世界を照らす、光明へ

夢現

1章 愛を乞う

 ゆらゆらと、猫の尾のように揺れるくろ天鵞絨びろうどの髪。木陰に座るその人物に向け、フローエルは足音を殺して忍び寄る。オークの木陰のその人は、今だ彼に気付かない。

 そっと、そっと近付いて。その人に向かって、自分の手を伸ばす。

 が、風切る音と共にフローエルの喉に短剣の狂暴に鋭利な刃が突きつけられて、フローエルは木陰に座る少女騎士───ライエの背に触れさせようとしていた手を、掌が見えるように顔の横に持って行った。

「なんだ、フローエルか。驚かすな。」

「ごめん。見つけて、ついびっくりさせたくなった。」

「そんな悪戯考えている暇があったら鍛錬してろ、私より弱い勇者様?」

 父親によく似たからかうような顔で、ライエは笑った。

 対するフローエルは、反論もせずライエの隣に座り込む。

 ひととき吹いた風がライエのくろ天鵞絨びろうどの髪を、フローエルの金色の髪を揺らした。

 晴れ上がる空は、フローエルの目にはどこか空虚に見えてしまう。そうなったのは、一体いつ頃からだろうか。

 黒く、涼やかに切れ上がった瞳。何よりも闇に近い色の癖に、何よりも真っ直ぐな光を宿したそれが、目の前にあった。

「フローエル・・・お前、どうした?」

「どうしたって、何が?」

「何がもクソもない。私がおかしいと思ったのは、お前だ。」

 真っ直ぐな黒曜の瞳を見ていられなくて、目を逸らす。以前はあれほど好きだった緑の絨毯も、今では色褪せている。

「・・・何か悩んでいるのなら、言え。聞いてやる。」

「・・・・・うん。」

 目を閉じればすぐさま浮かびくる、情景。たかが夢とは断じられぬほどに、激しく感情が、衝動が沸き起こる。

 大嵐の後のように荒れた街の中心で立ち竦み、隠れてこちらを窺う救うべき人々から注がれる、敵意にも似た視線の群れ。

 おいていかないでと伸ばされた手の持ち主が、己の手の中で息絶える瞬間。

 救うべき相手を履き違え、取り返しのつかない大罪を犯した心の虚無。

 フローエルが──────かつての勇者が経験した全てが、フローエルを襲い、叫び、責め立てる。

 何をしている。立て。誰かが傷ついているぞ。立て。救わなければ。立て。手を差し伸べなければ。立て。過ちを犯すな。立て。救うのだ。立て。お前の大切なものを。立て。みんなの大切なものを。立て。立て。立て。立て。立て。立て。立て。立て。立て。立て。立て。立て。立て。立て。立て。立て────────────────────立て!

「────エル! おいフローエル!! 起きろこの馬鹿!!!」

 頬に炸裂した平手打ちのあまりの勢いに、当代の勇者であるはずのフローエルは芝生に転がった。この幼馴染に敬われることは求めていないが、それでもやや忸怩たる思いを抱いても許されるはずだ。

「・・・あのさ、ライエ。」「お前、ちょっと黙れ。そんで、こっち来い。」

 幼少より剣を振るってきたせいか、同年代の男と比べても力の強いライエに敵うはずもなく。フローエルはライエの部屋に有無を言わさず連行された。

 かなり雑にベッドに座らされ、鏡を目の前に突き出される。そこには今にも死にそうな顔をした、端整な容貌の少年がこちらを見返していた。

「お前、本当になんなんだ? いきなり人の横で寝こけたと思ったら歯折れそうなぐらい口噛み締めるわ顔顰めるわ顔色どんどん悪くなるわ・・・私に隠し事はしないって、言ったくせに。」

 最後だけ、ちょっと拗ねたような。不意に自分が、たった14歳の少女であることを思い出したかのような。そんな、声。

「うそつき。」

 この声を聞いたらフローエルはいつも、何か悪いことをしてしまったかのような罪悪感に襲われる。今も、横に座ったライエの顔をまともに見ることが出来ない。

 靴だけ脱いで、ベッドの上で膝を抱える。腕と、顔と脚で作られた不完全に暗い空間。

 こうしているといつも頭を撫でてくれた養父ちちを思い出して、不意に泣きたくなった。


 当代の勇者、フローエルは孤児だ。王都の裏に存在する、あの死と悪と、生の都で生まれて育った。そんなフローエルを見出し、名をくれ、慈しんでくれたのが時の神官長、イシル・ハーヴェイだった。

