3章 君を想う~勇者になりきれない君を~
気紛れに書物を開いていると、不意に痛みが走った。体のどこでもなく、魂から来る激しい痛み。
「・・・・・・・・・っ」
書物が手から滑り落ち、腕から床までの短い空間を羽ばたいて、転がった。
胸を押さえて蹲り、周期的に襲い掛かる鈍痛に耐える。甲高い金属音に目を開けば、精緻極まる組木細工の床に銀のロケットペンダントが落ちていた。
痛みの引いた隙に、それを掴む。金属に特有の硬質な冷たさと、内部に封じ込められたあたたかな祈りが痛みを遠ざけるような気がした。
痛みに回らない頭に、千々に乱れた思考が浮かんで消えてを繰り返す。
かつての罪。失われるはずだった力。差し伸べられた手。祈りの言葉。贖罪であったはずの日々。縋ってしまった自分。生んだ歪み。許されざる願い。
耐えきれぬほどの痛みに、床をのた打ち回る。揺れ回り、一定しない視界に映り込む1人の少女。
「それは、歪み。貴方の望んだ力の代償。」
反響する。増幅する。減衰する。頭の中で、耳の奥で、魂の、奥底で。
「「それは貴方の抱える全て。それは貴方が囚われ続けた罪にして、行い続けた救済の証。」」
「「「相対せよ。目を開け。見据えなさい─────貴方の為した、すべてのことを。貴方の辿った、その旅路を。」」」
まわる、ひびく、せめたてる。まわり、ひびき、いいきかされる。
「「セイヴ、忘れないで。」」
「「「貴方の幸せを願った者が、いることを。」」」
意識が途切れるその寸前。かなしい顔を、見た気がした。
✦✦✦✦
勇者任命の儀から1年ほどが経った。
ライエとフローエルは共に19歳になり、もうすっかり大人である。
話す機会こそ減ったものの手紙でのやり取りが続いており、2人は相も変わらず親友だった。
「ライエ、久しぶりだね。元気だった?」
「確かに久しぶりだが手紙は受け取ってるはずだろ。面倒だからそれ読め。」
「ひどいなあ。折角会えたんだから、会話しようよ。」
「今度の休みにな。私は仕事中なんだよ。」
「・・・そうだったね。じゃあ、また今度。おれはあと1か月後ぐらいに体が空くと思うから。」
「詳しくは手紙で頼む。私も忙しいから、早めに言えよ。」
「分かった。」
ライエは、心配そうに去りゆく親友の背中を見つめた。勇者に課せられた期待の重圧からか、はたまた激務からか。前会った時よりも、痩せていたような気がした。
「・・・本当に勇者様と仲いいよな、ライエ。タメ口聞けるの、この国の中ではお前ぐらいしかいねえだろ絶対。」
「前2人で城下町に行ったとき、そこらのガキンチョにタメ口利かれてたぞあいつ。」
「いや止めろよそのガキを!!」
「フローエルは孤児院育ちだぞ? ガキの相手なら私らよりよっぽど上手い。」
「それでいいのか勇者様!!」
「・・・勇者だって、人間だろ。」
フローエルが勇者になってから、皆そんな簡単で、大事なことを忘れているような気がしてならない。口に出せば懲罰確定であろうが、つい心の中で呟いてしまう。
(勇者なんか、止めちまえばいいのに。)
もしライエがそれを言ったとしても、あの馬鹿は絶対に止めないと分かっている。それでもつい、思ってしまうのだ。
(・・・馬鹿は私の方かもな。)
護衛対象である王子がにこにこ笑ってこちらを見ているのに気付き、慌てて顔を引き締めるライエたちだった。
勇者の出迎えを終えて執務室へと戻る王子に付き従い、ライエは部屋の外で警護に就く。暇と言ってしまえばそれまでだが、大切な仕事である。
いつも通り、官僚たちが書類の山を抱えて行ったり来たりする光景を警戒しつつ眺めていたら、いつもとは明らかに違うものが現れた。
ハーヴェイ大聖堂の、神官。
彼は執務室に駆け込み、王子の前で慌ただしく一礼して叫ぶ。
「大変です! ──出現の兆候が確認されました!!」
ライエの口から、え、と間抜けな声が零れ落ちる。
(・・・・・今、こいつ、なんてった?)
