第4話 猛き者ら

 空手、柔道、合気道。倉山家の流儀に倣い、恭仁も年を重ねるにつれ様々の武道を習得させられる。恭仁は武道の型を覚え、通り一遍の演武こそこなせても、対人戦の強さで頭角を現すことは敵わなかった。試合を重ねど、一向に芽は出なかった。


 それでも、示現流には今なお熱心に通い、着々と技術を習得し続けていた。


「オイ出来損ない。失礼、恭仁クン。手前まだ例の田舎剣法やってんのか」

「田舎剣法だって?」


 恭仁、15歳。遠方の大学から戻っていた長男・貞義の言葉に、カチンときた顔で振り返る。成人も過ぎ、すっかり大人びていた貞義が、にやついた表情で恭仁の肩を叩いた。並び立つと、2人の背丈に殆ど差は無かった。


「エェーイって叫んで木刀を振ればいいだからな、簡単だよな。俺の剣道とどっちが強いか、ここらで決着をつけようじゃないか。面白いだろ?」

「兄さん。僕にまた竹刀を持てって言うのかい?」


 凍て付いた表情で恭仁が口答えをすると、貞義が気色ばんで恭仁の学生服の襟首を掴み、手繰り寄せて額を突き合わせた。一暴れしたい風情だった。


「ゴチャゴチャうっせえよ手前、爺ちゃんの道場から尻尾撒いて逃げ出した腰抜けのクセによ。俺が稽古つけてやるつってんだ、お前に選択権はねえんだよ」

「爺ちゃんの剣道はもう忘れたよ。僕は僕のやり方でやる、文句はないね」


 恭仁は昔より握力の強くなった手で、貞義の手首を掴んで突き放した。


「上等だコラ。ボコボコにしてやるからな、ピイピイ泣くんじゃねえぞ」


 剣道場へ長らく姿を見せていなかった貞義と、5年ぶりの恭仁。2人が現れ道場は騒然となった。大学を終えて故郷に凱旋した貞義は、道場の門下生に誇らしげに手を振って笑みを振り撒く。恭仁は冷たい顔で前だけ見ていた。


 師範たる祖父・鉄義は、2人の姿に何か言いたげに眉根を上げたが、特段の動揺も見せず平常に振舞った。貞義と恭仁は哲義の元に向かい首を垂れる。


「お久しぶりです、師範」

「どの面下げて帰って来た」


貞義の言葉を半ば遮り、鉄義が刃のように鋭い言葉を、恭仁に投げかける。


「面目次第もありません。本日は、兄さんたっての手合わせの願いですので。どうか今日限り、道場の床を踏んで竹刀を振るう無礼をお許しください」


 恭仁が立て板に水を流すがごとく語り、一礼して鉄義としっかり目を合わせると、鉄義は何も言えなかった。瞳の奥に臆する心は無い。恭仁は確実に変わっていた。


「何をグズグズしてんだノロマ。防具なんて女々しいモンはいらねんだよ」

「どういう意味だい」


 道着姿で訝しむ恭仁に、貞義は型稽古用の木刀を放り投げた。


「俺たちゃもう子供じゃねえ。男らしく木刀でやり合うとしようや、ン?」

「無茶だよ兄さん、怪我しても責任は負えないよ」

「手前の意見なんか聞いてねえよ。病院送りにならねぇよう精々気張れや」


 恭仁は木刀を受け取り、鉄義に困惑の視線を投げた。鉄義は無言で目を閉ざした。黙認する構えだ。どうなっても知らないぞ。昔とは違い、黙って打ち込まれる痛みに耐えるつもりは恭仁には無かった。貞義と全力で打ち合って、それでも勝てなかった時はその時だ。昔とは違ってぐらいはできるさ。恭仁は無言で頭を振って貞義に視線を戻すと、下半身に筋の通った足取りで緩やかに道場の中央に陣取った。


