第32話 クリスと二人で応接室(2)
「リッド様、取り乱してすいませんでした……」
クリスの声はもう震えていない。
彼女にもここまで来るのに様々な苦労があったのだろう。
それが、実家のサフロン商会でも成し遂げることが出来なかった皇族への販売ルート開拓など、話しているうちに色々思い出して感極まったのだろう。
「いやいや、大丈夫だよ。クリスのいつもと違う可愛い姿を見ることが出来たしね」
「なっ……⁉」
クリスは少し落ち込んだ様子を見られたのが恥ずかしかったのか、顔が赤い。
泣くことは誰でもあるから気にしなくていいのに。
そう思っていると、応接室のドアがノックされる。
返事をすると「失礼します」とメイドが入室する。
頼んでいた紅茶のお代わりを持ってきてくれた。
カップごと交換すると彼女は応接室を退室した。
その間にクリスの顔の赤さは引いていた。
僕は咳払いをすると、話の続きを開始した。
「ローラン伯爵の件は今後も帝都を含めて様子見でいいかな?」
「はい。今回の件でローラン伯爵は帝都で立場を失っています。ローラン派と言いましょうか。彼らは利権や甘い汁を吸いたい連中ですが当分強く出ることはできないでしょう」
「ローラン派……はは、父上が険しい顔をしそうな派閥だ」
僕はクリスの命名派閥に笑ってしまった。
「次は、皇后陛下の納品優先契約……か」
まさか、皇后陛下が化粧水とリンスをここまで囲い込みに来るとは思わなかった。
「これ、1カ月分を毎月納品するってことだよね? 数量的に大丈夫? リンスの原料となる精油は父上にお願いすれば良いと思うけど、アロエ栽培が始まったばかりだよね?」
リンスを作る際に必要な精油はオリーブから取れる。
だから、父上に話を通せば数量は確保できるだろう。
だが問題はアロエだ。
あれは栽培が始まったばかりで原料がまだ少ない。
本来であれば小出しの予定だったのだ。
「ふふ、それについては事前に対策しております。」
クリスは顔に不敵な笑みを浮かべていた。
彼女は詳しい説明をしてくれた。
アロエに関してはまだ栽培ではまかなえない。
そこで、彼女は自分の商会とサフロン商会の商流をフル活用して、アロエ栽培をしてくれる農家を探して、一定以上の価格で毎月買い取る定期契約。
ほかにも、野生に生えているアロエを各国の冒険者ギルドに収穫を依頼。
他にも様々な方法でアロエを買い漁っているという。
「恐ろしく手が早いね……本当にクリスは頼りになるよ」
「アロエは今後、市場価値が跳ね上がるでしょうから、今のうちに買い占めますよ。あと、出来るところは可能な限り最長期間で定期契約をしています。金額の見直しは必要になるでしょうが、物さえあれば商品は作れますから」
このことがわかっていて先回りしていたということか、商魂逞しすぎる。
「ただ、それでもしばらくは皇后陛下に納品する分で手一杯になりそうで、市場に出回るのは少なくなりそうです」
「そっか。でも、クリスは広告塔でもあるから、皇后陛下の次に優先して数量確保してね。クリスほどの美人は滅多にいないから絶対、皆欲しがるよ」
「……‼ リッド様はご自分の発言をもう少し考えたほうが良いかと……」
クリスは急に顔を真っ赤にして俯いてしまった。
どうしたのだろう?
「うん? 考えているよ? クリスは滅多にいない美人だから、リンスや化粧水を使えばより綺麗になるでしょ? そんなクリスに誰でもなりたいって絶対思うよ」
「うう…そうですね。私やバルディア家の皆さんで欲しい方は優先するように致します……」
まだクリスの顔は赤いままだ。
「クリス大丈夫? まだ疲れが取れてない?」
「い、いえ‼ だ、大丈夫です。えーと、それより、そう‼ 少しの間、皇后陛下と私達の分のみで市場分が滞りそうとお伝えした件ですけど」
僕の言葉を聞いてクリスが強引に次の話題に移動した。
本人も大丈夫って言っているからいいかな?
