第16話 予感がすること
トトフィガロはメイドである。
寝ぼけて左右違う靴下を履いていたことに、寝る直前に気付いたことが多々あるメイドである。
「起きたというよりは、眠ったというのが正しいね」
ヘイルガイルの言葉通り、背後にいた竜は、まだ半分眠りの世界に留まっているように見えた。
傾いた首に、ほぼ閉じた瞼、半開きの口、ぼさぼさで顔の半分を隠す髪。それでいて、覚束なくはあるが、その状態としては比較的しっかりとした足取りで歩いている。裸足のままだから、歩く度にぺたりと皮膚が床に引っ付く音がした。
「やあ、ディオ。おはよう」
「……」
ヘイルガイルの呼び掛けが届いたのか、ディオラルクトスはぴたりと動きを止めた。だが、それは一瞬のことで、また、振り子のように前後に倒れそうに揺れるだけで、返答はなかった。
ヘイルガイルはトトフィガロに耳打ちする。
「トト、彼の名前はディオラルクトス=ザナルトスザンタガハラ。本当はもっと長いらしいけど、長過ぎるからディオで良い。彼は他人の夢の世界で生きている竜で、普段は夢の中にいるから、なかなか会えないのだけど、彼が眠っている時だけ、現実に現れるんだよね」
「つまり、今の彼は」
「眠っているんだ。でも、不思議なことに会話が成り立つんだよね」
ディオラルクトスは伸ばしっぱなしの荒れた黒髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜると、薄らと目を開けた。光の入らないその漆黒の瞳は、焦点が定まらず、何処にも注目していない。目の前に二人がいるのも、気付いているのかどうなのか分からないくらいだ。
「おはよう。ヘイルガイルにトトフィガロ」
低く腹に響く声で、ディオラルクトスは挨拶をする。やはり、まだ寝ぼけているのか、覇気はなく、滑舌も曖昧だった。
「おはようございます。ディオはトトのことを知っていたのですか?」
「知っているとも。初めに会ったのは、確か……百十四年前だ」
トトフィガロは首を傾げる。それ程の時間を生きた覚えも、ディオラルクトスの顔にも見覚えがなかったからだ。
ディオラルクトスは一歩、近付き、その真っ黒な眼でトトフィガロの顔を覗き込んだ。
まるで、深淵でも覗いているかのような、今にも瞳の中から何かが這い出して来そうな予感がした。それは一度捕まれば、絡まって取れなくなるようなものの気がした。だが、当然の如く、そのようなことはなく、彼の目はトトフィガロのものと同じように、眼孔に嵌ったままで、割れることも飛び出すこともしない。
そこでトトフィガロは不思議に思う。その目を恐ろしく思うのに、怖いとは思わないのだ。
得体が知れなくて、意思疎通が出来るのかも分からない。なのに、こうして近寄られても、遠ざけたいとは思わない。寧ろ、親近感さえも湧いて来る。底が分からないのに、光も色も見出せないのに、そう思うことがとても不思議で、トトフィガロはディオラルクトスに興味を持った。他人に対してのはっきりとした好奇心を抱くのは初めてだった。
彼はそっと顔を離した。
「変わらない。お前はあの頃から変わらないよ、トトフィガロ。……いや、服装は変わったが。それは地上の服か?」
「はい。王女殿下がくださいました。今、着ているものはそれを模して、サンロモントが作ってくれたものです」
トトフィガロは裾を摘んで、くるりと一回転する。翻る足元で白いペチコートの裾が揺れた。
ディオラルクトスはそれには気に求めず、過去を見るように目を細めた。
「そうか、サンロモントは息災か。あの子は眠らないから、なかなか会えない」
「サンロモントは眠るのが怖いのさ」
ヘイルガイルの言葉に、トトフィガロはまた頭を傾ける。
「何故ですか?」
「眠って起きた後に、誰もいなかったら嫌だからさ。寂しがり屋なんだ。でも、そろそろ起きているのも限界だろう」
「あの子は昔から、察しの良い子だった。俺が地上で生まれたあの子と出会った時、あの子は俺が何のために来たのか、何も言われなくとも理解して、ついて来た」
「ディオは何のために行ったのですか?」
「俺は地上で生まれた竜を竜宮へ連れて来るのが役目だ。夢を通れば、何処にいようとも、その夢の主の元へ行けるから。だが、地上でもう竜は生まれなくなったから、お役御免だ」
それはトトフィガロにとって初耳だった。そして、その話で歯車が一つ嵌りそうな気がした。僅かな胸の高鳴りのまま、トトフィガロは問い掛ける。
「もしかして、トトを此処へ連れて来てくれたのも、ディオなのですか?」
トトフィガロとしては、自分の中では重要な事実確認ではあったのだが、反して、ディオラルクトスは特に感動もないまま、淡々と答える。
「そうだ。お前が生まれたのは、ある活火山の山頂付近だ。そこで死に掛けているお前を拾ったのだ」
「死に掛けていた?」
「丁度、噴火をしている最中に生まれたお前は、落ちて来た噴石に潰されたのだ。右手と右脚はその時に失ったものだ」
トトフィガロの右手と右脚は、ダンケハロンの角より削り出した義肢である。それを外せば、そこには何もない。幻肢さえもない。
意識上では、最初からないものだから、何かによって失われた可能性すらも考えたことはなかった。だが、今、事実が明らかになったことで、トトフィガロは動揺を覚えていた。
己の過去は知りたかったことだ。だから、ディオラルクトスの話はトトフィガロには望ましいものの筈だった。
だが、どうしてだろうと、トトフィガロは思う。知りたかったこと、聞きたかったことなのに、どうして聞くのが怖いと自分は感じているのだろうと。