 一方の貞義は、木刀を肩に預けて恭仁と対面する位置に立つと、侮蔑の視線で彼を射抜いた。鼠を追い込む猫じみた貌。道場の喧騒が静まり、鉄義が閉じた目を開く。


 貞義が木刀の切っ先を突き出し、正眼に構えた。通常の剣道ならば、恭仁も正眼に構えて、切っ先を交えるのが試合の決まりだ。しかし恭仁は剣道の形に則った所作を良しとせず、木刀の柄を握った両手を耳の横に構え、蜻蛉を取った。示現流の形だ。


「手前……」


 貞義が苛立ちと共に呟き、周囲が俄かにざわついた。貞義が不本意な表情で鉄義を見遣る。鉄義は眉根を寄せるも、口を出す気配は無い。恭仁は端から剣道で戦う気が無かった。貞義のペースには乗らないという意志表明だ。


「田舎剣法をブチのめすんだろ、兄さん。僕なら準備はできてるよ」


 恭仁は爛々と双眸を輝かせ、淡々と貞義に告げた。正々堂々たる彼の態度に満ちる余裕と言葉に漲る自信が、貞義を殊更に苛立たせた。弱虫で情けない姿とは無縁だ。貞義は不快そうに双眸を細め、不承不承に木刀を構え直す。


 戦いの火蓋は静寂の内に切られた。すかさず踏み込んだ貞義は、がら空きの恭仁の胴に素早く横薙ぎの打撃を見舞う。寸止めする気など元より無い。


 骨が折れ、苦痛に咽ぶ恭仁の姿が脳裏を過り、貞義がニタリと笑った瞬間。


「エェーィ!」


 道場の壁を震わせる猿叫! 貞義の予想に反し、恭仁は後退るどころか歩み出た。貞義の左肩から右脇腹まで一刀両断せんばかり、凄まじい勢いをまとった袈裟切りが襲い来る! 驚くべきはその斬撃の速さ! 示現流の稽古で用いるイスノキの木刀は一般的な物より重く成形も歪だ。恭仁はそれで何万何十万何百万回と立木打ちをして鍛錬を重ねてきた。その彼が握りよい普通の木刀を振れば、どうなるか!


 余りの剣圧の凄まじさに、貞義は手が止まり足が竦み、文字通り棒立ちとなる!


 恭仁は一繋ぎの猿叫で木刀を振り下ろしてはピタリと寸止めし、返す木刀で頭上に振りかぶっては逆側の肩へと振り下ろして寸止め! 貞義の左肩、右肩、左肩そして右肩また左肩! 重く、早く、迷いの無い切り込み! 直撃すれば打撲では済まぬ、鎖骨に当たれば鎖骨を割り、頭蓋骨に当たれば頭蓋骨を砕く、決死の立木打ち!


「……エェーィ!」


 打ち終えた恭仁は、残心して貞義に正眼で木刀を構えながらゆっくりと後退ると、貞義から僅かも目を逸らさず、再び静々と蜻蛉を取った。ぞわ……と、道場に畏れのどよめきが満ちた。もはや道場剣術の試合ではない。これではまるで殺仕合コロシアイだ。


 鉄義は無言で目を閉じ、頭を振った。もはや勝負はついている。だが彼は始まった試合に口を挟まず、成り行きを見守った。貞義は木刀を突き出して気勢を上げるが、恭仁に斬りかかる素振りは見せない。恭仁は一言も発さず、木刀で蜻蛉を取る姿勢に威圧感を漂わせつつ、一定の歩幅と速度を保ってひたひたと貞義に歩み寄る。


 打ち込めるものなら打ち込んでみろ。貴様に肉を切らせて貴様の骨を断つ。間合に入るなら無傷では返さないぞ。恭仁の立ち姿が言外に発する凄みに貞義は尻込みし、気勢を上げるばかりで実際には後退り、円を描く足取りで恭仁の隙を窺うばかり。


 恭仁は逃げも隠れもせず、貞義を追い詰めた。愚直に正面から受けて立つ構えだ。傍目には貞義が恭仁から逃げ回っているようにも見えた。貞義は痺れを切らした。


「メェーン!」


 恭仁へと素早く踏み込み、小手調べの面! そこに被さる後の先の撃剣!


