第一章第七話 「脱出行:樹海中枢ルート」

「植物の攻撃性とはつまるところ生存戦略だ。捕虫嚢ほちゅうのうや粘着性の分泌液、それに毒性放出アレロパシー。種が違っても戦略が同じなら外観は似通ってくるし、簡易的な化学物質測定器で毒の放出もわかる。そうしてマッピングしていけば、生態系の構図から安全なルートは割り出せる」


 確率的にだがな、と付け加えながら、浅黒い禿頭のスティンディは後ろの十人に手振りで先に進むように示した。


 小熊にはすべてが未知の不気味な植物でしかなかった樹海が、ハンディライト一本を握るスティンディがいるだけで瞬く間に危険度の比率が解明されていく。


 密林に伸びる蔦の一本一本への恐怖がまるで別物のように塗り替えられていく。

 島の中央に広がる青一色の樹海も今ではまるでこけおどしだ。


 小熊は感嘆したが、しかし気を抜くわけにもいかない。

 エーリング湾で調査隊メンバー七十人以上を捕食した存在が、この森の闇にはまだ潜んでいる。


「でも、『黒い虎』は? 植生しょくせいの傾向だけであの飢えた怪物まで避けられると?」


「そちらは私にはお手上げだ。だから――」


 スティンディが言い終わるよりも前に、ガサッと茂みが大きな音を立てる。

 小熊とスティンディを除く残り九人の軍人が即座に反応し、銃口を跳ね上げた。


 だが最初の一人が引き金を引くよりも速く、飛び出していく影があった。

 あかい軌跡が闇に尾を引き、ライトの光をわずかに反射する結晶柱のきらめきを頼りに漆黒の獲物を見定める。


 そして。鋭利な大振りのサバイバルナイフが、『黒い虎』の喉を貫いた。


 『黒い虎』が空中でバランスを崩し、重い音を立てて転がっていく。

 何もかも小熊が救われた瞬間の再現だった。


 ナイフの刃から血を拭い、アンジェリカは落ち着いた様子で鞘に納める。

 息すら乱れてはいなかった。


 スティンディが感心と呆れが入り混じった表情を浮かべる。


「一頭を解体して『黒い虎』の主要臓器バイタルの位置はおおよそ解明できた。臓器の数は違うが、心臓と動脈の構造は通常の動物とほぼ変わらないようだ。もっとも、ナイフ一本で飛び込んでいくのは彼女ぐらいのものだがな」


 アンジェリカがあまりに簡単にやってのけるせいで軍人なら誰でもできるのかと誤解しそうになるが、曲芸師でも見るように目を剥く他の軍人達の反応からもこれが超絶技巧なのは明らかだ。

 だが当の本人は謙遜けんそんする様子もなく、


「生まれつき動体視力は良い方だからね。一頭だけなら弾が勿体ないし、獲物を見つけたら飛び掛かる習性も単純だし。ブラフを織り交ぜて本気で殺しに来る教官仲間きょうかんなかまに比べたら、この子達は教練対象の新兵君とそう変わらないかな」


 サラッと口にした台詞にアンジェリカが特殊部隊シールズでどんな立場にあるかが伺えたが、聞くのが怖いので小熊は追及するのをやめておく。生意気な新兵一ダースを病院送りにして、血まみれでいつも通り笑っているアンジェリカなどほとんどホラーでしかない。


 ともあれ。

 呉の指揮、スティンディの知識、そしてアンジェリカの戦闘力。


 この三つが揃った十一人での行軍は、頼もしいなどという次元ではなかった。

 他の八人の軍人達も決して練度が低いわけではないから、索敵と警戒に隙もない。

 

 それでもこの森とニューミッドウェーは底知れず、何が起きるかはわからない。

 だが小熊はエーリング湾からの逃亡以降初めて、生きて帰れるかもしれないという期待が芽生えるのを感じていた。


 そしてスティンディが、その期待はお前にも向けられているんだぞと言いたげに小熊に片眉を上げてみせる。


「だがいいんだな? 島の中央を通るルートは確かに最短距離ではあるが、何が起きるかわからんぞ」


「これまであった大規模な襲撃はどれも『海岸線に出た時』に起こりました。それが島の外に獲物を逃がさない『黒い虎オプスキュリテ』や『夜の燕イロンデル』の生態なのかは不明ですが、逆に言えば森の奥であれば偶発的な遭遇程度にリスクを抑えられます。それに――俺達には、もう一つやるべき事がある」


