負けられない女10

 翌朝、めぐりが目を覚ますと、時刻は既に正午前だった。裕香のことがあってからやたらと睡眠時間が長くなっている。それだけ精神的に疲弊しているのだと、めぐりは自分でそう結論付けていた。


 ベッドから起き上がって、すぐに洗面所へ行き、顔を洗い、歯を磨き、寝癖を直し、簡単な化粧をする。まるで昨日の朝の自分を再現しているようだった。長袖のセーターに着替えたら部屋を出て、一階にあるレストランへ向かい、昨日と同じ席に座り、昨日と同じオムレツを頼んだ。元々めぐりは、あまり変化を好まない性格であった。起きる時間、食べるもの、付き合う人間、周りの環境…。自分が慣れ親しんだものから離れるのを極めて不安に感じた。その点、裕香は全くそうではなかった。常に新しいことを求め、変化を好み、何に関しても「冒険」してみることが好きだった。「相撲に挑戦してみないか?」という原の提案にすぐ乗ったのも、その性格があってのことだろう。もし自分が裕香の立場だったら、同じ決断は絶対に下さない。きっと、自分にはかるたがあれば十分だと言って、原の提案を退けたことだろう。めぐりは、改めて裕香の勇敢さ、大胆さを思い知った。無くなって初めてその大切さが分かるとはよく言うが、自分で殺してみて改めて殺した相手の偉大さが分かるというのも皮肉な話だと思った。


 朝食のオムレツを食べ終えためぐりは、これも昨日と同じように家計を済まし、レストランを出て、エレベーターホールに向かい、自分の部屋へと戻って行った。そしてまた昨日と同じようにテーブルの上にかるたを並べ、スマホの読み上げアプリを起動し、一人自主練習に取り組んだ。


 自分は一生この生活を続けるのだろうかと、たまに考えることがある。今まで自分は、かるた以外のことには見向きもしないで生きて来た。趣味もない。恋人もいない。夢もない。唯一の親友は自分が殺した。今のめぐりには、かるた以外に何も無かった。それで満足だと思っていた。しかし、裕香がいなくなった今、おそらくクイーンに最も近い人間は自分だろう。クイーンになった後はどうする? 他に達成したい目標などない。裕香に代わるような親友が現れるのを期待する? そんな人物はきっと現れない。裕香以上の親友など。新たにクイーンの座を脅かすような選手が現れるのを期待する? そんなのは絶対に嫌だ。何の為に裕香を殺したのだ。唯一無二の親友を。めぐりは、自分の中の混沌とした感情を整理することに苦心した。自分にとって裕香とはどんな存在だったのだろうか。親友であり、ライバルであり、憧れであり、そして、殺したいほど恨んだ人間…。矛盾しているような、矛盾していないような。そんな複雑な感情が、めぐりの頭を支配していた。


 めぐりは思わず読み上げアプリを止めた。今日は全く集中できない。こんな状態でかるたは取れないと判断した。並べてあったかるたの札を片付けようとしたとき、部屋の外から聞き覚えのある声が聞こえた。


「ここの部屋だったよね、お兄ちゃん?」


「ああ。あまり大きな声は出さないようにね」


「はーい!」


 声と内容を聞けば、それが誰であるのかすぐに分かった。めぐりは、不思議と不安や恐怖は感じなかった。むしろ、彼らには好感さえ持っていた。彼らとの会話は、めぐりの心に安心を与えるのだった。


 めぐりが彼らの声に耳を傾け、笑みを浮かべていると、間もなくめぐりの部屋がノックされた。


「すみません。山崎です。日野さん、少しお話よろしいですか」


「はい。ちょっと待ってください」


 めぐりはソファから立ち上がり、ドアを開けた。思った通り、そこには黒いスーツを着た若い男と、その男に寄り添うもっと若い女が立っていた。


「どうもこんにちは」


「こんにちは! 日野さん!」


「こんにちは。山崎さんにカオルさん。どうぞ入って」


 挨拶を済ませると、山崎とカオルは部屋に入り、まるで自分たち専用の席であるかのように、部屋の中央にあるソファの、過去二回と同じ位置に並んで座った。めぐりもそれに続いて、彼女もまた定位置である二人の向かい側に座った。