「うん。市場分は残念だけどしょうがないね。原料確保が出来次第だね」
「そうですね。でも、皇后陛下だけがしばらく使った商品が、市場に通常通り出回るとなればかなりの人気になります。価格設定を多少上げてもいけるかもしれません。怪我の功名になりそうですね」
確かに、人と言うのは不思議なもので、手に入らない物を手に入れたくなる。
皇后陛下だけが愛用出来ていた商品が市場に出回ればさぞかし人気が出そうだ。
だが、クリスの考えはまだ先を進んでいた。
「アロエ化粧水と言っていますが、これも品名を変えましょう。マグノリアでは原料が一部の貴族に知られましたが他国にはまだ伝わっていません。品名を変えれば、帝都以外では原料はわからないと思いますから」
すごい、まだ原料が足りない状況なのにもう他国への展開を考えている。
本当の商売人っていうのは常に次を見ているのだなと感心してしまった。
だけど、商品名か。
その時、思いついた。
「……化粧水名はクリスティでいこう」
「へ?」
僕が出した商品名を聞いてクリスが珍しくとぼけた声を出す。
「リ、リッド様⁉ なんでよりよって、私の名前を⁉ 皇后陛下のお名前を頂戴すればいいじゃないですか‼」
彼女は自分の名前が使われるとは思わなかったのだろう。
顔を真っ赤にしてすごい剣幕で拒否してきた。
でも譲るつもりはない。
「それはクリスティ商会が売り出す商品だし、広告塔になるクリスの美貌もあるから絶対インパクトあるよ。それに、クリスティ商会の名前も広がるしね」
「で、ですが……」
クリスはまさか自分の名前が商品名になるなんて思ってもみなかった。
商品名変更については自分が言い出したことなので引くに引けない。
それに、リッドが言っていることもあながち間違っていない。
恐らくこの商品は、世界中に広がるだろう。
その商品名が商会の名前であれば、自動的に世界中にクリスティ商会の名前が広がるはずだ。
おそらく実家のサフロン商会より。
当然、名前が売れればクリスティ商会と取引したい顧客が現れる。
こちらから取引を持ち掛けるのも有利に進められる。
考えれば考えるほど、メリットが大きい。
デメリットがあるとすれば自分の名前があちこちから聞こえてくるようになるぐらいか。
クリスが悩んでいるとリッドが鶴の一声をあげる。
「皇后陛下の名前は恐れ多くて使えないからね。化粧水名はクリスティで決定ね」
「うう…… 承知…しました」
クリスはがっくりと項垂れる。だが、衝撃はまだ終わらない。
「次はリンス名ね」
「へ…?」
「化粧水名だけ「クリスティ」でリンスも名前を考えないとね」
「ちょっと待ってください。化粧水はわかりますが、リンスはリンスでいいのでは?」
リッドはクリスの質問に少し首を傾げたあと「ああ‼」と声をだした。
「そうか。言ってなかったかもしれないね。リンスっていうのはあくまで、品目っていうのかな? 商品全体の事になるから、今後の為にも「化粧水 クリスティ」みたいに名前を付けないとね」
「……それは、初耳です。リンスという言葉は商品その物ではなく、品目なのですか?」
クリスはリッドの言っている意味がよくわからなかった。
品目とは品物の種類を表す言葉だ。
現状、この世界にはオリーブで作ったリンスしかないのに、リンスが品目とはどういうことだろうか?
リッドはクリスが怪訝な顔をしていたことに気付き「あ~」と少し間の抜けた声を出してからクリスに説明した。
「リンスってさ、別にオリーブの精油じゃなくても作れるから、今後は研究して色んな種類が作れるよ。」
「へ? ……ええ‼」
クリスは驚愕した。
オリーブの精油でなくても作れる。
つまり、リンスの基本的な作り方はオリーブリンスと一緒で精油さえ変えればまた違う香りや効果があるものが作れる。
だから、リッドの言っていた「リンスは品目で名前じゃない」ということになる。
つまり、販売と並行して商品開発を続ける。
そして、高品質なリンスを作り販売を続ければ、このリンスと言う品目については常に世界のトップを走ることも可能だ。
つまり自分たちは商会ではなく工房。
作って売る立場にもなったということだ。
しかもまったく新しい市場が作られる世界で。
クリスが驚愕しているとリッドはさらに付け加える。
「言っておくけど、化粧水もリンスと同じで品目だからね?」
「……リッド様は本当に常識では測れませんね……」
「へ?」
リンスだけでなく化粧水も同様に商品開発と販売を平行すれば、常に売り続けることが出来る。
末恐ろしい商品もあったものだと、クリスは改めて化粧水とリンスの可能性に慄いた。
「……リンスと化粧水が品目ということは理解できました。クリスティ商会で新たなリンスと化粧水を開発する工房も検討しないといけませんね」
「うん、よろしくお願いするね。それで、リンスの名前だけどクリスを手伝ってくれたエマの名前を入れて、「リンス・クリスティ・エマ」でどう? 新商品が出来た時は「エマ」の部分を変更すれば良いと思う」
