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  • 後編への応援コメント

    僕はまだ東日本大震災の時には生まれていなかったので実際に体験したわけではないのですが、録画をテレビで見るだけでも身震いします。

    こっち(現在)が揺れているのではないかと思わせるほどに強い揺れに、建物が積み木のように壊れ、崩れていくさま。

    中学校の先生が見つけ出した津波の動画で初めて〝東日本大震災の〟津波を見たときには背汗が流れましたね。
    街が、それを撮影している防犯カメラ以外水没し、元から海だったのではないかと思うほどに跡形もなく消え去った街並み。

    何気ない日常って、あまりに脆く、奇跡で成り立っているのだとこの作品を見て思いました。素晴らしい作品をありがとうございました。

    作者からの返信

     閲覧と応援コメント、ありがとうございます。

     私は、今は、あの時の津波の映像を見るのがキツい感じがあります。
     当時、さんざ見ましたからね。
     対する東京は、揺れている間は怖かったし、交通機関は乱れるし、原発は事故を起こすし、大変には違いなかったのですけれども、それでも、宮城や山形や福島に比べれば、「身の危険が間近に迫る」という程ではなかったのです。
     だから、何事もなければ、私がこんな作品を書く事もなかったのですけれども。

     チェルノブイリは、私が学生の時に事故を起こして、世界中に、本当に怖い想いをまき散らしました。
     そのチェルノブイリを軍事制圧する、それも、11回目の3.11をまぢかにして。
     どの様な政治的事情があろうと、狂っているとしか思えません。
     今も、ウクライナで、中東のガザで、アフリカのコンゴで、理不尽に大勢の人たちが生命や生活基盤を脅かされる状態が続いています。
     どんな政治的対立があろうと、無辜の人々が生命や生活基盤を脅かされる事のない日の来ることを願ってやみません。

  • 後編への応援コメント

    本当に怖い日々が続き、その後も心ない話が巷を賑わせ、嫌な気持ちを抱えていた気がします。
    今も、遠い国の事とではなく、危うい状態が続いていますね(*>ω<*)ウルウル
    どうか皆が安全で平和な日々を過ごせるように祈るばかりです。

    作者からの返信

     読了と応援コメント、ありがとうございます。

     私のこの小品も、なかなか難しいものがあり、東北のもっと大変だった方たちからも、西日本の直接的には関係のなかった方たちからも、厳しいご評価を頂く事があります。
     私自身、東京での体験など、よほど特別な事がなければ、こうして作品にするほどの事もなかったと考えているのですけれども。
     でも、11回目の3.11を目前に、プーチンがウクライナに侵攻し、あろうことかチェルノブイリ原発を占拠したという報道に触れて、書かずにいられずに書いてしまいました。
     戦争や原発事故ばかりでなく、地球温暖化により、野生生物ばかりか、人間の生活環境も脅かされつつある今日、強い力を持った国家の指導者が自国のエゴに陥るのでなく、人類全体の安全と平和に、意を用いてもらいたいです。

  • 前編への応援コメント

    あの日……、すごい揺れでしたね。
    地下のオフィスにいたのですが、すごく揺れて怖かったことを思い出しました。
    怖かったですね( >д<)、;'.・

    作者からの返信

     拙作をご閲覧頂きまして、ありがとうございます。

     あの時の揺れは、怖かったですね。
     東京は震度5強、余震も何度も来ましたね。
     私がよくランチを食べに行っていた居酒屋は、地下の店舗でしたが、天井が落ちて、2週間ほど休業していました。
     東京であれでしたから、東北地方の揺れは、想像するのも難しいものだった事でしょう。

    編集済
  • 後編への応援コメント

     はじめまして。林海さんの大食の侵襲のコメント仲間? の縁から作品を読ませて頂きました。
     非常に読みやすい文章でしたし、その中にも確固たる意思を感じました。
     個人的には、今から30年前の新社会人1年生の時に、保谷市(今は西東京市らしいですね)で3ヶ月暮らしていたので、大泉学園というのも、懐かしかったです。曜日限定でギョウザが安かった『満州』とか今もあるんですかね。
     ……脱線しました。デリカ様の他の作品も読ませて頂きますね。