「昨夜ぶりですね、山崎さん」


「昨日の今日ですみません」


「え? お兄ちゃん昨日の夜も日野さんと会ってたの!? 何で!?」


「何でって、日野さんにいろいろ聞きたいことがあったからだよ」


「本当にそれだけ?」


「それだけだよ」


「だって若い男女が夜中にホテルの同じ部屋に二人きりって…。何か間違いが見えてもおかしくないじゃない!」


「何か、似たような台詞を最近聞いた気がするよ」


「日野さん! 本当にお兄ちゃんとは何も無かったんですか!?」


「さあ。どうかしら?」


 悪戯っぽく笑うめぐりに、カオルの目の色が変わった。


「私、日野さんのことは、あの貧乳おばさんと違って信頼してたのにー!」


「ちょっと日野さん。誤解を招くような言い方は…」


「ふふ…」


 めぐりは思わず微笑んだ。どうしてこの兄妹や、部下の東堂を見ていると心が休まるのだろう。相手は自分を追いつめようとしている刑事であるというのに。「そうか」とめぐりは心の中で呟いた。思い返せば、めぐりのこれまでの人生に安らぎなど無かった。人付き合いがあまり得意ではなく、友達も恋人もいなかった。小学校に入るのとほぼ同時に競技かるたを始めてからは、常に周りとの競争に晒された。めぐりは常に孤独を感じていた。めぐりはこれまで生きてきて、心が安らいだ瞬間など皆無に等しかったのである。それが今はどうだ。片時ではあるが、競技かるたの激しい競争から離れ、目の前では仲の良い兄妹の微笑ましいやり取りが行われ、その輪の中に自分も入っている。こんなことはこれまで一度も無かったのだ。めぐりにとって「安心」という感情はこれが初めてのことだった。しかし、この感情も長くは続かないことを、めぐりはちゃんと理解もしていた。


「ところで山崎さん。昨日のあの話からすぐにここへ来たってことは、もう勝負をお付けになりに来たんですか? 私としては、もうちょっと楽しみたい気持ちもあるんですけど」


「ご安心ください。正直に申し上げて、分かっていることは昨日と何も変わってません。今日は、日野さんに『百人一首』について教えてもらおうと思って伺っただけでして」


「『百人一首』について、ですか?」


 山崎の意外な申し出に、めぐりは素直に驚いた。何かの罠だろうか。いや、「百人一首」についてどれだけ語ったところで、裕香の死の真相など分かるはずはない。この男は本当のことを言っている。純粋な興味から、自分に話を聞きに来たのだと、めぐりは判断した。


「ていうかお兄ちゃん。『勝負』って何のこと?」


「え? いや、何でもないよ」


「私と山崎さんだけの秘密よ、カオルちゃん」


「やっぱりお兄ちゃんは日野さんと既に蜜月の夜を…」


「どこで覚えたんだい、そんな言葉」


「で、山崎さん。具体的に『百人一首』の何を知りたいんですか?」


「そうですねえ。正直、上の句を聞いて下の句を取るというルール以外は何も知らないもので。『百人一首』に関することなら何でも教えていただきたいです」


「私に語らせたら、止まらなくなっちゃいますよ?」


「望むところです」


 めぐりは山崎の方を見てニヤリと笑った。


「『百人一首』って、今はかるたとして遊ばれてますけど、もちろんその為に作られたものじゃないんです」


「じゃあ、一体何の為に?」


「一説によると、藤原定家という歌人がいたんですが、彼が友人の別荘に襖をプレゼントしようということになって、その襖に古今の素晴らしい名歌を百首書いて送ることにしたんだそうです。百首の歌にはちゃんと順番があって、詠まれた時代の順になってるんです」


「へえ。知りませんでした」


「でも、名歌には違いないけど、中には全然知られていない無名の歌人が詠んだ無名の歌も含まれていたり、定家がなぜこの百首を選んだのかとか、まだまだ分かっていないことは多くあるんです」


「歴史のロマンってやつだ!」


「その百首にはどんな歌が選ばれているんですか?」


「ジャンルはいろいろですけど、実は半分以上が恋に関する歌なんです。今でいう恋愛ソングみたいなものですね」


「それは意外ですね」


「そうですか? 私にとってはそうでもありません。平安貴族たちは、今とは違って娯楽が少なかったから、毎日暇で暇で仕方なかったんですよ。だから彼らはその時間に何をしたかというと、とにかく勉強と恋愛をしてたんです。といっても、当時はいかに教養があるかというのが異性に対する評価の大部分でしたから、結局は全て恋愛の為、平たく言えばモテる為の勉強だったんです。でも、決して軽い気持ちで恋愛をしていた訳じゃない。まあ中には今みたいにチャラい人もいたでしょうけど、当時の貴族たちは、現代の私たちなんかよりよっぽど情熱的に、それこそ命を懸けて恋愛をしていたんです。そのことは彼ら彼女らの歌を詠んでみれば分かります。平安貴族の恋愛を歌を詠んでたら、今のJポップの恋愛ソングなんて、薄っぺらく感じちゃって聴いてられません」


 めぐりは自分がどんどんヒートアップしていくのが分かった。しかし、山崎もカオルも自分の話を興味を無くさずに聞き続けてくれていることが嬉しくて、その熱を冷まそうという気は起らなかった。むしろ、自分の好きな世界の話をもっと聞いて欲しくなった。


「面白い話を聞いたことがあります。私の同じかるた会に入ってる子、つまり私の妹弟子にあたる子なんですけど、その子が前に恋人に突然別れを切り出されたんだそうです。その子は悔しくて、何かその男に言ってやりたくなったそうなんですけど、考えた末に、その男に一言『忘らるる』とだけメールで送ったらしいです」