「お前が現実の痛みに耐えかね、夢の世界へ逃げ込んだ時、俺はお前と出会った。死に掛けていたからな。お前を背に乗せ、急いで竜宮へと向かった。そして、我々はお前を新たな竜として迎えた。……覚えていないのか?」
「トトが覚えていることは、火山灰に埋まっていたことと、海の上で見た月だけで、他のことは」
「嗚呼、確かに埋まっていた。ふむ。それは……」
「まあまあ」
ディオラルクトスが何かを口にしようとしたが、ヘイルガイルがやけに明るい曲を奏でながら、話の途中に挟まる。
「そういう状況であれば、意識が朦朧していただろうし、記憶が曖昧な所や忘れている所があっても当然のことさ。そうだろう?」
その言葉にディオラルクトスも頷く。
「そういうものかもしれんな。とても弱っていたし、力も弱かったから、余計に辛かったろう。もし、お前が昔のことを知りたいと思うなら、俺に訊いても良い。分かる所だけ話そう」
「ありがとうございます、ディオ」
話が切り上げられたことに、トトフィガロは残念な気持ちと、何処かほっとする気持ちでないまぜになっていた。
この感情を読み解くには、少し落ち着く必要がある。だから、先に事実だけを覚えておこうと思った。自分を國へ連れて来たのはディオラルクトスで、自分の右手脚は噴石によって潰された。分かったのは、その二つだ。
「お前が両脚で立っているだけでも、俺には感慨深い。俺はお前を連れて来た直ぐ後に起きてしまったし、その後も夢を渡っていたから、今の今まで再会もしなかった。だから、嬉しいよ。良き手脚を得たな。材料はダンケハロンか」
「はい。伸び続ける角の一部を頂いて、サンスとカザミナルとポピュロスハロラが着けてくれたのです」
サンスはダンケハロンの角を削る係である。
彼の角はまるで骨のように白く真っ直ぐに天へと伸びる。何よりも注目すべきは、その伸びるスピードだ。
竜の角というものは、僅かずつではあるが、日々成長しているものだ。大凡、年に数ミリメートルといった所だが、ダンケハロンは一日に三十センチメートルは伸びる。
ダンケハロンは大きな頭の割に、腕が短いために、自身の頭に触れることが出来ない。だから、必然的にいつかは天井に角が刺さって動けなくなってしまうのだ。
そうならないように、人が己と他者を傷付けないために手足の爪を切るように、定期的に角を切って削る役目を負っているのが、サンスだ。切ること、削ること、抉ること、裂くこと、そういう行為を好むのが彼女の特徴だ。血を見たい訳ではなく、何か完成されているものを壊すことに喜びを見出すタイプで、普段は穏やかで艶やかな女性である。
「そうか。皆の力を借りられたのだな。良きことだ」
「ええ、有難いことです」
にぎにぎと、トトフィガロは自分の右手を開いたり閉じたりした。ラグもなく、思った通りに動くこの手は、もう随分と前から自分という意識の枠の内に収まっている。ダンケハロンの角と、カザミナルの手作りの幻想神経に、元の身体。それらを違和感なく精密に結び合わせることが出来るポピュロスハロラの技術。どれが欠けても、此処までの完成度には至らなかっただろう。
ディオラルクトスは大きく伸びをした。
「俺はそろそろ起きる」
「え、眠ったばかりなのでは」
「俺は基本起きていたい。女王陛下はもう必要ないと仰られたが、俺は仲間を探し続けたいんだ。だから、睡眠はこの程度で充分だ」
「それだけで本当に大丈夫なのかい?」
「問題ない」
「僕らは頑丈ではあるが、不滅でも不死でもない。睡眠は必要だ」
ヘイルガイルの心配に、ディオラルクトスは初めて微かに笑みを浮かべた。
「そうだ。我々は不滅ではない。永遠など何処にもありはしない。それこそが希望だろう」
「……」
その言葉に、ヘイルガイルは何か思うように黙した。そして、何かを言い返そうと口を半ば開き掛けて、やはり、閉じてしまった。
トトフィガロはその動きを不思議に思ったが、どう指摘したものか分からず、何も言えなかった。
「それではな。ヘイルガイル、トトフィガロ。久しぶりに話せて良かった。次は夢の中ででも会おう。それでは、おやすみ」
先程まで眠たげだった眼がぱちりと開くと、途端にディオラルクトスの体は透き通っていき、次第に朝日にかき消される幽霊のように消えていった。その跡には何も残らず、まるで、最初から其処にいなかったかのようだった。
ディオラルクトスは再会の言葉を示した。だが、トトフィガロは何だか無性に寂しい気持ちを覚えた。
「おやすみ、ディオラルクトス。……おやすみ」
憂いた表情で、囁くようにヘイルガイルはそう呟くと、くるりと顔をトトフィガロに向けた。そこには寂寞の色はなく、いつも通りの人好きのする笑顔が浮かべられていた。
「さて、トト。これから荷造りをするのだろう? 良かったら、僕も手伝おう。前に外へ出た時に使った鞄があるから、それを貸してあげるよ」
別離の余韻に心を奪われていたトトフィガロは、その言葉で自分のするべきことを思い出した。
「良いのですか? 実は何を準備すれば良いか分かっていなかったんです」
「初めてのことだからね、そういうものさ。では、君の部屋へ案内してくれよ。途中、僕の部屋に寄ってさ」
トトフィガロはヘイルガイルの手を取って、歩き出す。
暗い城の中でも、手を繋いでいると、不思議といつもより明るく見える気がした。
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