られた訳が分からなくて、ただ怖くて戸惑って逃げた僕だったが、扉の隙間から一瞬見えた光景が答えだった。
元々、シャルル(僕)の居場所だったはずの椅子は、ペル吉先輩とチビ子さんの特等席になっていた。
パパンはママンやミー子、
でも、どうしてこうなってしまったのか――。
パパンは心変わりしたの……?
ママンと僕のことはどうでもよくなったの? だから、いつも怒っているような顔しか見せなくなったの?
だからママンは寂しそうな顔をしているの? だからペル吉先輩とチビ子さんを邪険にするの?
どうしてミー子はパパンと目を合わせようとすらしないの?
僕にあまり触れて声をかけなくなってしまったミー子は、一体どうしてしまったの?
どうして、パパンもママンも、ミー子ですら暗くて、独りぼっちな眼をしているの?
それとも、僕は何が悪いことをしてしまったの?
ミー子の布団や靴を汚してしまった時とは比べ物にならないような悪いことを、僕が知らず知らずの内にやってしまったの?
ねぇ、できることなら教えてよ……。
もしも、ちゃんと教えてくれたら、今回ばかりは一度きりで覚えて、反省して、もう悪さをしないようにするから。
だから、どうかみんな……そんな悲しそうな顔をしないで。
また前みたいに、僕を見つめ、僕に触れて、僕に声をかけて、楽しく笑って、
そしたら、また――。
以前のような猫屋敷家の和やかさとぬくもりが帰ってくるのを心密かに願いながら、今日も僕は眠った。一方、自分の体が段々と鉛を詰め込まれていくように重くなっていくのを日に日に感じていた――。
*
最近、何もかもが上手くいっていない気がする――そう感じているのは、きっと私だけではないのだろう。
二階の寝室にある薄型テレビで一人、憧れの絢爛とした欧州景色が映し出される海外映画を眺めてみるが、憂鬱に曇った心は一向に晴れなかった。
二階へ避難している理由は、一階の居間のテレビを見ていても、突然の竜巻さながら不意に現れては「またくだらん番組を見ているのか」、と悪態を吐きながら勝手に番組を切り替えてくる夫が疎ましいからだ。
夫のそういう身勝手で批判的な態度は結婚前から見られ、今に始まったことではないが、夫の言動がいちいち癪に触るように感じるのは、ここ最近――実家の北海道で一人暮らしていた私の父が亡くなった去年の冬以降だったと思う。
父は八十代の高齢ではあったが、畑仕事で鍛えられた足腰は丈夫で、身辺の事は緩慢ではあるが一通り自立できていたため、田んぼと川山に囲まれた田舎町でも、強かに一人暮らしをしていた。
『お前さんは何も心配することはないんだよ。俺はまだまだ健康に! 百歳まで長生きするつもりだからな。しっかり者で優しい娘のお前なら大丈夫。猫屋敷さんも厳しい顔をしているが、曲がったことの嫌いで繊細な、心優しい男性だ。だから俺も安心してリーちゃんを見送れる。だから、決して帰ってくるんじゃないぞ?』
暮れの太陽のように穏やかで、どこか切ない笑顔で私の心を照らしてくれた父は、本当に優しくて、聡明で、強い人だった。
長男と次男に続いて、一人娘である私が田舎を出て都市部で事業を展開し、そこで出逢った一回りも歳上の剛毅な男性との結婚を許し、快く見送ってくれた。
私が家を出た時はあんなカンカンに激怒していたのに。
きっと本当は寂しくて、心細くて、心配でたまらなかったはずなのに。
『いつまでもメソメソするな。長く苦しまずに逝けただけでもいいだろ。大往生だろ』
遠き故郷である北海道の田舎へ出向いて葬儀に参列し、その夜泊まった旅館の部屋に着いた所で初めて泣いた。
けれど、涙と共に吐き出した悲嘆と悔恨を、夫はたった一言の正論で一蹴した。
ただ黙って話を聞いてほしかっただけなのに、「悲しいな」って共感が欲しかっただけなのに。
他の兄弟親戚の前では吐き出せなかった弱音を受け止めて欲しかったのに。
私にとっても、夫の言葉は正しくて理解できる。
私もどちらかと言えば、寝たきり介護で無理矢理延命させられ、苦しみながら生き長らえるのは酷だと考える方だ。
いっそ苦しませずにあっさり亡くなる方が幸せではないか、という意見に賛同しており、そこは夫とも一致していた。
亡き父も「子どもに迷惑をかけるくらいなら、ぽっくり潔く逝きたい」、と笑顔でそれを望むのが分かる。そういう人だ。
それでも、敬愛していた父親を喪った無念を、悔恨を、悲嘆と喪失に身を焦がされずには誰がいられるものか。
人生最後の瞬間、愛する子ども達に見送られることもなく、ただ独り――永遠のような刹那の苦痛を経て死んでいった父を想像すると、今も胸が痛む。