 もう一つ、脱出のために中央を通るルートを選んだのには理由があった。


 小熊がずっと考えていたことだ。提案をして、全員の了承も得た。

 ある者は渋々、ある者は目に決意の色を浮かべて。


 つまり――。


「このルートなら『調査』ができる。本来の予定通りの、ニューミッドウェー最深部の踏破が。外の奴らの疑念を払拭して、この島で死んだ人達を世界大戦の引き金なんてくだらないモノにさせないために。この島の正体を掴むための何かが樹海の中枢で見つかるかもしれない」


 ただ生きて帰るだけではない。

 この島の謎を解き、第三次世界大戦をこの手で止める。


 そう告げる小熊は樹海の奥を挑むように見据えた。

 

               ▽▲▽▲▽▲


 そんな十一人の地球人類達を、『実験者』の視線は林冠から観察していた。


               ▽▲▽▲▽▲


 数時間後。

 先導するスティンディが手首のスマートウォッチに視線を落とし、


「そろそろだ。方位磁針とGPSも機能している。島の中心部二キロ圏に入ったようだな」


 薄暗い樹海に射し込む光源は、既に月光から朝陽へと変わっていた。林冠の隙間から遠い青空がかすかに覗く。


 その間にアンジェリカが仕留めた『黒い虎ハーミット』の数は三体にのぼった。欠員は、まだいない。


 だが重傷を負った呉大尉の体調だけは明確に悪化しつつあった。

 

「ここからは、三メートル間隔で横一列に散開して進みましょう……中心部の調査をするにしても、時間は掛けられません……」


「呉大尉」


 最後尾を振り返った小熊自身も左半身に負った火傷の痛みがぶり返し、体力は底を尽きつつある。だが今や呉大尉はイタリア人の若い軍曹に肩を貸され、息も絶え絶えの有り様だった。


 例え無事にニューミッドウェーを脱出できたとしても、まともな医療機関に辿り着くまで体力がもつかはわからない。


 だがそれでも呉は同情を求めない。

 いいから前を向け、と小熊に鋭い視線で釘を刺し、呉自身も樹海のあちらこちらに視線を走らせて特別な何かが見つからないかと探していた。


 だが。結局そんな努力は必要なかった。

 見つけた探し物は、あまりにも大きすぎたからだ。


「あれは……崖か?」


 中心部の調査は他の十人に任せ、手近な植物の安全性を分析していたスティンディが、不意に視線を下げる。

 全員が同じ場所を見つめていた。


 まだ五十メートルほど離れているだろうか。

 この樹海では隙間を埋めるように生え揃った樹々が視界を遮り、百メートル先も満足に見通せない。だからその『断崖』を十一人の生存者が目にしたのも、随分と近付いてからのことだ。


 どうも地形にかなりの高低差があるらしい。

 それも向こう側を見通すのが難しいほどのスケールで。


 局所的な窪地くぼちというより、盆地ぼんちと呼んだ方が適切かもしれない。

 そんな暢気な検討を小熊が続けていられたのは、距離を詰めるまでのこと。


 近付けば近付くほど、視界は開けていく。

 あれだけ鬱蒼うっそうと茂っていた青白い樹木の群れが、跡形もなく目の前から消える。


 『断崖』の淵に辿り着いた時。

 小熊は肺の空気を絞り出すように口を開いた。


「底が、見えない……」


 底無しの淵アディス奈落タルタロス

 聖書の末尾に記された、破壊者アバドンが眠る終末の『穴』。

 そんな神話を連想するほどに。


 およそ五百メートルほどの広大な範囲に渡って、地面そのものが消失していた。

 そうとした表現しようがないほど深く、ニューミッドウェーの大地に脈絡もなく虚空が広がっていた。


 縁取りは荒いが、『穴』の形状はおよそ真円。

 明らかに人為的なものだ。 


 呉大尉はその場の怯えた空気を断ち切るように首を振る。


「……ロシアには、地殻深部の探査を目的とした一万二千メートルの『人工の穴』があります。コラ半島超深度掘削坑。ただ深い穴を掘るだけなら、1970年代には可能だった。今更恐れるようなものではありません」


