さよなら血塗れマリィ

たぴ岡

死にたい私と死の天使

 死にたい。これが最近の口癖で、どうせ死ぬ勇気なんてないくせに、心の中ではずっとそれを魔法の呪文みたいに唱えている。詠唱することで私の存在が消えてなくなって、それで誰にも気付かれずに死ぬことができるんだ、なんて本気で信じているみたいに。

 けれど本当に死ぬのなら、誰にも迷惑のかからないやり方が良い。

 例えば首吊りなんかは上手くいけば首の骨が折れて苦しまずに死ねるらしいけれど、その後の処理が大変だと聞いた。飛び降りなんかは高さを見誤れば中途半端に生き延びてしまうし、誰か知らない人にぶつかって殺してしまう可能性だってある。電車や車なんかに飛び込むのはもってのほか。一番悪い自殺の仕方だと思う。誰だって人身事故で電車が止まったと聞いて良い気分にはならないし、加害者になんてなりたくないだろうし。だからもっと別の、もっとひとりきりでできる死に方を探していた。


 それでも私がそれを本気で見つけようとしていないのは、想いを寄せる先輩がいるからだろうと確信していた。大学のサークルで出会った、かっこいいあの先輩。今は私の家の近くに住んでいるらしく、大手企業に勤めているらしいあの人。

 大学時代、私は友人を作るためにテキトーなサークルに入った。「ボードゲームサークル」なんて名ばかりで、ふたを開けてみればいわゆる飲みサー。入ってすぐに新入生歓迎会として連れていかれたカラオケは、何も歌わず何も飲まずに隅っこで縮こまっていた。そんなとき、声をかけてくれたのがその甘利あまり先輩だった。


「私も、こういう空気苦手なんだよね。まりちゃん、一緒に出て行かない?」


 たぶんあのときから、あの瞬間から私は、甘利先輩のことが好きだった。

 けれど、それでも社会に馴染めない私はずっと死にたいまま。今日もパワハラの塊みたいな上司の愚痴を延々と聞かされて、使えない後輩の分の仕事もこなして、それでもミスを見つけた上司に怒鳴りつけられて、あいつらのせいなのに後輩たちに嘲笑われて。もうほとんど限界だった。

 だから、今日も死ぬ前にやりたいことをやる。甘利先輩の背中を見て、癒やされる。スタイリッシュな仕事服を見つめて、笑みを浮かべる。家まで帰って行く甘利先輩を、愛おしく眺める。首から提げたカメラで、甘利先輩の姿を捉える。

 これが良くないことなんて知りたくない。どうだっていい。死ぬ前に一番見たいのは甘利先輩の美しい姿だから。


 今日は金曜日、一週間の仕事を終えた甘利先輩は溢れる疲労感を背中に漂わせていて、一層美しい。が、しかし、いつもとは違う道を歩むことに気付いて何となく恐怖が身体に張り付く。

 誰かと待ち合わせでもするのだろうか、まさか恋人? けれど甘利先輩はそれくらいに足取りが軽い。そんな人がいるなら、私は本格的に死ぬしかなくなる。どうせ死ねないのだろうけれど。

 何故だろう、とても胸がざわざわする。嫌な予感とは違うし、嬉しいことが起きそうな楽しい感じとも違う。けれど、今までの私と甘利先輩の関係が崩れて、新しくなるような気がする。

 甘利先輩は人通りの「ひ」の字もない山奥のトンネル前で、リュックから取り出した白衣を身にまとった。その姿は天使のようで、同じ人間とは思えないくらい、信じられないくらい神々しかった。

 暗い闇が口を開けているその中へとゆっくり入っていく甘利先輩。私は思わず、止めていた足をトンネルへ向けて再び動かし始めた。

 何か密やかな話し声が聞こえる。甘利先輩のものと、別の、知らない女の声。一定の間隔でついている照明は、壊れているのか、ほとんど光をもたらすことはない。だから声以外で判断することができない。目を凝らして白衣と向かい合っている女のことを見ようとする。