「エェーィ! エェーィ!」


 恭仁の強烈な打撃が、貞義の先出しした面打ちを弾いた。木刀を再び振りかぶると貞義の額すれすれで寸止め! 貞義は木刀を握る手が弾かれた振動に痺れ、目の前に迫る木刀の切っ先に思わず立ち竦む。恭仁は残心して後退り、再び蜻蛉を取った。


「兄さん、調子でも悪いのかい。遠慮なく打ってきなよ、昔のように」


 恭仁が道場の中央に戻って不敵に告げると、貞義の額に血管が浮かんだ。


「このクソガキ……調子に乗るなよ!」


 貞義の頭に血が上り、恭仁に素早く駆け寄ると喉仏に切っ先を突き出した。


「エェーィ!」


 恭仁の腕が反射的に動き、木刀の斬撃を一閃! 貞義の木刀の切っ先を切断せんと恭仁の木刀が打ち据え、火薬が爆ぜるように音高く木刀がかち合い、貞義の両手から木刀が叩き落とされる。貞義は恐れを成して後退った。恭仁の動きは止まらない!


 滑らかな動きで木刀を突き出す!


「エェーィ!」

「やめーい!」


 鉄義、遂に刮目して膝立ちしし、片腕を振って鶴の一声! 見開いた恭仁の眼光に射竦められ、貞義の全身が硬直! 恭仁が突き出した木刀の切っ先は、貞義の右肩の上の宙を刺し、心臓を貫くようにコンパクトな袈裟切りの形で突き抜かれていた!


 周囲で試合を見守る剣士たちが、あんぐりと口を開き驚愕した。貞義はいやしくも剣道大会を全国レベルまで勝ち上がった手練れ、木剣の試合といえども完膚なきまで恭仁に敗北を喫するとは! ただの一歩たりとも、恭仁に後退らせることなく!


「ぐッ……」

「まだやるかい?」


 恭仁がゆっくりと後退り、木刀を正眼に構えて残心しつつ、貞義に問うた。


「て、手前……俺を殺す気かコラァ!」


 恭仁が木刀で蜻蛉を取ろうとする一瞬前に、貞義が素早く踏み込み、木刀を掴んで床に転がし、恭仁の道着を掴んで激しく詰め寄る。恭仁は剃刀のように双眸を窄めて貞義を見返すと、貞義に劣らぬ握力で彼の手首を掴んだ。


「僕は剣道をやらないって言ったよね? 田舎剣法に負けた気分はどう?」

「手前何だその物言いは! この道場を侮辱したらただじゃおかね――」


 拳を握った貞義の足が絡め取られ、一本背負いで床に叩きつけられる。


「往生際が悪いね! 兄さんは喧嘩に負けたんだよ!」


 貞義は突然の投げ技に受け身も取れず、痛みに藻掻く。恭仁の脳裏に、兄姉たちの背中を追い、泣き腫らした道場の日々が思い出され、泡のようにかき消えた。せめて素直に負けを受け入れられる、素直な武人に成長していて欲しかった。未だにこんな幼稚な情動に囚われているとは、怒りを通り越して余りに無様だ。恭仁は兄を心から憐れむ表情で一瞥すると、道着の襟を正して道場を見渡した。


 恭仁が鉄義を見据えると、彼は無言で勝手にしろとばかり目を逸らす。居合わせた剣士たちの中で貞義を庇い立てする者もまた居ない。武道は強い者が全てなのだ。


 恭仁は踵を返し、捨て台詞を吐いた。


「いい加減、大人になりなよ!」

「手前、この野郎! ただじゃ置かんぞ! 母さんに言いつけてやる!」


 恭仁は笑った。家に戻れば、また折檻が彼を待っているだろう。それがどうした。倉山家に生まれた男子たるもの、母親に殴られるのが怖くて兄弟喧嘩ができるか。

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