    作者からの返信

     はじめまして。
     拙作の閲覧と応援コメント、ありがとうございます。

     林海さんの『大食の侵襲』、現実の世間をも反映していて、ハラハラものですね。
     安堵できる結末を迎えて欲しいです。

     さて、拙作は、3.11から11年目を迎えようという矢先にロシアがウクライナに侵攻、しかも、私が学生時代に大事故を起こしたチェルノブイリ原発を占拠したというニュースを聞いて、思わず書いてしまった短編です。
     学生時代の心象と、11年前の福1の事故の記憶が蘇って戦慄しました。
     地震自体は、東京の郊外でありましたので、恐ろしくはあっても、現地に比べれば、語るほどの体験ではなかったのですけど、原発事故の恐怖だけは語りたくて。

     大泉学園の「ぎょうざの満州」、今もあります。
     大泉学園も保谷も、駅周辺は、再開発で30年前からはだいぶ変わったと思います。
     特に保谷は、都道が複数開通して、景色がだいぶ変わったかも。今も、北口を再開発しています。
     それでも、少し歩くと、そこここに、武蔵野の面影は、残っている様に思います(私も、今は、大泉ではありませんけど)。
     機会があれば、ご訪問ください。

     拙作も、ご笑覧頂ければ光栄です。

  • 後編への応援コメント

    はじめまして!
    拝読し、記憶を呼び戻しました。
    あの日は浜松町の貿易センタービルの最上階にいて、ビルが激しくしなりフライングパイレーツ状態になって、ここまでかと思ったものです。
    暫くしたら対岸に炎が見えて市原の辺で火災が起きているのが見えました。
    階段で地上迄降り、大渋滞で動かない道路をゾロゾロ歩く人々が亡霊のようで、その中に混じって歩き東京タワー周辺で落下物で通行規制が出て迂回しながら練馬まで歩いて帰った事を思い出しました。
    東北の被害を知ったのはどうにか帰宅したその後の事です。
    福島第二原発の事を聞いたときはスリーマイル島やチェルノブイリを思い出して恐怖しましたね。あのとき購入したガイガーカウンターはまだ手元にあります💦
    核爆弾とは違う☢の脅威をまざまざと感じました。
    今あちこちで紛争が、起きてますが勢力拡大を狙うレッドチームには自制を求めたいですね

    作者からの返信

     お越しいただき、ありがとうございます。
     『ノイルフェールの伝説』、どんな物語になるのか、気になります。

     拙作を書いてから、もう2年半以上が過ぎています。
     13年前の東日本大震災は、、大きな衝撃でしたけれども、一方で、日本が、多くの国から様々な支援を受けた出来事でもありました。

     2年半前のロシアのウクライナ侵攻は、逆の意味での衝撃でした。
     どうして、今、この時代に、ああいう前世紀的な事をするのやら。
     しかも、核兵器の使用をほのめかしつつの恫喝には、怒りと悲しみしか浮かびません。
     あれから、世界は混とんとし、私たちの暮らしにも直接的には食料品の値上げなどの形で多くの影響を受けています。
     アメリカの大統領も、自国の事しか考えない人物が返り咲くみたいですし。
     本当に、大国には、大国としての自覚と自制を求めたいです。

    編集済
  • 前編への応援コメント

    震災当日を思い出しました
    あの時、姉姫が通う知的園にちょうど迎えに行った時で(到着した時)。
    車内にいたのですが、車ごとぐわんぐわんと揺れて、地面が波打ってるみたいでした

    G県のM市は震度5強で、建物から園児たちが泣きながら園庭に飛び出していたのが見えました
    直後、信号も停電になり、普段は30分で帰宅できる道が、あの日は8時間かかりました

    今思い出しても震えますね

    作者からの返信

     閲覧と応援コメント、ありがとうございます。

     はい。あの日の揺れは、怖かったですね。
     東京の西郊ですらそうでしたので、被災地は大変であったろうと思います。
     その上、津波だし。
     原発は事故を起こすし。