 スティンディも追従するように、あえて冷静なそぶりで眼鏡に手を掛けた。


「そう、だな。考えてみれば、噴火で生まれた新島の中心に火口があるのは当たり前のことだ。火山学の専門家がいれば、もう少し詳しい分析ができただろうが」


 そうでもしなければ。

 彼ら自身が目の前の異常な風景の威容いように呑まれてしまいそうだったからだろう。


 ただ巨大で深いだけの穴。ごくありふれた自然火口の地形。

 と。

 未知の恐怖を訴えかけてくる本能の叫びから目を逸らすために。


 そんな中で。小熊だけはその異常さを正面から受け止めていた。

 何故ならそれこそが、ジャーナリストとしての小熊が世界に伝えなければならないものだったから。


「写真を撮ります。スティンディ博士、縮尺を示すために映って頂けますか? アンジェリカ。悪いけど、もし危険がありそうなら教えてくれ」


「わかった。気を付けてね」


 アンジェリカに頷き返され、小熊はカメラのファインダーを覗き込んだ。


 スティンディと『穴』の全容を映した写真を一枚。

 『穴』の淵の抉れたような地面の境界線を何枚か。

 そして自ら淵にまで歩み寄り、底の見えない『穴』の下方を撮ろうとして。

 

 ふと気付く。


「なんだ……光ってる……?」


 おぼろげな光を捉えるため、感光レンズの倍率を最大に上げる。

 望遠専用のレンズではないが、五キロ程度の距離なら被写体ひしゃたい輪郭りんかくを見分けることはできる性能だ。


 そこに。極彩色の何かが映り込んでいた。

 

 光源があることも奇妙だが、このぼやけ方はレンズの望遠限界に近い距離であることを示している。深度約五千メートル。事前に読んだ資料によれば、この海域の海底がそれぐらいの深さではなかったか。

 

 しかもそれ以前に、この被写体は不定形のようだ。

 ゆらゆらと揺らめきながら輝いている。

 ある種の炎なのだろうか。


 その虹色の被写体もまた『穴』と同じく円形であることを理解した時、小熊は一つの形容を口にしながらシャッターを切っていた。


「……入り口?」


 何故そんなものを連想したのかはわからない。

 少しの間『穴』の底の極彩色を眺めていた小熊は、やがてファインダーから目を離す。


「皆さん、お待たせしました。進みましょう」


 全員が頷き、『穴』の淵をなぞるように十一人は対岸を目指す。

 ともあれ、今できる限りの記録は取った。後は島を脱出することに全霊ぜんれいを注ぐべきだろう。


 そうして半周ほど進んだ頃になって。

 ふと小熊は周囲に撮っていない方向があることを思い出した。


 そういえば、真上を撮影していない。


 衛星写真に『穴』が映らなかったことからも、頭上は林冠が覆い尽くしているのだろう。だが記録のためにはあらゆる角度を余さず撮っておくべきだ。


 そう考えて何気なく顔を上げる。


 地面の『穴』にばかり気を取られていたが、森の天井は急激に高さを増していた。

 まるで教会の大聖堂か音楽堂の大ホールのように、『穴』の深さに比例して不自然なほど開けた空間が頭上に広がっている。


 そこに青く染まった林冠以外の何かが見えた。

 二百メートル近い高さにまでせり上がっている林冠の頂点から、無数の蔓で吊り下げられた巨大な物体がある。


 それは。


「――船?」


 小熊の呟きに気付いた他のメンバーが、一人、また一人と頭上に首を傾けていく。


 それは船。大型船。

 あるいは、より厳密に言うならば。


「……三号船、カンビュセス」


 小熊が震えながら発した名前を、誰も否定できなかった。


 五十メートル級の純白の船体に幾本もの細い蔓が絡みつき、蒼色の蜘蛛の巣のように何万トンもの重量物を縛り上げている。

 高熱にうなされた夜の狂った悪夢のように。


 底無しの暗い『穴』の上に、船の死骸と絡み合う枝葉のドームが浮かぶ。

 アンジェリカや呉ですら言葉を失っていた。


 そして正しくは、船だけではない。

 よく見れば。二号船カンビュセスに乗船していた、数十名以上のクルーもまた蒼のドームの下に浮かんでいた。


 脳、心臓、小腸、肺、脊椎せきつい、頭蓋骨、手首、大腿骨だいたいこつ、眼球、皮膚。


 人体を構成する部位を丹念に分割し、血の滴る生乾きの標本と化した乗組員達のおびただしい死体の数々が。

 樹海の天井を埋め尽くすほどに吊り下げられていた。


「うっ、ぐ、ぶっ……!!」


 それが何なのかを理解した瞬間、小熊の胃の中身は逆流した。

 携帯食料ばかりでロクな固形物を口に入れていなかったのは幸いだったかもしれない。吐瀉物としゃぶつで足下の草木がバチャバチャと汚れていく。

 

