第3話

 カウンターの中央の席でめいめいにスマートフォンを弄ったりグラスを傾けたりしていたふたりのうちひとりが、やおら顔を上げる。

「うちらこれからカラオケでオールするけど、ルミナも来ない?」

「あ、いいね、それ」

 もうひとりも顔を上げ、彼女らが上機嫌に笑いあうのに苦笑を返す。

「アフターでしょ? 俺が行ったら気まずいって」

「むしろ、ホストよりルミナと一緒がいいんだけど」

 彼女らにとっては、贔屓のキャストも目の前のバーテンダーも似たような存在意義なのだろうと、その言い草にやはり笑ってしまう。

「無理。待ってる子いるから」

「猫、死んだって言ってたじゃん」

「新しい子がいるの」

「どんな子?」

「毛並みは悪いけど、人懐っこいよ」

「また保護猫なの?」

「似たようなもんかな」

「じゃあ写真見せてよ」

「だめ。また勝手にID追加しようとするでしょ」

「ひどおい」

 むくれる彼女に「ごめんね」と口先ばかり謝罪して、ルミナは注文のマンハッタンにチェリーをふたつ刺したピンを飾り、グラスをカウンターに押し出した。

「機嫌なおして」

「うちら振っといて、それだけ?」

「猫アレルギー発症しろ」

「はは――怖ぁ」


 エムと暮らして三日が経った。

 一ヶ月と少しぶりの生き物の気配のある暮らしは、それまでの喪失感を改めて思い出させるようであり、何ひとつ変わらないようでもある。ルミナのいない時間に出かけている様子はなく、エムはずっと部屋にいて、何をするでもなく――掃除や洗濯をするでもなく、ただいるのだ。ルミナの横で食事をして、ルミナの横で映画を見て、ルミナの横で眠る。ピンク色の髪やピアスだらけの耳を撫でると、快げに目を細める。ムーンとの違いと言えば、世話をしなくて済むことと、エムは人間の言葉を喋ることくらいだ。

 夜が終わり朝になる頃、広いベッドの真ん中で身を寄せあって眠る。ルミナのつま先をつつくエムのつま先は、初めいつも温もりと呼ぶには少しひんやりしている。

「……あ。明日休みだから、起きなくても起こさないでね」

「はぁい」

 アラームのスヌーズを止めるのも、最後にルミナを揺り起こすのも、この三日はエムの役目だった。スマートフォンを遠ざけて伏せて目を瞑ると、ルミナの眠りを邪魔したいのかそれとも子守歌のつもりなのか、小声で他愛もないことを話しだす。

「もうすぐクリスマスだね」

「んー」

「子供の頃は好きだったな」

「欲しいもんもらえるの、誕生日とクリスマスくらいだしね」

「違うよ」

 くすくす、間近で微笑の気配がする。

「違うの?」

「うーん……全部違うってわけじゃないけど。子供の頃の思い出って、いい思い出が多いからかな」

「思い出補正ってやつ」

「それそれ」

「黒服やってた時さ」

「ルミナくんが?」

「うん」

「似合う」

「クリスマスは地獄だったわ」

「わぁ」

 また、くすくす、気配がする。

 薄い背中を抱き寄せてやると、たぶん、快げに目を細めるのだと思う。それから、どちらからともなく欠伸をして、そのうちに話も途切れる。そうして、寝息か吐息か深い息遣いをぼんやり感じながら、どちらのものともつかない鼓動をカウントしながら、いつの間にか眠りに落ちるのだった。


 昼過ぎに起きだして、しばらくごろごろしたあと、ふと訪れた気分のままエスニック料理をデリバリーした。パクチーのサラダとグリーンカレー、同じものでいいと言ったエムを追及して聞き出したパッタイで遅い昼食を摂り、さて出かけようかこのまま一日ごろごろしようかと考えていた時だ。スマートフォンから短い着信音が鳴る。

『今から行くね♡』

 通知画面に現れたのは、たった一行のふざけたメッセージ。お互いにそれでじゅうぶんだった。

「エム」

 タブレットの中の映画から目を上げたエムが返事をするより早く、インターホンが鳴る。予告の意味さえなかったメッセージに呆れながら、ルミナはソファを降りて玄関のドアを開けた。

「よ」

 眼前には、上等のスーツとコートに身を包んだ、三十絡みのいかにもやり手のビジネスマン然とした男が立っている。その食えない笑顔――いや人を食った笑顔に、ルミナもまた笑い返した。