     うちは、母が、その前に家に帰宅してくれていて、それだけは、本当にほっとしました。

  • 後編への応援コメント

    「あの日」わたしは運が良いこと(?)に自宅にいました。倒壊などもありませんでした。埼玉は海がありません。津波などもありませんでしたが、TVで放送される黒い津波が家を呑み込んでいく映像は脳裏に焼き付いています。

    作者からの返信

     閲覧と応援コメント、ありがとうございます。

     私も、あの日は、東京郊外の内陸にいて、不便はしても、大きな被害には会いませんでした。

     1986年のチェルノブイリ原発事故の際、私は大学生でした。
     大勢の人が避難を余儀なくされ、二度と故郷に戻れなくなりました。
     10代の少年少女に、甲状腺ガンが多発しました。
     甲状腺というのは、のど元を切開手術して治療するのですね。だから、Tシャツやワンピースなど、胸元の開いた服を着ると手術の痕が見えてしまって、おしゃれが出来ないのです。

     一昨年の2月、12回目の3.11を目前に、ロシアがウクライナに侵攻してチェルノブイリ原発を占拠したとの報道に触れて、真っ先に思い出したのが、3.11の福島第一原発事故と、津波の映像でした。

  • 後編への応援コメント

     こんにちは。初めてコメントを送らせていただきます、遠部と申します。

     災害は恐ろしいですよね……天災をコントロールするのは難しいでしょうが、人災は皆が少しずつ譲り合えばどうにか出来るのに……

    作者からの返信

    お読みいただき、ありがとうございました。
    チェルノブイリ原発事故が起こったのは、私が学生の頃でした。
    40年たった今も管理が必要というその場が、無神経な戦場となっている事に恐怖を感じています。


  • 編集済

    後編への応援コメント

    こんにちは。

    ふう……。あの時の混乱と、怖かった事をまざまざと思い出しました。
    日本が忘れてはいけない事、ですね。

    お母様が、早めに帰られて、本当に良かったです……。

    作者からの返信

    お読みいただき、ありがとうございます。

    一応、小説なので、事実かフィクションかは置いておくとして。
    個人的な事としては、母が、家に戻ってくれていて、本当に助かりました。

    一般的な事としては、東京の郊外は、東北や茨城、千葉の海岸地帯などに比べたら、語るほどの事ではなかったのですけど。
    でも、自分の住んでいる街が、地域が、国が、日常の跡形もない様な混乱に陥ったらと考えた時に、真っ先に思い出したのが、3.11でした。
    世界の人が、日常生活を奪われる様な災禍から、一日も早く解放される事を願います。

  • 後編への応援コメント

    天災も人災も……。
    生きていくというとは、大変だと思いました。
    色々な背景があり、要素があり、複雑でとても難しい問題。

    そして、歳月の流れがいかに早いかおののきました。

    作者からの返信

    閲覧、ありがとうございます。

    丸12年、早いですね。
    災害は、地震に限らず突然起こります。今年は、元日からとは!
    天災も大変ですけど、戦災や、世界に影響を与えかねない重大事故は、無しにしてもらいたいですね。

  • 前編への応援コメント

    すごかったんですね。
    地震、怖いですね。
    私は関西在住で、その日はママさんたちを相手にクラフトのボランティア指導をしていました。
    朝からずーっとドタバタしていて、揺れには全く気づかず((-_-;)、テレビで被害を知りました。

    作者からの返信

    閲覧、ありがとうございました。

    私は、たまたま、郊外にいたのですけど、都心は大変だった様です。
    そうした混乱に、老いた母が巻き込まれなかったのが、本当に幸いでした。

    関西は、阪神淡路の時は大変でしたね?