 自分と同じ光の祝福色濃い金色こんじきの髪。自分より透明な緑の瞳。優しくて、自分を産んだ女みたいに手を上げることなんかなくて、ただただ大好きだった人。

 その人も、もういない。

 2年前に、突然死んでしまった。

 穏やかに、微笑みすら浮かべて。うつくしい花冠を、胸に抱いて。

 そういえばライエの父で、フローエルの師匠で、それから養父ちちの親友だった人も。

 去年。

 仕方ないなと言いたげに笑って、花冠を胸に抱いて。後を追うように。

「・・・・・お前今、おじさまのこと思い出してるだろ。」

「師匠のことも思い出してた。」

「私も。」

 カーテンが、揺れる。レースの花模様が光に透けて、床にいびつな白いモザイクを描き出していた。

「師匠には、話したことあるんだけど。」

 ライエはただ、聞いている。

「とうさまは、おれを愛してくれてたのかな。」

 ざ、と吹き込む風は僅かの熱気と草の匂いを運んできた。

「私には、愛されてたように見えたけど。」

「おれは、どうしてもそう思えなかった。」

 養父ちちは、確かにフローエルを慈しんでくれた。息子のように思っていると、言ってくれた。

 でも。

「おれは、とうさまに慈しまれていた。・・・大事に、されていたと思う。」

「でも、とうさまは。」

「おれを、あいしてくれなかった。」

 ライエの視線が頬に刺さる。

「父上は、お前になんて答えたんだ。」

「愛の種類が違うんだ、って言ってた。・・・でも、おれが帰るときにぽろっと漏らしたこと、聞いたんだ。」

「『イシルが本当に愛したのは、あいつだけだろうな。』って。」

「それは、私も聞いたことがあるかもしれない。」

 ちらりと見た横顔は遠い記憶を辿って、遥か彼方を見ていた。

「確か、おじさまと父上が酒盛りしてた部屋の前を通ったときに、父上が『お前は結婚しないのか。』っておじさまに言ってたんだ。」

「そしたら?」

「『おれは、ライン以外は愛せないよ。』って、答えてた。」

「・・・・・ライン? とうさまの日記にあったような・・・。」

「・・・人の日記勝手に読むなよ・・・・・。で? その人はどんな人だったんだ?」

 書いてあったことは、あまり覚えていない。でも、はっきりと覚えていることはあった。

「とうさまが、その人のことを大好きだったってこと。書いた後にぐちゃぐちゃに塗りつぶされた場所が2つあったこと。大聖堂の誰に聞いても、その人のことを教えてくれなかったこと・・・それぐらいしか、覚えてない。」

 子供心に妙に思った。誰も彼も、その人の名前を聞いたらはっとして。話を逸らしたり、叱りつけたりする。忘れなさいと、誰も彼もが言うことを。

 皆の目に浮かぶ懐古と、後悔と、悲哀を。その異様を。

 フローエルは今でもはっきりと、覚えている。

「・・・・・よし。」

「ん?」

「フローエル、城下に行くぞ。」

「・・・今から?」

「まだ日も高いしな。それに、私騎士見習い兼勇者のお守だからお前がいればかなり自由が利くし。」

「何しに!?」

「そのラインって人のこと調べに! お前の悩み事はそれが解決してからの方がいいだろ!」

「・・・まあ、確かに。」

 眠らなければ、あの夢は見ないから。

(また、隠し事ができた・・・。)