「おえぇッ……!」

「これは……酷い、ね」


 軍人達にも嘔吐する者が現れ、アンジェリカや呉も顔をしかめる。

 ただ一人。血の気が引いた表情を浮かべながらも冷静にその意味を読み取ろうとしていたのは、研究者としての思考を積んだスティンディだけだった。


「――サンプル、なのか?」


 スティンディは『穴』の上に吊られた純白の船体と無数の人体を愕然がくぜんと見上げ、ぶつぶつと呟く。


 標本のように、ではなく。

 これが本物の標本だったとしたら。


「我々を……人類を、研究している? だとしたらこれまでの襲撃の意味は。全滅ではなく生存者がいる理由は。……あえて植生に偏りを生み、我々の知能をテストしていたのか? 実験室の迷路に放り込まれたハツカネズミのように? ならば……『実験者』が今考えていることは――」

 

 証拠を与えられたスティンディが体験のすべてを逆に辿り始める。

 この光景を生み出した『実験者』。存在するかもしれない、ニューミッドウェー島の支配者の思考をトレースしていく。


 その末に。 

 スティンディの声が、まるで別の誰かの言葉と重なるかのような色を帯びた。


「『――気付かれた』」


 遠吠えが聴こえる。

 巨大な鳥の羽ばたく音がする。


 始めは一つ、二つ。次第に十、二十、百すら越えて。

 樹海全体が一つとなった絶叫が大気を震わせる。


 寝静まったように静かだった樹海のあらゆる方角から、濃密な殺意と生命の気配が噴出していく。茂みが揺られ、枝葉が踏み折られ、まるであのエーリング湾での惨劇のように。


 樹海の悪意が、目を覚ます。


 その直後。

 アンジェリカはほとんど怒号に近い絶叫を飛ばした。


「――全員、足が千切れるまで走って! 早くッ!!」


 十一人が全力で地面を蹴った。


 前方の茂みが踏み潰される。

 四方八方から姿を現したのは、もはや闇に紛れることさえ放棄した『黒い虎ハーミット』だ。

 逃げることも隠れることも不可能な距離。


 小熊は、初めてアンジェリカが腰の拳銃を抜くのを見た。


 SIG SAUERシグソーア P226。

 極限環境で愛用される信頼性の高いドイツ製の銃器だが、しかし拳銃弾では狩猟用には威力が足りない。

 だが。


「角を!?」


 小熊は目を見開く。

 二発同時に撃ち込まれた銃弾がどちらも『黒い虎』の結晶柱に着弾し、プリズムに似たその器官を根本から砕き折っていた。


 角を失った『黒い虎』は獲物を見失ったようにたたらを踏み、首を振って迷うそぶりを見せる。小熊達が脇を通り過ぎても襲い掛かる余裕はないらしい。


 アンジェリカは足を止めずに、


「あの角が目の代わりみたい! 超音波の反響エコーロケーションで空間を見てるコウモリと同じなのかも。だから角を潰してやれば、死にはしないけど動きが止まる!」


 と、既に次のターゲットに銃撃を放っていた。

 アンジェリカ以外の軍人達も銃を構えて進路上や背後の『黒い虎』を排除していく。こちらの戦力は精鋭軍人が八人。

 だが猛獣の群れとの戦いには不慣れで、残弾も十分とは言いがたい。


 そして何より、敵の数が多い。

 エーリング湾の夜すら上回るほどに。


 呉大尉に肩を貸しているイタリア人軍曹が、焦った声でこう叫んだ。


「クソッ!! 何百体いやがる、空からも来たぞ!!」


 ギャアギャアと群鳥の叫喚が空から降り注ぎ、その直後に濁流じみた『夜の燕スワロウズ』の一群が巨体を伴って降下してくる。砲弾のような速度で直角に曲がるその軌道は、やはり慣性を無視しているとしか思えない。


