第12話 咲良の想い⑦



 次々訪れる人たちに、挨拶をして回った。蒼一さんはどこの会社の誰かと言うことをしっかり把握しているようで、私に何度も耳打ちでそれを教えてくれた。


 妻の咲良です、と言われるたびに胸を躍らせ、笑顔で人々に挨拶をする。仕事の話などは聞いていてもまるでわからなかったが、とにかく必死に相槌を打って笑顔を絶やさないようにだけした。


 時折、私をジロジロと見つめてくる人たちがおり、おそらく『逃げた花嫁の妹か』と好奇の眼差しで見られているのだろうと自覚していた。それでも決して背を丸くせず、堂々としていることだけを意識しておいた。


 二時間に渡るパーティーの中で数え切れない人たちと談笑し、頬が筋肉痛になりそうなほど笑い、足は棒になってしまいそうだ。ただそれでも、今私は紛れもなく蒼一さんの妻としてここに立っているのだ——その幸福感だけが、私を支えている。


 いつでも蒼一さんが隣にいてくれるので、周りの視線も気にせずに振る舞えた。これまで生きてきて、一番堂々とできた日だったかもしれない。


 お母様たちとは最初以外話す機会がなかったのは残念だった。パーティー終了後にもう一度ご挨拶を、と思っていたらすぐにいなくなってしまったのだ。避けられているのかもしれないとすら思ってしまった。


 仕方なしに、お二人に別れの挨拶もできないまま蒼一さんと二人帰路についた。







 家に帰宅した頃、もう全身クタクタで死にそうだった。


 慣れないドレスに靴、立ちっぱなしの気が張りっぱなし。疲れるのも当然だと思う。


 リビングに入ったところで、情けなくもソファに思い切り腰をかけ、着替えることもせずに力を抜いた。無意識に大きく息を吐き出してしまう。


 小さな笑い声が聞こえた。そして力なく座り込む私の目の前に、グラスに入ったお茶が差し出される。


「あ! 蒼一さんすみません!」


 慌てて受け取る。こういうのって私の役目なのに! またやってしまった。しかし彼は笑いながら私の隣に腰掛ける。


「ううん、咲良ちゃんすごく疲れたでしょう。本当にありがとう」


「そんなの蒼一さんも一緒ですよ」


「僕はヒールなんて履いてないしドレスも着てないし。見知らぬ人たちに囲まれてたわけじゃないから、全然違うよ」


 笑いながらお茶を飲む彼の左手には、まだ指輪が光っていた。受け取ったお茶をおずおずと飲み込み、今日の出来事を思い出す。


 あっという間だった。いっぱいいっぱいだったけど、ちゃんとできてただろうか。あのあとお母様とは一言も言葉を交わしていいないし。今日また幻滅されてたりしないといいけど……。


「咲良ちゃん、凄かったよ」


 私の声が聞こえたのだろうか、蒼一さんが隣で言ったので驚いた。彼は私を見たまま目を細めて見ている。


「綺麗で、気遣いができて、明るくて、最高だった。満点だったよ」


「そ、うでしょうか」


「うん。文句の付け所がない」


「お母様とはほとんど話せなかったけど、そう見えたでしょうか」


「うん。だってお世辞じゃなくて本当に完璧だったから」


 そう褒められた時、心があったかくなって幸福感に包まれた。自然と緩んでしまう頬もそのままに、私は素直に笑ってみせた。


 結局はこれだ。私はこれが欲しかった。蒼一さんに褒められたかった。


 普段妻として働けているとはいえない中、ようやく彼の奥さんらしいことができた気がする。ほんのわずかでも蒼一さんの役に立てるのが最高に嬉しかった。


「あんなに小さかった咲良ちゃんが、大人になったなあってしみじみした」


 ポツンと蒼一さんが呟く。隣をみると、懐かしむように話す彼がいた。思い出すように少し天井を見上げて言う。


「よちよち歩きしてたのに」


「いつのことですか!」


「あはは、ごめん。素敵な女性になったなって思ったんだよ」


「ほ、褒めすぎです」


「ほんとに。

 今日は頑張ってもらったから、何かお礼をしなきゃ。欲しいものとかない?」


「そんな! 私は何も」


「なんでもいいよ。言ってみて」


 口を開けて笑う蒼一さんの顔を見て、あまりに苦しいので視線を落とした。お茶の入ったグラスを両手で握る自分の薬指に、まだ傷ひとつない指輪がはめてあるのが目に入る。それを見た途端、愛しさが溢れかえって私の全身からこぼれ落ちた。


 蒼一さんがくれた。小さな石が光っている。シンプルででも綺麗だ。パーティーのためだとはいえ、私のために買ってくれた。


 これを外したくないと思った。私はもう子供じゃない、蒼一さんと結婚した大人の女だ。本当は彼に、一人の女性として意識してもらいたい。


 私の願いを聞いてもらえるとすればただ一つ。


 例えお姉ちゃんの代わりでもいいから、同居人からどうにかして脱出したいの


「……そうです。私、もう子供じゃないんです」


「そうだね。もう二十二だもんね」


「子供っぽく見られるけど違います。私は」


 隣に座る蒼一さんをみる。瞬間、茶色の瞳と目が合った。たったそれだけで、私の全身は縛られたように動けなくなってしまう。魔法だろうか、と思った。


 あなたの妻として隣に立つことがこれほど嬉しかったなんて。できれば本当に妻となれたらどれくらい幸せなんだろう。私は求めすぎなんだろうか。


 出したい言葉が出てこない。でも言いたい。言ったら彼が困ることなんてわかってる、けど伝えたい。


 私、は。





「あ」


 言葉を探している時、目の前の蒼一さんが声を上げた。首を傾げると、彼は笑って言った。


「そうだ。今日、来たよ」


「え?」


「咲良ちゃんのベッド」


 それを言われた途端、言おうとしていた言葉は脆くも崩れ去った。サラサラと砂のように、言いたかった気持ちも無くなっていく。


 嬉しそうに、ほっとしたように言った蒼一さんの顔が印象的だった。


「パーティーの間、山下さんに立ち会いお願いしておいた。あっちの部屋に設置したから、咲良ちゃんはそっちで寝てね」


「…………」


「これでゆっくり寝れるね。よかった」


 これまで毎晩隣で寝ていた私たち。それでもただ睡眠をするだけで、本当に彼は何もしてこなかった。


 彼の提案で購入した私用のベッド。私用の部屋。ここに完全に別室が確立された。


 それは『本当に手なんか出さないよ』という彼の強い意志だった。




「……はい、ありがとうございます」


「疲れたでしょう、先お風呂入っておいで」


「お言葉に甘えて。ありがとうございます」


「お礼の件は考えておいてね」


 私はニコリと笑って見せると、そのまま蒼一さんに背を向けた。ふらふらと部屋に入ってみると、新品のベッドが確かにそこには存在していた。


 苦笑する。褒められて調子に乗ってしまった。これほど対象外だと彼から突きつけられて、何を夢見ていたんだろう。


 普通、はさ。気持ちはなくても、男の人って女を抱けるんじゃないの?


 私はそんな気も起きないほど女として見られてないんだろうか。隣に寝て、それでも何もないんじゃもう救いようがない。きっと一生、私は彼と繋がることはない。


 左手にしていた指輪をそっと外し、近くの引き出しにしまいこんだ。綺麗な輝きを見せる石が、今はあまりに辛かった。






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