せめて最後の瞬間、傍らで見送ることだけはしたかった。
生きている内に十分な感謝を未だ伝え切れていなかった。
あれでよかった、と頭では理解していても、やはり感情は追いつかない。
長くとは言わなくても、百歳までとは行かなくても、せめて後もう少しだけでも生きてくれたら、と思ってしまう。
父の急逝の知らせを受けなければ、いつか言葉を交わせるくらい大人になった孫娘、もしかしたらその伴侶と子どもに会わせてあげる日程の目処を立てずに、忙しさから先延ばしにしてしまったとしても。
結局、
葬儀以降も、私と夫の間に流れる空気は気まずいものへと変わった。
しかも、最近は新卒就職をした娘の変化も、私達家族を包む険悪な雰囲気、夫の苛立ちへ拍車をかけていた。
『おじーちゃんは、ママのことが大好きだったよ。私はまだ小さかったから覚えてないけど、写真のおじーちゃんの笑顔も、ママがよく聞かせてくれたお話からも、おじーちゃんがすっごく優しくて強い人だっで分かる。だって、私にとってママがそうだもの』
天真爛漫で明るくて、純真で心優しい娘。
夫に理解してもらえなかった想いを明かした時、穏やかな微笑みで静かに聴いて、優しく肯いて、温かい言葉を贈ってくれた娘にどれだけ救われたことか。
昔から無邪気な子どものような娘も、もう大人になった。
一時期は発達障害の診断や相談、不安障害の治療などで苦しみ、将来が案じられた娘だったが、今では逆に相手を精神的に支えられる人間へ成長した。
精神保健福祉士として精神障害のある人達をサポートする専門職として立派に羽ばたいた娘を誇りに思っている。
娘だけが私の希望の光。それなのに。
『私、ダメな人間なんだ……』
卒業後に就職した精神科診療所のデイケアで勤め始めて三ヶ月経った頃、明るかった娘はすっかり変わり果てた。
娘は不安や緊張に口下手も相まってか、患者さんとの話し方と接し方に悩んでいた。
職場には娘以外にも新人が三名配置されているらしいが、その中で娘だけは患者との面談・相談支援を担当させてもらないらしい。
会話と聴き取りが下手で未だ雑用止まりの娘に目を付けた“めんどくさい系”の中年男性の患者は、ミー子からのあいさつを無視する、他の患者へミー子の陰口を叩く、用事を言いつけて不手際にケチをつけるといったいじめもとい患者による
さらに職場で流行しているダイエット法を知り、少しでも人の輪に入るために娘もダイエットを始めた。
職場で教えてもらったダイエット法は効果的面だったらしく、中々痩せられなかった娘はみるみると雑誌モデルのようにすらっとした体型へ変わった。
職場では同僚や一部の患者からも「綺麗になったね!」、と初めて褒められた娘の喜びは計り知れず、だからこそ悲しかった。
最初の目標体重に達した後も、娘はさらに上を目指すと言ってさらに食事量を減らし、運動量も増やしていった。
ますます痩せていく娘を見かねた夫は、娘の好物を作って食事に誘い、「ガリっちょだな」、と嫌味や皮肉を吐いたりした。
しかし、夫の態度は逆効果だったらしく、娘は夫を煙たがるようになった。
今になって思えば、またしても後悔ばかりだ。
あの時、父を喪った悲しみと同時に夫への不満も娘へ零さなければよかった。
痩せた娘を「綺麗だね」、と褒めなければよかった。
もっと自分がしっかりしていれば、もっと娘をちゃんと見て異変に早く気付いてあげられたら、こんな風にならなかったのだろうか。
このままでは、あんなにも仲良かった温かな家族は壊れてしまう。
大切で愛おしい家族の心がバラバラになる、それだけは絶対に嫌だ。
けれど、どうすれば私の声を夫へ、娘の心へ届けられるだろう。
どんな言葉をかければ、私の話を聞いてくれるのだろう。
幾度と繰り返した葛藤を独り巡らしながら、一階にいるはずのシャルルの姿を探している時だった。
「っ……シャルル……?」
自由に出入りできるように常に開きっぱなしの檻の中にいるシャルルを見つけた。
シャルルは檻に敷かれた毛布の上で、ミー子曰く『うさぎちゃん座り』の体勢でじっとしている。
しかし、ママンが傍へ寄っても見向きもしないシャルルは、
嫌な汗が額から伝うのを感じる中、私はシャルルの背中をそっと撫でてみた。そういえば、昨日からこの子――。
「シャルル――!?」
何時、お水を飲んで、トイレしたっけ――?
***第7話へ続き***
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