 追い付かれれば確実に全滅していただろう。

 だが、瀕死の呉大尉が背後にほうった発煙弾が足止めになった。


 おぞましい蒼のドームの下を抜け、再び十一人は青い樹々の密集した樹海に潜り込んでいた。


 しかし獰猛な追手との距離は依然ほとんど離れていない。

 どころか『穴』の傍を離れたことで、より逃げ場のない包囲網が組まれつつある気配すら感じた。


 獣達のざわめきに紛れ、呉大尉が自分を担ぐ軍曹に漏らす声が聞こえる。


「……私を置いていきなさい。隊が遅れる」


「うるせぇッ!」


 だが結果として。

 最後尾にいた二人は、遅れていたお陰で生き延びることになった。


 ――ィィィィィィン、と。


 可聴域かちょういきを越えるほど甲高い風切り音が、聞こえた気がした。


 抱えきれないほどの大樹に横一列の線が走る。

 やがて小熊の視界一面で、一斉に樹木が線に沿ってゆっくりとズレていく。


 先頭にいた四人のうち、咄嗟とっさに地面に身を伏せる反応が間に合ったのはアンジェリカだけだった。


 他の三人の身体が一面の樹木と同じように、ゆっくりとズレていく。


「スティンディさんっ!!」


 小熊が駆け寄ろうとする前に、スティンディの上半身は崩れ落ちた。

 同時に、周囲の樹木が音を立てて倒れていく。


 スティンディ・ナイトハットは絶命していた。遺言すらなく。

 横一閃、両腕ごと胴体を真っ二つに切断されて。

 一帯の樹海の樹々と同じように。


「あぁぁああああああッ!!!」


 三人の中では最も後ろにいた年長のロシア軍人が、半ばまで切り落とされた右肩に構わずアサルトライフルを掲げて森の奥へと乱射する。だが数歩進んだ時点で彼もまた肩から上を鋭利な刃で斬り飛ばされた。


 視界を遮る樹木が軒並み伐採されたことで、百メートルほどの円の中心に立つその存在の全貌が露わになる。だがそれが生物なのかすら定かでなかった。


 例えるならば、ヤジロベエの怪物。


 細長く硬質な、黒地に青いストライプ模様の胴体。

 そこから伸びたワイヤー状の『両腕』がヒュンヒュンと高速で回転している。

 先端のおもりは小さく、これもブレード状の鋭利な刃になっているらしい。


「伏せてッ!」


 と叫ぶアンジェリカの声に、慌てて小熊を含む数人が地面に身を投じる。

 また一回り大きく、森の樹々が鋭く切断されていく。


 悪趣味なバランストイのように、細長い両腕を振り回して広域を両断する樹海の脅威。『切断者バランサー』。そうとでも呼ぶべき新たな怪物。


 そしてこの鋭利かつ広域な切断面に小熊は見覚えがあった。


「二号船トロリーを沈めたのはこいつか!」


 船体を切断され燃え盛っていた二号船トロリー。

 そして目視はしていないが、恐らくは一号船カルネアデスも。

 この物理法則に反するほどの切断能力によって、五十三メートルもの大型船舶を破壊してのけたのだろう。


 まるで兵器の実験だ、と誰かが呟いた。

 今は亡きスティンディの考えが正しければまさしくこの島は実験場だったのだろう。


 ただし実験対象は兵器の側ではない。

 実験機材である『黒い虎』や『夜の燕』、『切断者』。


 それを侵入者にぶつけてどんな反応をするか。どの程度死ぬか。

 それを観察するための、悪魔が眺める死の箱庭だ。


 だがそれに怒りを燃やそうが、実験者の正体を探ろうが、すぐにでも全員がスティンディの後を追うのであれば意味がない。このヤジロベエ型の『切断者』を突破できなければ、背後から迫る禽獣きんじゅうの群れに挟まれて終わりだ。