「それはどういう意味なんですか?」


「『忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命も惜しくもあるかな』。これは、右近という女性が恋人だった男に振られて、その男に向かって詠んだ歌で、『あなたに忘れられる私の身はどうなっても構いませんが、共に神に愛を誓い合ったあなたが、誓いを破って天罰に当たって死んでしまうことが残念でなりません』っていう意味なんですよ」


「それはまた、凄まじい歌ですね」


「何か怖ーい」


「昔から女っていうのは執念深いものなんです。特に自分を裏切った男に対しては。山崎さんも気を付けた方がいいですよ」


「いえ。私には裏切る相手がいませんから」


「カオルがいるでしょ!」


 めぐりはまた「ふふ」と笑った。


「一つ、お聞きしてもいいですか?」


「何ですか?」


「『百人一首』の中で、日野さんの一番好きな歌は何ですか?」


「一番好きな歌ですか…。難しい質問ですけど、一つあります。『忘れじの行く末までは難ければ今日を限りの命ともがな』。高階貴子という女性の歌です。これは、『あなたが私を永遠に忘れないなんてことは有り得ない。それならいっそ、幸せな状態で、今ここで死んでしまいたい』という意味の歌です」


「それはまた…」


「情熱的な歌でしょ? 昔の人たちは、今の人たちよりよっぽどリアリストだったんですよ。『ずっと一緒だよ』とか『永遠の愛』なんていう非現実的なことは言わないんです。そんな夢幻より、彼ら彼女らは現実を見て、今を全力で生きることを選んだ。そんな平安貴族の文化が、私は大好きなんです」


「そうですか」


 山崎は優しく相槌を打った。自分の好きなものを、まるで子供のようにはしゃいで語るめぐりに、山崎は親近感を覚えていた。普段は他人を寄せ付けず、一匹狼のような雰囲気を醸し出しているめぐりの可愛らしい一面を見たような気がして、山崎は思わず頬が緩んでいた。そんな山崎の表情を、彼の隣にいる愚妹が見逃すはずはなかった。


「ちょっとお兄ちゃん。なにニヤニヤしてんの?」


「え? そんなことないよ」


「そんなことあるよ。いつもはツンツンしてる女の子の意外な一面を見て思わずトキメキみたいな顔してたもん」


「あんまり人の心を読まないで欲しいな…」


「ほらやっぱり! お兄ちゃんはカオル以外の女の子に興奮しちゃ駄目なんだから!」


「いや興奮はしてないよ?」


 山崎とカオルのやり取りを見ていためぐりが思わず微笑んだ。めぐりの子供のような無邪気な笑顔は、二人の言い争いを問答無用で収めた。彼女の笑顔は人々を癒し、どんな争いも立ちどころに収めてしまうような、不思議な力があった。


「やっぱり山崎さんたちのお話を聞いてるのは面白いです。裕香を亡くした悲しみも、少しだけ忘れられる気がします」


「騒がしくて申し訳ないと思っていたのですが、そう言っていただけて幸いです」


 それからしばらくは、三人の他愛もない談笑が続いた。お互いの身の上話や、世間話。最近あった面白いことや、テレビで見た笑える場面…。どれも取るに足らない話ばかりだったが、山崎にとっても、カオルにとっても、そしてめぐりにとっても非常に楽しい時間となった。


 三人の談笑が一段落ついたとき、山崎とカオルがめぐりの部屋にやって来てから二時間ほどが経っていた。自身の腕時計を見た山崎が、話題を変えるようにして言った。


「おや。もうこんな時間ですか。また少し長居してしまいましたね」


「別に構いません。どうせ暇ですから。あ、そうだ。山崎さん」


「はい?」


 めぐりはソファに座り直して言った。


「私と原先生がここに泊まるのは明日までなんです。明日の夕方にはここを出て、新幹線で帰ることになってます。これがどういうことか、お分かりですよね?」


「…つまり、勝負の期限は明日の夕方までということですね?」


「そういうことです」


「…分かりました。それまでに、何らかの答えを提示することを約束します」


「楽しみにしてますね」


「あと、『百人一首』についても勉強しておくことにします。せっかく日野さんに出会えたんですからね」


「それは嬉しいです。山崎さんが一番好きになった歌、教えてくださいね」


「ええ」


 笑顔で答えると、山崎とカオルは立ち上がった。


「では、これで」


「はい。また明日」


 別れの挨拶を交わし、山崎とカオルはドアを開けて出て行った。廊下から聞こえる「ねえねえ、結局勝負って何のことなの?」というカオルの声を聞きながら、めぐりは服を着替え始めた。


 もう少し。もう少しだけ耐え凌げば、私の勝ちだ。そう心の中で唱えて、めぐりは風呂場へと向かった。

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