  • 後編への応援コメント

    地震は本当に忘れた頃にやってきますね。

    作者からの返信

    読了とコメント、ありがとうございます。

    本当に、地震列島に暮らしていると改めて感じさせられた今年の正月でした。
    被災地の復興をお祈り致します。

  • 前編への応援コメント

    当時は銀座の店の中にいました。外に出ると高層ビルがグラグラ揺れてました。コレはヤバいな、とその瞬間思ってましたね。

    作者からの返信

    閲覧とコメント、ありがとうございます。

    東日本の時は、たまたま、郊外にいたのですが、後日、YouTubeで、新宿あたりの様子を映した動画を見ました。
    並んで建っているビルが、ユワン、ユワンと揺れてる感じが、怖かったですね。

    今年の元日は、夕方4時過ぎに地震警報が出て、「来るか!?」と身構えたら、足の裏に長周期の揺れを感じて、しばらくしてテレビで、能登の地震が報道されました。


  • 編集済

    後編への応援コメント

    無事に家に帰れたが、テレビをつければ世紀末のようなありさま…

    ある日突然、日常が終わることってありますよね。

    日々平和であることがどれほど幸せなことなのか。

    追記:はは、確かに、世紀末そのものは平和でしたね。
    原発は怖いですが、一人の人間が使用するエネルギーの平均量は時代と共に増加傾向にあり、人口も増えているから、どこかで間引きされないと原発は無くならないかもですね。核融合のテクノロジーも開発されていますが、核融合自体に多くのエネルギーが、それこそ原発で生むようなエネルギーが必要になり、化石燃料も底が見え始めてきている…皆が自分勝手に生きるのではなく、真剣に世界の状況を考えて協力していかないといけないですね。確かに、争っている場合なんかじゃないです。

    作者からの返信

     後編までの閲覧とコメント、それにお★さま、ありがとうございます。

     世紀末は、穏やかでしたねえ!ww
     1999年から2000年に掛けては、コンピュータの動作不調でエレベータが止まるとかガスの供給が止まるとか言われましたけど、結局、トラブルなし。21世紀を迎える2000年の年越しも、穏やかだった記憶です。

     私も、半世紀以上生きていますが、「怖かった」と感じたのは、
    ・1979年のスリーマイル島原発事故
    ・1986年のチェルノブイリ原発事故
    ・1995年の東京都心での地下鉄サリン事件
    ・2011年の福島第一原発事故
    ですね。
     特に、サリン事件と福島原発事故は、東京で暮らす自分にも余りに身近で怖かったですが、チェルノブイリ原発事故も、国を挙げて放射性物質の飛来を恐れたもので、強烈に印象に残っています。
     核兵器と原発事故は本当に怖い。
     ロシアは、そのチェルノブイリ原発事故の当事国で、事故発生も、その後の処置の大変さも、身に染みて分かっていようというのに、あろうことか 3.11 を目前に、ウクライナで戦争を始め、しかも、そのチェルノブイリを占領する、電源を遮断するという暴挙には、戦慄を感じざるを得ませんでした。
     前編のコメント返信に書いたように、東日本大震災での私の体験は、本当にささやかで、文章にするほどの話でなかったのですが、それでも、この文を書かずにはいられなかったのは、原発事故への恐怖と憤りからなのです。

     日々平和であることがどれほど幸せなことか!
     ウクライナだけではありませんけど、一日も早い戦乱の終結を願わずにはいられません。


  • 編集済

    前編への応援コメント

    リアルな描写で、そんなに凄かったのかと今更ながら思わされました。

    私は海外に住んでいて、その時も地震のことはニュースで観ただけでしたが、直後に起きた津波と原発の話が大きくて、地震の揺れの事は後で人づてに聞いた程度…

    その昔、フィリピン旅行へ行った時に、建物の20階以上の階にいた時に地震があり、ユッサユッサと建物が大きく揺れてビックリしたことがありますが、その比ではない事が伺えます。

    戦慄ですね…

    作者からの返信

     閲覧と応援コメント、ありがとうございます。

     東京に住んでいると、地震は日常茶飯事ですけど、あの時の揺れは、初めて体験する強さでしたね。
     私は、あの日は本当に幸いに、発災時は郊外にいましたので「揺れが怖かった」程度の話なのですけど、知人には、普段は郊外で暮らしているのに芝居を観に都心に出た、とか、あるいは知人のお嬢さんで、学校の行事でディズニーランドに行ってクラスみんなで帰れなくなった、なんて話もありました。