 死を覚悟しかけていた小熊に、しかし背後から聞こえる囁き声があった。振り返ると、呉大尉と彼女を担ぐイタリア人軍曹が『切断者』を睨んで薄く笑っていた。


「……感謝します、ミスタ」


「アンタはなかなか良い女だ。どうせ死ぬならママか美女のために死ねってのが、お祖父じいちゃんの口癖だった」


 それだけ言うと、最後尾にいた二人は前へと駆け出した。

 『切断者』が巡らす狩場。

 一太刀で命を刈り取られる、絶死のエリアへと。 


「オォォオオオオオオオオオッ!!」


「全員、前へッ! 生きて、外に――ッ!!」


 膝に一振り。腰に一薙ぎ。胸に一閃。

 瞬時に加速した『切断者』のワイヤーが三度に渡って軍曹と呉の身体を切り裂いてゆく。斬撃を浴び、原型を保てなくなった二人の残骸が前のめりに崩れていく。


 ただし、一瞬前に呉の手から投擲とうてきされたC4爆弾だけは。

 彼女が狙った通りの完璧な位置と時間で、猛烈な爆轟ばくごうを伴って起爆した。


「ぐ、ぅっ……!!」


 爆風に地面に押さえつけられ、呼吸もできなくなる小熊の背中を誰かが掴んだ。

 強引に引き上げられた小熊が隣を見れば、アンジェリカだ。

 きつく奥歯を噛み締めて前を見つめている。


 小熊は一度強く目をつむり、それから開く。

 爆風が止むと同時に苔と若葉に覆われた地面を強く踏みしめて走り出した。


 横を通り過ぎざまに見た『切断者』のワイヤーは一本が千切れ、外殻が破れてかしいだ胴体からは薄い緑の体液が滲み出していた。

 身をていした二人の遺体は、見当たらない。


 生存者の残りは五人。

 事前の計画では目標は全員生存だった。

 だが人数が半減しようと、まだ諦めるわけにはいかない。絶対に。


「こっちに! 第一次先遣隊の軍用車両ハンヴィーが乗り捨ててある!!」


 アンジェリカの声に従って森を駆け抜けると、樹木に衝突したまま停止している大型車両が現れた。


 高機動多用途車両ハンヴィー

 軍用車両としては最も汎用的なジープの後継だが、車体は幅広だ。

 樹木が高密度で林立する樹海を走り抜けるのは針の穴に糸を通し続けるような難易度ですらある。


 それでもアンジェリカは迷うことなく操縦席に乗り込み、回収時を見越してされたままのキーを回してエンジンを吹かした。


 だが三頭の『黒い虎』が、五人全員が乗り込むよりも早く前後から現れた。

 獰猛な爪と牙が小熊を引き裂こうとする、その寸前。


「そぉ、れっ!!」


 アンジェリカがハンドルを豪快に回し、踏み潰すほどの勢いでアクセルを踏んだ。

 車体がフィギュアスケーターのような速度で回転し、三頭の『黒い虎』を盛大に弾き飛ばして発進する。


 小熊が強烈なGで陥った数秒間のブラックアウトから意識を取り戻す頃には、高機動車両ハンヴィーはアンジェリカの手元が見えないほど小刻みなハンドルさばきで樹海を疾駆しっくしていった。


 しかしこれまでの徒歩に比べれば格段に速度を増した道行きも、死と隣り合わせなのは変わらない。周囲の樹々が青から緑へと切り換わる。

 逃げ切ろうとする生存者達に、樹海の悪意は最後の奥の手を駆り出してきた。


「エーリング湾まであと三キロ……二キロ……っぐっ!?」

「おぁっ!!」

「うわッ!!!」


 助手席で地図とGPSを交互に見つめていた小熊に、いやハンヴィー全体に横転しかけるほどの衝撃が走った。

 まるで砲弾でも直撃したかのように。


「うあぁあああぁッ!!」


 絶叫に振り返ると、後部座席で『黒い獣』や『夜の燕』に銃撃を放っていた女性軍人の左肩が大きく潰されていた。

 ハンヴィー自体も右側面のスチールフレームが大きく歪んでいる。


 バランスを崩して地面に転がり落ちたタイの女性軍人は、ご馳走を手に入れた『黒い虎』の群れにむさぼられて断末魔の叫びを上げた。

 