「ドアの前から送ってきたんですか?」

「いや、エントランスから」

 彼の手がルミナの頬に伸び、引き寄せられるまま唇を合わせる。煙草とミントタブレットの混じった味わいのキスを終えると、ハヤシはルミナの肩越しにエムを認めて言った。

「お。きみ誰?」

「エムです」

「かわいいね」

「どーも」

「3Pする?」

「いいの?」

「……よくねえ」

 ルミナを挟んで勝手に話を進めるふたりに割って入ると、エムが両側の口角をきゅっと上げ、唇の隙間から歯を覗かせる。

「3Pでもいいのに」

「なあ、いいのに」

 初対面だというのに、ずいぶん馬が合うものだ。うんざりと首を振り、シューズボックスの上に手を伸ばす。エントランスの玄関のキーと、財布の中からカードを一枚取り出して、エムへ手渡す。

「エム、しばらく外で時間潰してきてくれる?」

 押しつけられたアイテムに少し戸惑ったように、エムが上目遣いを寄越す。

「でも」

「いーよ、俺んだから、それ」

 カードの名義人がにやりと笑って言うが、それでもまだ戸惑ったようにルミナを見る。

「戻ってきていいの?」

「戻ってこないなら、それ返して?」

 彼の瞳の色が少し変わったのは、きっと今、自分が彼を傷つけたからだと思う。ルミナはピンク色の頭に手を伸ばし、軽く撫でた。

「いいよ、戻っといで」

 玄関の外にエムが消え、傍らのハヤシを見下ろす。彼も同じように、エムを横目で見送っていたらしい。

「……今、ここに住まわせてます」

「ふうん。どこで拾ったの」

「うちの店」

「お前、すーぐ持って帰ってきちゃうね」

「人聞き悪いこと言わないでください」

 鉢植えや保護猫はともかく人間は初めてだったが、プランターが増えた時も大きな水槽と熱帯魚を見た時も猫を飼いだした時も、ハヤシは気にしたふうもなくこう言ったのだった。

「いいよ、好きにしな」

「はい」

 再び頬を引き寄せられ、唇を塞がれる。今度はぬるりと舌が挿し込まれ、音を立ててキスをしながら、彼の上等なコート、背広と、順番に脱がせて寝室へ入る。

 彼に買い与えられた広いベッドの縁に腰かけ、跪いた彼の鼻先へ足を差し出す。

「召し上がれ」

 ハヤシはうっとりと笑うと、ルミナの右足を押し抱き、足の裏をべろりと舐め上げた。

 彼はルミナの働くバー「ブルーム」のオーナーであり、ほかにいくつもの店を経営している。自分が知っているのは、彼が身を置く組織の名前と、おそらく多くの幹部がそうであるように彼にも海の向こうの氏名があること、あとは本気とも冗談ともつかない掴みどころのない性格や、セックスの癖くらいだ。

 ルミナの足を指一本ずつ味わい尽くすと、次に股座に唇を押しつけて乞うので、取り出したそれで彼の頬を叩いてやる。

「上手にしてね」

 ひと息に喉の奥まで押し込みながら命ずるルミナに、えずくような苦しげな声で返事をするから、きっちり撫でつけた髪をかき混ぜて愛撫する。

「こら……悪い子」

 自らの下着に触れようとする彼を叱り、その手を後ろ手に縛る。そうすると、彼の下着が高く持ち上がり、先端に濃い染みが滲む。彼の口の中で唾液と先走りが混じり泡立って、嫌な音が立っている。

 セックスは嫌いだが、刺激されれば勃起するし、面倒な射精も自分で促すより他人に任せたほうが手間がなくていいと思う。昔はそうじゃなかった。気持ちいいことが好きで、気が合えば誰とでも寝ていたし、それが楽しかった。変わってしまった自分が嫌だ。自分を変えたあの夜が憎い。あの下卑た笑いに、苦痛に、いつまでも囚われたまま終われないでいる。

「ルミナぁ……」

 ハヤシをベッドに転がし、高々と差し出される彼の尻の谷間に、彼が懸命に高めたそれを滑らせる。たくし上げたワイシャツの裾から覗く彼の背中から尻にかけては、墨一色で吉祥天が彫られている。