     それでも、東京の揺れは「怖かったね」で済む話で、東北の被災に比べれば何ほどの事もなく、本来ならば、私が「あの日」の事を文章にする事はなかったでしょう。
     私が、この小文を書かずにいられなかったのは、後編の最後に書いた事情からです。

  • 後編への応援コメント

    いろいろ難しい問題ですね。東日本大震災は天災ですが、ウクライナの件は人災ですからね。

    ウクライナの件は、どっちが正しいというつもりはないです。今までの人類の歴史は、勝ったものが正義になってるだけなので、今の時点での正しさは意味をもたないのだから。

    でも、問題はそこじゃないです。為政者の正しさを証明するために犠牲になるのは市民なんです。原発に対しても同じ、戦争という1時間軸の1点だけ取り出せば、ロシア軍の理屈は通りますが、時間軸を長くして、そこで引き起こされる問題に向き合って、犠牲を強いられるのは市民なんですよね。そうなると、そこに「正当性」はないんですよ。

    ということで、振り返って、東日本大震災。これはきっかけは天災です。でも、人災の部分はなかったか? そして、その人災を起こした人物は、この件に対して「しかるべき」責任を取ったのか?

    ね、救われないですよね。与えられた現実を受け止めることを強制されるのは、その件を決定する権限をもたない市民のみ。そこにすべての問題が集約されている気がします。

    作者からの返信

    閲覧、ありがとうございます。
    コメントを頂戴し、光栄です。

    本作で私が最も述べたかったのは、「原発」です。
    本文をお読み頂けば分かるかと思いますが、運用過誤であれ、天災であれ、戦火によるのであれ、一たび原発が事故を起こせば、その影響は世界に及びます。
    1986年のチェルノブイリ事故当時は、日本も、観測機を飛ばして、放射性物質の飛来を警戒したものでした。
    隣国ポーランドやほかの欧州各国でも、放射能だまりの様な箇所があちこちに現れました。
    今のウクライナ周辺では、育ち盛りの子供たちの多くに、甲状腺ガンの発症が見られました。
    仰る通り、ロシアとウクライナの政治的軋轢については、日本人である我々が安易に是非を言えるものではないでしょう。
    でも、原発を、核兵器を、戦術の道具として弄ぶような為政者、世界を震撼させた3.11を目前に隣国に攻め込みチェルノブイリを占拠する為政者に、私は怒りを覚えたというのが、この短品の執筆動機です。

    編集済
  • 後編への応援コメント

     あの時は、原発が危ないというニュースがずっと流れていて、怖かったです。
     津波でたくさんの人が亡くなって、心が痛いです。
     もう日本はおしまいか、とも思いました。
     自然災害でもこんなにつらいのに、人災なら止めたいですよね。
     ウクライナの原発が無事でありますように。

    作者からの返信

    応援コメント、ありがとうございます。

    福一の事故発生時、日本政府は、最初は原発から10キロ圏内の住民を避難させましたが、アメリカは、原発から100キロ圏内の在邦アメリカ人に避難勧告を出したのですよね。
    あれから12年が経過しましたが、事故処理は、まだまだ先が見えてはいません。

    1986年のチェルノブイリ原発事故の際は、周辺の国でも放射線が観測され、日本でも、飛行機を飛ばして放射能を測定したり、恐ろしかった記憶が今も残っています。
    周辺住民には、多くの健康被害も報告されています。
    今はどうにかコントロール下にあったチェルノブイリに軍事攻撃を仕掛ける暴挙は、本当に信じられません。
    一日も早い戦闘の終結と紛争の解決を、願わずにはいられません。

  • 前編への応援コメント

     すごいな。
     私は関西なんですが、関西の震災のときも、揺れはきつかったですが、地域的に無事な所に住んでいたので、テレビでひどい被害を聞いてびっくりしていました。
     実際にこんな揺れに合われたのは、怖かったでしょうね。

    作者からの返信

    閲覧とコメント、ありがとうございます。

    私も、東京でしたので、東北に比べれば揺れは大きくなく、特に、私がその日にたまたまいた東京郊外の多摩地区というのは、地盤がしっかりしている地域で、直接的な被害は少なかったと記憶します。
    一箇所、ショッピングセンターの駐車場のスロープが崩落したのが唯一耳にした直接被害でした。
    それに、東京人は、震度4程度の地震はさほど珍しくないのが通常なので。