 数秒ともたずに途絶えた悲鳴が鼓膜に焼き付くのを感じながら、それでも小熊は叫んだ。サティムのテントで映像を見せられて以来、考え続けてきたその正体を。


「ドローンを撃墜してきた、細長い何か。あれは『つる』だ! 二号船カンビュセスを吊っていたこの樹海の蔓が、超音速で撃ち出されてきてる!!」


 恐らくはニューミッドウェーに潜む怪物の中でも最大の脅威。

 あるいはそれ以上の手札は、『実験機材』に選ばれなかっただけなのか。


 そんなことを考える余裕もなく、遂に林冠の奥に光が見えた。

 太陽の輝きはまるで希望の象徴だ。オフロード仕様のタイヤが木の根を蹴って宙に浮き、次に着地した時には砂浜の柔らかな感触が伝わってきた。


 再びエーリング湾に辿り着くことができた生存者は、四人。

 陽光に照らされた海上には、カルネアデスの真紅の船体が斜めに傾いでいた。


 脱出に使おうとしていた上陸用ゴムボートは砂浜にいくつも放置されている。

 だがそれを海へと押し出して泳ぎ出すための、たった十数秒。

 それが永遠のように長い。


 内臓を引きずり出されそうな急制動の嵐の中、小熊はほとんど遺言に近い気分でアンジェリカに叫んだ。


「どうやって乗り込む!?」


「ハンヴィーを盾にする! 数秒は稼げるけど、間に合うことを祈っててッ!!」


 砂浜を走り抜けたハンヴィーが一艘いっそうの上陸用ゴムボートの前に横付けで停止する。四人が座席から飛び出した直後、『蔓』が巨大な蒼い槍のように樹海の奥からハンヴィーの車体を強烈に叩いた。


 非装甲車であるハンヴィーは機動性のために重量と耐久性は捨てられている。

 三本目の『蔓』が一際強く直撃すると、半壊したハンヴィーが宙へと舞い上がって海へと沈んでいった。


 この水柱が鎮まるより早く四人共殺されるに違いない。

 小熊はゴムボートを押しながらそう確信した。


 『蔓』を写真に収めることはできないだろう。

 それが何より悔しかった。


 けれど次に小熊が見たのは自分を貫く超音速の『蔓』ではなく、樹海へと降り注ぐ銃撃の猛雨だった。


 四人のうち、年若いフィンランド軍人の青年が驚いて声を上げる。


「重機関銃? 海賊対策のっ!?」


 それはそうだ。まともに狙いもつけない滅茶苦茶な支援射撃が、真紅の船体を半分に切断されたカルネアデスの甲板から撃ち下ろされていたのだから。

 友軍への誤射を恐れて『黒い虎』には使えなかったそれを誰が持ち出したのか。


 だが小熊はそれ以上に思いもよらないものを見た。血まみれのまま甲板で機銃を抱えているのが、浅黒い肌の見覚えのある青年だったからだ。


 ウルセン・サティム。

 UAEの富裕層出身のドローン操縦士オペレーター

 彼も夜の『黒い虎』の襲撃から生き延びていたのか。

 

 サティムは遠目に見ても血まみれだった。

 下半身を負傷しているのか、機銃を支えにしなければまともに立ち上がることすらできていない。明らかに深い傷を負い、息絶えかけている。


 けれどサティムは小熊達に助けを乞うことも、絶望に打ちひしがれることもしなかった。代わりに彼はこう叫んだ。


「僕は、ドローンオペレーターだ。父さんや兄さんに馬鹿にされ続けた僕の、それだけが誇りなんだッ! ちくしょう、舐めるなッ!!」


 甲板から、最後に残った四機のドローンが高速で飛び立つ。

 機銃を固定し、コントローラと群体制御を駆使するサティムの手で、四機のドローンは空中でダンスを踊るように華麗に舞う。

 剣士の舞踏ナジュド・アルダ

 アラビア半島の戦士が武器を披露し、勇敢さを示す決死のダンスのように。


 煩わしい羽虫を叩き落すように、五本の『蔓』がドローンへと撃ち出された。

 一機、二機、三機、四機。そしてオペレーター。

 超音速の蒼い死の槍がすべてを貫き、銃座ごと破壊された機銃が止まる。


 だがその頃には、海の上に浮かんだ上陸用ゴムボートのエンジンが回り出す。

 同時に最後まで体を張って盾となり、銃撃を続けていた大柄なブラジル人少佐が『蔓』に胴体を貫かれる。


「間に合え……ッ!!」


 動き出した上陸用ゴムボートの至近距離に『蔓』が二本着弾する。

 『実験者』も焦っているのかもしれない、と小熊は思った。

 狙撃の精度が落ちている。データ取りか、遊んでいたのか。

 皆殺しにするはずだった連中に逃げおおされるのは奴にとっても困るのか。


「カルネアデスの後ろに回る! しっかり捕まってて!!」


 アンジェリカの指示だけを頼りに、小熊はゴムボートに身を伏せた。

 