確かに聞こえていたのに、ライエの頭が、耳が、受け入れることを拒絶した。
「確認された場所は、グラフィアか・・・。よくないな。あそこは人が多く集まる場所だ。」
「──はそういった場所に現れやすいと伝えられております。前神官長、イシル様の残された記録によれば、そのとき3人の使徒が降臨なされた、とあります。」
「そのときは確か、勇者がその場にいなかったんだよね?」
「はい・・・。」
「でも今、勇者は健在だ。まだ若く経験は浅いが、その分勢いと情熱は誰にも負けないだろう。」
「そうですね。そもそも一度出現した──を完全に滅することが出来るのは、勇者か神のみとされております。行っていただくしかありません。」
「そうだね。こちらでも、人選を進めておくよ。」
「魔王討伐に赴く勇者の随伴を、ね。」
気付けばライエは、王子の前に跪いていた。唇は滑らかに、持ち主の願いを口にする。
「殿下。どうか私めに、その栄誉をお与えください。」
王子は流石に驚いた様子を見せたが、ライエの目を見てその驚きを引っ込めた。
「いいだろう。・・・君はいなくちゃいけない。そんな気がするんだ。」
ライエは無言で、より深く頭を下げた。
王子の前を辞去して、ライエは近衛騎士団の詰所に戻る。見慣れた白壁と緋色の屋根の建物の前に、いるはずのない人物がいた。
「フローエル・・・お前、何でここにいるんだ。」
「殿下に教えてもらったんだ。魔王討伐に、ライエもついて来るってこと。」
「何だよ、文句でも言いに来たのか、勇者様?」
「そうだよ!」
予想以上に激しい声だった。
「何でライエがわざわざ行かなくちゃいけないんだよ!? お門違いだろ!」
「魔王討伐は国を挙げて取り組むべきことだ。それに、今回は倒しに行くわけじゃない。視察に行くんだ。」
「魔王が出現する兆候が見られた場所では、いつ魔王が目覚めるか分からないんだ。ライエこそ、それを分かって言ってる?」
「当たり前だろ。私はお前の幼馴染で、お守なんだって前も言ったよな。」
「お守って・・・おれはもう成人したんだ。そんなの、いらない!」
「駄々こねてるようじゃ、まだまだお守役から卒業できそうにないな。」
カッ、とフローエルの頬が紅潮した。恥辱に怒りに打ち震え、深い緑の瞳でもってこちらを強く睨み付けてくる。
(これでいい。)
昔からフローエルはライエと喧嘩すると、しばらく口を利かなくなる。このまま怒らせておけばフローエルに再度説得されることもなく、ライエはフローエルと共に魔王を倒しに行けるだろう。
(利用するようで悪いけど・・・私はお前のことを、父上にもおじさまにも頼まれてるんだ。)
もう話はないと言わんばかりの様子でライエが立ち去ろうとしたとき、その腕を掴む者がいる。
「・・・まだ何かあるのか、フローエル。」
フローエルは俯いたまま、何も話さない。
「私にも準備があるんだ。何もないなら離してくれ。」
フローエルはやはり、何も言わない。
「フローエル?」
その顔を覗き込もうと身を屈めた瞬間、強く引っ張られてバランスを崩しそうになった。ライエの手を掴んだままフローエルは走り出して、体勢を崩してしまったライエはそれに引っ張られるままついて行く。
城の中の、誰も通ることのなさそうな物陰でフローエルはようやく足を止めた。
この程度で息は切らさないが、ライエにはフローエルのこの行動の意味がさっぱりわからない。
「フローエル・・・?」「なんで」
みっともないぐらいに震える声が聞こえる。それは、慣れ親しんだそれより低くなっていて。
「なんで、分かってくれないんだよ・・・!」
予想に反してフローエルは、泣いてはいなかった。歯を強く噛み締め、血の気が引いたその顔に浮かぶ感情は、紛れもない恐怖だった。
「こわいんだよ」
叩きつけるようで、それでいてどこか絞り出すような、そんな声。
「おれは、どうしようもなく怖いんだ。」
「・・・魔王が、か。」
弱々しい笑みだった。フローエルの全部を知っているはずのライエですら、見たことがないほどの。
「情けないだろ、こんなの。おれは勇者だから行かなきゃダメで、なのに、魔王のこと考えたらさ、足が竦むんだ。」
「ああ。」
「でもみんな、分かってくれないんだ。みんなおれが魔王に怯えてるなんてこと、ありえないみたいに笑うんだ。期待するんだ。」
「ああ。」
「ライエ・・・おれ、怖いよ。」
「勝てないかもしれないのに。誰かを失うかもしれないのに。誰かが傷つくかもしれないのに。」
「おれはしっかりしてなきゃいけないのに・・・『大丈夫』なんて、言えないんだよ・・・。」
『勇者』と言う名の箱の中に入りきれなかった、ただの少年の部分。
こぼれてしまった『フローエル』が、そこにいた。
ライエは、俯いてしまったフローエルの肩にそっと手を添える。
「だから、私に来てほしくなかったのか?」
頭が小さく縦に揺れる。その頭に、こつんと額をぶつけた。
「私だって怖いさ。魔王なんて本当にいるとは思ってなかったし、私がそいつと戦うとこなんて、想像もできない。」
「でも私が行くのを決めた理由は───────フローエルが行くからだ。」
「おれが・・・?」
「ああ───ほら、思い出せフローエル。私たちは、いつも一緒だっただろ?」
始めて孤児院から抜け出した日も、入り込んできた野犬と戦ったときも。楽しかったことも悲しかったことも、辛かったことも、嬉しかったことも。
ライエの思い出の隣には、いつもフローエルがいた。
「どんな怖いことも、お前と一緒だったら怖くない。2人だったら、無敵。──────そうだろ?」
フローエルが顔を上げる。目の前のそれは、涙でぐしゃぐしゃに濡れていた。
「そう、だったね。」
涙を拭いてやりながら、2人、幼い頃に戻ったみたいに笑い合う。
「勇者でなんていなくていいよ。お前は私の、自慢の幼馴染だ。」
「うん・・・・・ありがとう、ライエ。」
おれの自慢の、幼馴染。
そう言ってフローエルは、あどけなく笑った。
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