 目が暗闇に慣れ始めた頃、甲高い悲鳴がトンネルの中に響いた。ドサッと人の倒れる音も続いて、それから甘利先輩はしゃがみ込んで愛おしそうにそれに触れる。唇を重ねて、その頬についた血を舐め取る。


「まりちゃん、どう思う?」


 甘利先輩はこちらを向くことなく、私に問いかけた。

 足が震えて、その場から動くことができない。腰が抜けていないだけ良いのかもしれない。呼吸も上手くできない。吸うばかりで吐けない。

 力の入らない手を無理矢理上げて、カメラのシャッターを切る。

「あははっ、今写真撮るなんて、君はバカなのかな」ナイフについた血液を白衣で拭き取りながら、私に向かって甘利先輩は微笑む。「今から君は私に殺されるんだよ?」

「……あまり、せんぱい」

「どうしたの、まりちゃん?」


 コツコツ、ヒールの音を鳴らしながら甘利先輩はこちらに近付いてくる。

 月明かりが、タイトスカートから覗く甘利先輩の白い脚を照らす。何の色もなかった白衣に、頬に、眼鏡のレンズに、紅が散っている。何にも染まらない黒いストレートの長髪には天使の輪がきらめき、その微笑びしょうはほとんど天使のよう。このまま背中から翼を広げて、飛び去ってしまうのではないかとすら思わされる。


 それはまるで、死の天使――。


「綺麗、美しい、神々しい……こんな言葉じゃ表し切れない……」

 私の呟きは聞こえなかったのか、甘利先輩はゆっくりゆっくり私の方へと歩み寄ってくる。

「まりちゃんは、私が殺人鬼だって知ってどう思った? ほら、最近有名でしょ。『美女連続殺人事件』ってやつ」

 やっと動かせるようになった足で、甘利先輩に向かって歩き出す。

 一瞬、天使の微笑みが苛立たしげに歪んだ。


「私のやり方に反するんだけど、見られたからにはまりちゃんも生きて帰せないんだよね」


 私は嬉しくてたまらなかった。凶器を握ったままのその右手を両手で包んで。

「甘利先輩、私のこと殺して。あなたに殺されたい」

 包んだそのナイフを、自分の腹めがけて――。


 あるはずの痛みが全くない。代わりにあったのは、柔らかな感触と広がる幸福感。

 視界が甘利先輩の顔で埋め尽くされている。美しいそのお顔で。それでやっと、私は甘利先輩とキスをしているのだと気付いた。怖くなるくらい、温かな幸せが心の中に染みこんで行く。


「君、本当に私のこと好きなんだね」言いながら甘利先輩はナイフを背後に投げ捨てた。

「えっと、その」

「大丈夫だよ、君が私のストーキングしてるなんて誰にも言わないし」

「……え」

「気付いてない訳ないでしょ、こんな大胆なストーカー。尾行され始めた日のことも覚えてるよ。私が大学卒業してから、だよね?」


 黙り込んでしまった私の顎を捕まえて、甘利先輩はそれをクイと上げる。甘利先輩の黒々と美しく輝く瞳に吸い込まれてしまいそうだった。と思えば、ふいと捨てるように私から手を離した。

 一瞬見えた笑みは、どういう意味なのだろう。


「やっぱりやめた」

「え?」

「君を殺すのは面白くなさそうだし」

「え、ちょっと。殺しておかないと、私、誰に言うかもしれないんですよ?」

「いや、言わないね」

 振り向いた甘利先輩の瞳は、暗闇に光る猫の目のようで。


「君は、死ぬほど私のことが好きだから、私を殺すようなことはしないんだよ」


 トンネルの奥に消えていく甘利先輩。肩越しに見せたウインクは、私を黙らせるには十分すぎるものだった。

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