 撃ち出された『蔓』が何度も大きく海面に水柱を立てる。

 軍用の揚陸艇としてかなりの速度を誇るはずのゴムボートがカタツムリのようにのろく感じた。カルネアデスの船体の背後に回り込むまでに何時間も掛かったかのようだったが、実際には十秒もかからなかったのだろう。


 大気を貫く『蔓』の砲撃が、カルネアデスの沈みかけた船体に遮られて徐々に遠のいていく。


 それから一分、二分が経ち。

 小熊はだんだんと自分の時間感覚が正常に戻ってくるのを感じた。


 体を起こして目を開けると、カルネアデスとニューミッドウェーは既に遠ざかりつつある。『蔓』は樹海の中では自在に獲物をいたぶれたのだろうが、海上へと離れてしまえば限界があるようだった。


 と、エーリング湾の方から金属が軋むような轟音が響いた。

 

 両断されたカルネアデスの傾いだ船体に、さらに縦三本の切れ目が走る。

 輪切りにされた真紅の大型調査船が今度こそ海中に没していく。

 あの向こうには、きっと邪魔な船を排除するために呼び出された『切断者』が並んでいるのだろう。


 それでも、『蔓』が三人の乗る上陸用ゴムボートに届くことはなかった。

 どうやら『実験者』の魔手が届く範囲からは抜け出せたらしい。

 

 ニューミッドウェーの悪夢から、小熊達は逃げ切ったのだ。


 しばらくの間。誰も何も言わなかった。

 アンジェリカですら放心した様子で大きく息を吐き、膨らんだゴムボートの淵に背中を預けている。小熊とフィンランド人の線の細い青年軍人はほとんど呆然自失として、ただ海と空を眺めていた。


 自分達がまだ生きていて、どうやら次の瞬間も死なないらしい。

 という嘘のような現実を受け入れるには時間が必要だった。

 あの島では死は常に隣に在り、誰が死んでも驚きいたむ権利は失われていた。


 ゴムボートのスクリューが波を搔き分ける音を聴きながら、一息をついて。


 小熊はふとあることに気付いた。

 何度か考えてみるが思い出せない。


 仕方がないので、ボートの上で白い髪のフィンランド人の青年に向き直る。

 それから申し訳なさそうに頭を下げた。


「すみません、その……名前をいても? 自己紹介はして頂いたと思うのですが、何分あんな状況だったもので、記憶がなくて」


 青年は目をぱちくりと瞬かせ、ボートの後部でエンジン脇の操縦桿そうじゅうかんを操っていたアンジェリカもぽかんと口を開ける。


 それから。

 誰ともなく揃って笑い出した。

 

 ニューミッドウェー国連派遣調査隊の、百九十七人もの仲間が死んだ後には不謹慎かもしれない。だがどうしようもない絶望に肩まで浸かっていたからこそ。

 ほんの少しのくだらない楽しさが、とても貴重で愛おしく思えた。

 

 三人でひとしきり笑い終えてから、青年は軽く会釈をしてはにかむ。

 

「エルモ・コイヴネン、伍長です。フィンランド人。――ぼくがまだ生きているのはたぶん幸運と、死んでしまった皆と、それからあなた方お二人のお陰です。本当にありがとう。戻ってからオグマさんの仕事でぼくに手伝えることがあれば、何でも言って下さい」


 そんな感謝を伝え合い、小熊は人間性と呼べるものが心の内に戻ってくるのを感じていた。


 あの島では次々と死んでいく仲間を振り返ることなど許されなかった。

 だがもう安心だ。

 GPSを頼りに海図を辿り、救助艇を呼んで、最寄りの島で飛行機を待とう。


 ニューミッドウェーという異常な島については国連に正式な報告をすれば、第三次世界大戦などという事態にもならずに封鎖や鎮圧が行われる。

 いかにあの島が恐ろしい怪物に満ちていると言っても、複数の大国が本気を出せば現代科学と最新鋭兵器の力でどうとでもなる。


 そう思っていた。だから。


「……え?」


 ふと思い出して起動したスマートフォンの画面を覗き込んで。

 小熊は脳が理解を拒むのを感じていた。


 無数のニュースのヘッドライン。そしてSNSからの爆発的な反響の通知と、悲鳴のようなリプライの数々。それらは一つの事実を生還者の三人に突き付けていた。


 この地球上のすべてが。

 ニューミッドウェーと同じ地獄に、変わってしまったのだという現実を。

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