「ハヤシさん、これ、欲しい?」

「うん……ほしい」

「うん、じゃなくて、はい、でしょ? どうしておぼえないの?」

 強かに尻を叩いてやると、甘く喚いて背筋を悶えさせ、シーツにわずかに粗相をする。

「誰がイッていいって言った?」

 荒く息をするだけのハヤシに、予告なくねじ込む。一際甲高く喘いだ彼の腰を掴み、乱暴に揺さぶると、また喘ぐ。自分の息も徐々に上がり、じっとりと汗が滲む感覚がある。

 彼の経営するキャバクラで黒服をやっていた時に見込まれて、そのまま彼の愛人になった。彼の望むように振る舞うと、才能があると喜ばれた。

「あっ、あっ、ルミナっ、もっ――」

「まだだめだよ、ほら、がんばって」

 うららかな午後の太陽が差し込む寝室で、愛人の口に指を突っ込んで責め、髪を引っ張り、尻を何度も叩き、腰を振る。

 嗚咽の間から訴え続ける彼を、最後の最後、いいよ、と許す。きつく締めつけられる感覚に歯を食いしばり、ルミナもまた射精した。


 ヘッドボードの灰皿とライターは、ハヤシが訪ねてきた時のための物だ。

 どっぷり日が暮れるまで愛人との痴態に興じた彼が、真っ裸のまま寝煙草を決め込みながら満悦そうに煙を噴き上げる。

「なあ、あの、エムっての」

 膝枕を貸しながら、手慰みにすっかりセットの崩れた彼の髪を撫でていたが、思いもよらず彼の口から出た名前にその手が止まる。

「捕まえとけよ。今度3Pしようぜ」

 言い終えるや否や、ハヤシは煙と一緒に大きく失笑の息を吐き出した。

「そんな嫌そうな顔する?」

 まだ諦めていなかったのかと呆れたのが、顔に出ていたらしい。

「お前、潔癖だもんなあ」

 ハヤシはやはりにやにやと笑うと、億劫そうに身体を起こした。

 彼の言葉が本気であれ冗談であれ、もし彼がそれを望めば、自分に拒否権はない。彼にとって自分が若く美しく従順であるうちは、家にも仕事にも困らずに生きていける――簡単な話だった。

「何か作ります?」

「適当に頼むわ」

「どんな気分?」

「最高に気持ちよかった」

「はは、ありがと。ほかには?」

「んー……目が覚めるやつ」

 眉間を揉む彼に頷いて、ルミナはベッドを降りた。

 家には大した酒も置いていないから、ウィスキーと炭酸水でハイボールを二杯作り、寝室に戻る。ハヤシは受け取ったグラスを傾けて喉を鳴らすと、浅くため息をついた。

「お疲れですね」

のディーラーが死んでさぁ」

 寝物語にこういう話を聞くのも、すっかり慣れたと思う。「ブルーム」だけでなく以前いたキャバクラでも店内こそハーブやそれらの類いは御法度だったが、彼らのビジネスの真っ当でない部分の一角を占めているのだろうことは簡単にわかる。

「見つかったのは昨晩……死後一週間くらい経ってたらしい。で、一緒にいた、愛人だか恋人だかが消えた」

「……殺されたんですか?」

「変死って聞いてるけどね。死んだか殺されたかは、ま、どうでもいいんだよ。そいつの顧客リストやら商品の保管場所やらを巡って、あっちこっちで大捜索なの。とっとと正常化しないと客も流れてくし、警察も動いてる。何より金になる。だから、その消えたイロが知ってんじゃねーかって――持ち逃げしてんじゃねーかって、まあ、みんな思うよな」

 カラン、傾いたグラスの中で氷が音を立てるのを聞きながら、ルミナもハイボールを流し込む。ピリピリと口内が痺れるような、炭酸のきつい銘柄だ。

「秘密主義の男でさ。そこがよかったんだけど――私生活知ってるやつが、ほとんどいねーの。お前も、なんかわかったら教えて」

 ハイボールの飲み方さえどこか洗練された、いかにもやり手のビジネスマン然とした男だが。こんな時、微笑の隙間から一瞬見せる凄味が、彼が決してそんな平凡な人間でないことを伝えてくる。

「はい」

 エムの顔が頭をよぎる。人を殺したと、抱えた膝に鼻先を埋めて、眠そうに、舌足らずに呟いた。記憶喪失といい、ぞんざいな冗談を言うものだと思ったし、今だってそんなフィクションみたいな偶然の一致を予感しているわけではないけど。

 鷹揚に頷いたハヤシがどこかへ電話をかけながら、ベッドを降りる。

「帰るんですか?」

「久々に、お前んとこでゆっくりできると思ってたんだけどね」

 電話の相手は運転手なのだろう、短くひと言告げてすぐに切る彼の、真っ赤に腫れ上がった尻にキスをする。

「冷てーなぁ」

 ハイボールで冷えた唇には、彼の火照った皮膚が熱いくらいだ。

「もうちょっと虐めてあげればよかったね」

「お前はいつも最高だよ」

 ハヤシが機嫌良くルミナにキスをして寝室を出ていくと、やがて、風呂場からシャワーの水音が聞こえ始める。

 身仕舞いを終えたハヤシを玄関まで見送り、グラスに残った氷をシンクにこぼして、まだ湯気の残る風呂場でシャワーを浴びた。ベッドのシーツを剥がして洗濯機に突っ込み、充満する煙草とセックスのにおいを窓を開けて逃がし、心地よいというには少し冷たすぎる排ガス混じりの夜風にしばらく吹かれていたが、くしゃみがひとつ出たところで窓を閉める。

 街の音としか言えない雑音が消え、しんと静まり返る。

 新しいシーツの上でごろりと寝返りを打ち、気怠さに任せて目を瞑る。

 そのままうとうととし、目が覚めると真夜中だった。

 その夜、エムは帰らなかった。

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