物語は、あくまで物語
緑月文人
第1話
「あ……あほかあああああああああああああああああああっ!」
「ど……どうしたんですか?先輩」
パソコンの画面に向けて、突如怒声を発した先輩に対し、僕はおそるおそる声をかけた。
大学の文芸部部室。他に人もいない閑散とした室内である。
「ちょっと、これ見てくれよ……」
流れるような黒髪と白い肌、切れ長の眼が目立つ、楚々とした麗姿の女性。その容姿にそぐわない男性的な口調で言いながら、先輩は僕に画面を見せる。
「殺生石が割れた…?」
どこかの新聞のニュースサイトらしきそれに書かれた文字を読み上げて僕は、眉をひそめた。
「殺生石ってあの九尾の狐とか、玉藻の前伝説の?」
「そうだよ」
何が気に入らないのか、先輩は細い眉を顰める。
九尾の狐。玉藻の前。確か栃木県にある殺生石と呼ばれる石に関わる有名な妖怪だ。漫画やアニメでよく取り上げられるから知っている。
「それが割れたんですか…。漫画でよくある展開みたいに、封印が解けたってことですか?」
「…君も勘違いしているクチか?」
うんざりしたような口ぶりで言いながら、先輩は僕に視線を向ける。
切れ長の眼の中に、研いだような眼光が宿る。その眼差しに気おされつつも、僕はやや間の抜けた声をあげる。
「え?」
「元々の玉藻前伝説と、それを元に書かれた古典文学には、『殺生石は九尾の狐の玉藻の前を封印した石だ』なんて一言も出ていないのさ」
束の間、さして広くもない部室に沈黙が流れて満ちた。
「え……そうなんですか?漫画やアニメとかだとそんな風に書かれているからてっきり…」
「じゃあ、説明をしよう。話が少し長くなるけど、いいかな?」
僕は少しためらいつつも頷いた。
「まず、玉藻の前伝説について記したのは、室町時代の史書『神明鏡』と辞書『下学集』、御伽草子の『玉藻の草紙』だ。またそれらを元にして、江戸時代に読本が書かれた。高井蘭山の『絵本三国妖婦伝』や岡田玉山の『絵本玉藻譚』などだな。浄瑠璃や歌舞伎、能でも取り上げられた。『那須記』という那須氏の歴史や民間伝承を記した書物にも載っている」
「そ……そんなにあるんですか?」
僕は驚きを抑えきれずに声を上げるが、先輩は変わらず淡々と話し続ける。
「ああ。ちなみに、初期の『玉藻の草紙』では玉藻前は九尾の狐ではなく、二尾の狐だ。『玉藻前物語絵巻』では二尾の白狐としての姿が描かれ、『下学集』や『那須記』でも白狐と記載されてある」
流れるような口調で言い終わると、レモンティーを一口飲んでのどを潤してから口を開く。
「話がそれたね、ごめんよ。とにかく、さっき名前を挙げた書物の中には『玉藻の前が殺生石に封印された』なんて記述はどこにもない。死した後に体が石と化した。死した後に、思念が石と化した。身を守るため自ら石と化した。おおむねこの3つだな」
「……知りませんでした」
「で…だ。この殺生石は、とある僧侶によって砕かれ、玉藻前は成仏した。」
「砕かれた!?」
僕は思わず目をむいておうむ返しに問う。
「ああ。殺生石を砕いて玉藻前を供養して救済した僧侶は、能や玉藻の草紙、絵本三国妖婦伝などでは玄翁和尚と書かれているが、栃木県の喰初寺に伝わる話では、日蓮上人が成仏させたと言われている。その後、玉藻前は神として祀られるようになった。各地に飛散したとされる殺生石も含めてだ。玉藻前を祀った神社は、そうだな……。栃木の玉藻稲荷神社や九尾稲荷神社、岡山の化生寺の鎮守社である玉雲宮などだ。そういえば、先ほど言った喰初寺の境内にも、九尾稲荷神社があるな。他にもあるのかもしれないが」
「神として…妖怪なのにですか?」
信じられない思いで僕は口をはさんでしまうが、先輩は気を悪くした様子もなく、
流れるような説明はなおも続く。
「何を言っている。世の中には鬼を祀っている神社もあるし、鵺を祀った社もあるんだぞ」
「鵺…ああ、あのキメラみたいな妖怪の?」
「そうだ。まあ、とにかく和尚に成仏させてもらって神として祀られているんだ。今更復活なんて、近代のエンターテインメント作品みたいなことは無いよ」
「……そういえば、漫画やアニメではどうしてそんなこと描かれていないんでしょうか?」
「話を作りづらいからじゃないかな。大抵悪役として出てくるからね」
そう言って、先輩はふうと息をついてそばに置いてあったレモンティーを飲む。
形のいい朱唇がごくりごくりと、勢いよく琥珀色の液体を飲む様子を眺めつつ、僕は問うてみた。
「それで先輩は、あんなに怒っていたんですか?」
「違うよ。それだけなら、あんなに腹は立たなかったさ」
そう言って、先輩はパソコンを操作した後に画面を僕に見せる。どうやら、殺生石に関するSNSの書き込みも調べていたらしい。
書き込みは、僕のように九尾の狐の復活するのかと勘違いしたものも多かったが、中には……
「戦争を始めたあの国の大統領が、九尾の狐に……。ああ、そういえば玉藻の前って権力者の男をたぶらかして…とかいう話がありますもんね。そういえば今の状況って」
「君までそんなバカなこと言うのはやめてくれ」
先輩が、冷ややかな怒気を含んだ低い声で僕の声を遮る。
「……え?」
「私はね、現実とフィクションを切り分けて考えることもできずに、こういう不謹慎な妄想を垂れ流す人間は嫌なんだ」
「不謹慎…ですか?」
「そうは思わないのか?君は?」
問われて言葉に詰まる。
ふと脳裏に、家を出る前に見たニュースの映像が浮かぶ。
戦火に焼かれ、無残に破壊された街並み。慣れ親しんだ街から離れて、避難する人々の沈んだ表情。
――生々しい、戦争の映像を。
「自分に直接被害の及ばない遠い国の戦争は、妄想の種にして、面白おかしく楽しんでいいことだと思っているのかい?」
「……いえ、すみません。確かに不謹慎でした」
今のあの戦争も、九尾の狐が引き起こしたものかもしれない。
フィクションを絡めた幼稚で安直な想像をして、一瞬でも面白いと思ってしまった自分を恥じた。
僕が思わず顔を俯けながら詫びると、先輩が慌てたように手を振った。
「いや、私の方こそなんだか偉そうなことを言って悪かった。ちょうどレモンティーがなくなったことだし、何か買ってくるよ。何がいい?」
「あ…じゃあ、コーヒーを」
わかった、と立ち上がり部室を去っていく先輩のほっそりとした背中を見送りつつ、僕は自分に言い聞かせる。
――物語は、あくまで物語なんだと。
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