    それでも、常とは違う長くて大きな揺れは、怖かったです。

    また、東京でも下町や海岸近くは揺れが大きかったようですし、隣接する千葉県の浦安では地盤の液状化が酷かったり、市原では石油コンビナートが炎上したり。
    千葉の太平洋側では津波の被害もありました。

    阪神淡路地方では、普段は地震が少ないのですよね。'95年の規模の地震は、恐らく、豊臣秀吉の時代以来だったのでないでしょうか?
    テレビや新聞の報道で、鉄道や高速道路の被害、あるいは神戸の火災などの状況に触れて、当時は慄きました。


  • 編集済

    後編への応援コメント

    あの日は、首都圏に住む人々も大変であった覚えがあります。
    勤め先の高層ビル10Fで大きな地震に遭遇し、家族に連絡も取れずにおりました。窓から見える超高層ビルは、あたかも途中で折れてしまいそうに暫く揺れている。
    夜中にやっと電車が動き我が家へ帰ると、家内の実家となる故郷の街「福島浪江」が2度と戻れないように消えていました。

    作者からの返信

    閲覧とコメント、ありがとうございました。

    あの日は、たまたま、都心の仕事先を休んで郊外にいたのですが、翌週出勤すると、いつも昼食を食べに行っていた店が、天井が落ちたそうで、随分長く休業していた記憶があります。
    宮城の惨禍や、福島の原発事故には心痛みました。

    チェルノブイリ原発事故が起こった頃は、私は、二十歳過ぎの学生でしたが、西方のポーランドなどでも、放射能の強い「ホットスポット」と呼ばれる場所が現れたりと報じられ、日本にも偏西風で影響が来るだろうと国中がピリピリしていたものでした。

    11年目の3.11を目前にした去年の2月24日に、ロシアがウクライナに侵攻、しかも、チェルノブイリを攻撃して占拠したという報道には、驚愕と共に憤りを強く覚えました。
    長引く戦争によって、食料品の物価高騰などの形で私たちの暮らしにも影響が出ています。
    一日も早く、平和と、安全な暮らしが戻る事を願って止みません。

  • 後編への応援コメント

    本当に恐ろしい地震でしたよね。
    東北の方々の気持ちを思うと、胸が痛みます。

    神保町には私もご縁があり、馴染みのある都内の地名がたくさん出てきました。ただ、あの地震のときは都内にいなかったので、こんな感じだったのだろうなと、恐々と拝読いたしました。

    原発攻撃は本当に酷いことですね。
    声を上げてくださってありがとうございます。
    私も同じように考えます。

    作者からの返信

    釣舟草さん
    閲覧とコメント、ありがとうございます。

    「小説」なので、リアルかフィクションかは申しませんが、本当に、東京ですら、当たり前で平凡な日が、突如様相を変える経験に戸惑いました。
    東北の人達の被害の大きさに胸が詰まると同時に、首都近郊で原発事故が起こったという事実に恐怖を覚えました。
    そうして、昨年の2月24日、「無いだろう、無いだろう」と言われていたロシアのウクライナ侵攻のニュース、その中での、チェルノブイリ原発への攻撃は、私が学生だった頃に起こった同原発の事故と、それから始まる長い月日の「放射能汚染」という現実と向き合う日々を思い出させられました。
    1990年くらいだったか、都内で、チェルノブイリの写真展があって見に行きました。
    子供たちの写真や自画像に、喉の辺りに手術跡を持つ子らの多かった事! 甲状腺がんの手術の跡なのです。
    あの事故から、東西の緊張緩和や、ベルリンの壁の崩壊、ソビエト崩壊などなど、多くの時間をかけて平和が醸成されて来たはずだったのに、その努力の歴史を無にするなんて、愚行としか言えません。
    ましてや、原発に軍事攻撃を加えるなんて。

    東日本大震災は、東京に住む私が書く様な筋ではないのですけど、平穏な一日が突如として変貌したあの日の事は、今、書かずにはいられず、短編としてしたためました。