リッドはにこにこ顔でクリスに思いついた商品名を伝えた。
クリスはもはや諦め顔である。
(エマ、ごめんね)と心の中で呟き、首を縦に振った。
こうしてこの世界に新たな商品が誕生した。
「化粧水・クリスティ」と「リンス・クリスティ・エマ」この二つの商品は数年で世界中の女性達を虜にするのだが、それはまた別のお話。
応接室でリッドとクリスが話し合いをして大分時間がたった。
それだけ、帝都でやりとりした情報は多いのだ。
「あとは、納品が来月からになりますので、今月中には契約に基づいて帝都よりマチルダ様の名義でクリスティ商会に入金がありますが、リッド様の分の金額はいかが致しましょうか」
「うーん、その分はクリスティ商会の中で僕名義にして保管は可能かな? 多分、今後も色々お願いすると思うから」
半分本当で半分嘘だ。
恐らく今後も何かしら頼むことは多い、だからクリスティ商会で預かっておいてもらったほうが良い。
あとの半分は将来の為の保険だ。
まだまだ、僕の将来はどうなるかわからない。
「わかりました。通常であればお受けしませんけど、リッド様は特別ですからね」
クリスは苦笑しながら、僕の無理を了承してくれた。
ただ、金額が多くなりすぎた時は相談させてほしいとだけ言われた。
すべての話し合いが終わり、ようやく認識の擦り合わせと確認が終わった。
その時、あともう一個伝えないといけないことを思い出した。
「そういえば、クリスはレナルーテと取引したことある?」
「レナルーテですか? あそこは他国からの商会にはかなり厳しいので、取引はほぼないですね。それがどうかしたのですか?」
僕はクリスに婚姻などのことは伏せて、近々レナルーテに行くのでその時に商流を作りたいことを伝えた。
「わかりました。準備はしておきますので、日程が決まり次第教えて下さい」
「ありがとう。また連絡するね」
彼女さえいれば必ずレナルーテと商流が作れる。
そうすればまた出来ることが広がるはずだ。
僕は期待に心を躍らせた。
「ふぅ、大体こんな感じかな」
「そうですね。私も必要なことはご報告出来たと思います。あと、皇后陛下と直接取引が出来るようになりましたので、リッド様も必要なことがありましたら私を通して皇后陛下にご連絡できますよ」
クリスは苦笑しながらいつでも手紙を送れると言うが、リッドは恐々としながら返事をする。
「皇后陛下ね、クリスが寝言でうなされるほどの相手だから、よほどのことがない限りはお近づきになりたくないなぁ」
僕は昨日のクリスの様子を思い出していた。
あれだけ、うなされるなんて、よっぽどの相手に違いない。
僕は腕をくみ、目を閉じながら「うんうん」と首を縦に振った。
その様子を見ていたクリスは、リッドの言葉にある違和感を抱き、怪訝で険悪な表情をして、鋭く指摘する。
「……リッド様、どうして私が寝言で皇后陛下のことを言ったとご存じなのですか……?」
「え? それは、クリスが寝ているときに……あ」
その瞬間、クリスの顔がにっこり笑顔になる。
だが、メルや母上と同じように「オォォ……」とどす黒いオーラが膨れ上がっていく。
笑顔だが目は怒りに満ち満ちている。
「バチッ」と音がしたかと思うと、彼女の髪を止めていた髪留めが外れた。
クリスの髪が怒りに呼応するよう、逆立って広がり宙に漂っている。
怒りの姿は、今まで見た女性の中で一番怖いと思う。
「ク、クリス? わ、わざとじゃない……つい悪戯心で…」
ちゃんと説明すればクリスはわかってくれたかも知れない。
だが、気圧された僕は、もはや自分が何を言っているのか理解をしていなかった。
「ふふふ…認めるのですね?」
「うぅ…み、認めます」
僕が「認めます」と言った時から、クリスの目から光が消えて彼女は俯いて震えていた。
「ク、クリス?」
僕が声をかけたその時、クリスは顔を真っ赤にして僕を睨んだ。
そして、怒りと恥ずかしさが混じった様子で言った。
「女性の寝顔を、こっそり覗き見るなんて最低です‼」
僕に吐き捨てるように言うとクリスは勢いよくその場で立ち上がった。
その勢いが机に伝わり、机の上に置いてあったティーカップがこぼれて僕の服を濡らした。
クリスはその勢いのまま顔を真っ赤にして応接室を後にした。
「……クリスに悪いことしたな」
僕は暫し呆然としてクリスが出て行ったドアを眺めていた。
そして、我に返ると紅茶で濡れてしまった服に気付いた。
「これ、どうしよう。ダナエに着替えをお願いしようかな……」
僕はすぐに応接室の中からダナエを指定してタオルと着替えを頼んだ。
応接室に来たダナエは僕の姿を見ると「……何があったのですか?」と怪訝な表情を浮かべた。
「クリスにね……この間の悪戯がバレてちょっと……ね」と伝えたらダナエはサーっと冷めたい顔になった。
ダナエはタオルを僕に渡しながら冷たい笑顔で呟いた。
「リッド様、因果応報ですね」
ちょっと泣きそうだった……
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