 ライエに嘘をつきたくない。ライエを心配させたくない。

 その矛盾がフローエルの心を引き裂く音が、聞こえた気がした。

✦✦✦✦

 ウォルナットの木目も美しい大図書館のような場所。そこは来客が訪れることもなく、ただただ巨人のごとき本棚が肩を並べて立っている。

 その一角。忘れ去られたようにぽつんと置かれた机に、1人の青年が座っていた。

 上等な皮の表紙の本一冊がその手の中で、静謐に繙かれている。ぱらり、ぱらりと。

「セイヴ。」

 呼ぶ声に、顔を上げる。圧倒的なまでの無垢なる虚無抱く、緑の瞳。その色彩いろは無関心なようでいて、この上なく優しい。

「また、その本を読んでいたの。」

「ああ。」

 だって、この話は。「おしまい」が記されたこの物語は。

「まだ、続いているから。」

「・・・そのようね。」

 人間の暦で2年前。あらゆるものの幸せを祈り続けた少女が贖罪を終え、あるべき場所へと旅立った。ほんの少しだけ世界の狭間に留まって、一度道を分かった友を待って。

 人ならぬセイヴやエンドには、ほんの瞬きのような時間でも。きっと彼女にとっては永遠のような時だったのだろう。

───────どうか幸せに。

 最期まで誰かの幸せを祈ったあの少女はもう始まりたる闇の底へと還っていったけれど、その祈りは未だここにある。

 首から提げた革紐を引っ張り出すと、その先には銀のロケットペンダントと古くも新しくも見える奇妙な鍵。

 どちらも祈りの使徒であった、プリエールから渡されたもの。

「セイヴ。貴方は罪人。貴方は贖罪の旅を続ける旅人。そうであることは、否定できない。・・・・・プリエールが還ったときに言ったことを、憶えている?」

 見返す、どこか哀しい虚ろな蒼穹。かつていた少女と兄妹のように似て非なる瞳。

「罪を償ったものにもきっと、救われる権利はある。・・・私は、そう言った。」

「・・・憶えている。」

 瞳から柔らかな慈愛は消え、あるのはただただ無慈悲な翡翠の闇。

「罪を悔いることは構わない。でも、罪に囚われていても贖罪は終わらない。・・・心しなさい。救済の使徒、セイヴ。」

「わかっている。終焉の使徒、エンド。」

 翡翠と交わる蒼穹。どちらも同じ、虚無を湛えてそこにある。

 ふいと視線が逸らされ、エンドは本棚の向こうに消えていった。

「・・・わかって、いる。」

 ぎんいろのロケットを開ければ溢れる月のいろ。

 見つめる青年の姿は、少女の名残に問うているようにも見えた。


 一体俺は、どうしたらいいのだと。


✦✦✦✦

「ライエ・・・一体どこに行くつもりなんだ?」

「まあいいからついてこい。」

 城下に下りたフローエルは、ライエの導きでどんどん大通りから離れていく。ようやくその歩みが止まったのは、貧民街と表の都の狭間に位置する場。

「この辺りに父上も懇意にしてた情報屋が住んでいるんだ。結構ヤバイ情報も持ってるような奴だから、何か知ってると思う。」

「情報屋・・・信頼出来るんだ?」

「そういう仕事は信用が命だからな。風の噂とかよりはよっぽど信じれる・・・・おっと、ここだ。」

 周りの建物に比べるとぼろい、小さな小屋。ライエはがんがん扉を叩いて怒鳴る。

「おーいおっさん! 私だ! ライエだ! 起きてんだろ開けろ!」

「・・・うっっっっっっせーーーーーーーーよ二日酔いに響くだろーが!」

「お、いた。」

 霹靂のような怒号に身を竦めるフローエルとは違い、ライエはけろりとしたものだ。

 薄く笑って、手品のように硬貨を中年の情報屋にだけ見せる。

 酒精に濁った情報屋の瞳が、瞬時に晴れ渡った。

「・・・・・入れ、嬢。後ろの坊主は連れだろ? お前も来い。」

「フローエル。」

「・・・ああ。」

 建物の中は見た目からは想像も出来ぬほどに綺麗で、そして奥行があった。2人は、一番奥の部屋に通される。

「さて嬢、坊主。何が知りたい?」

「先の神官長イシルに関わりのある人物で、ラインという女性のことを。」

 ライン、という単語を聞いた瞬間に情報屋の表情が変わる。

 恐怖のような、畏怖のような、郷愁のような、同情のような。複雑極まる感情の混成。

 終いに、感情はふっと消えて。情報屋の瞳はライエとフローエルよりももっと向こうを見つめていた。

「ああ・・・よく知ってるよ。勇者サマにはそりゃあ教えてもらえないだろうな。」

「何で、そのことを。」

「見た目からして市井このへんの住人じゃねえし、明らかにこの辺に慣れてねえし、嬢は勇者と幼馴染っていうじゃねえか。勇者は金髪に緑の瞳の少年っていうのは知られた話だぜ? 次からはフードでも被れよ、坊主。」

「あ・・・はい。」

「おいおっさん、話逸らすな。金は払うからちゃんと話せ。」

「へーへー、親子揃っておっかねーことで。」

 す、と息を吸い、またさっきのどこか遠くを見る目に戻る。

 彼が語ったのは、1人の少女の情報。否、道行だった。

 渇望したはずの情報は、フローエルの頭の中で重い楔となって打ち込まれていた。

 神殿への帰り道。視界は、世界は暗くて遠い霧の向こう。


 ライン・エリアニア。イシルの想い人。優しい人。沢山の人を救った。助けた。でもあのお方は、あのオカタハドレイショウをコロシタ助けるために殺したコロシタころした。

 殺した。5人を。助けるために。

 処刑をノゾンデ望まれて。処刑サレタされたサレた違う本当はチガウそうじゃないあの方ハアノ方は消えた。そう聞いてイルキイテいる聞いて聴いてキイて────そう聞いている。


 情報屋の震える口元と、その言葉がぐるぐる回ってちらついて。

 彼の最後の言葉が甦る。彼の瞳が甦る。

 ───詳しいことは知らねえから話せねえ。・・・嬢、坊主。知りたきゃイシル様の書いた本を読め。

 お前に知る勇気があるのなら。

 そう告げた、彼の瞳が。

 その後、どう帰ったのかわからない。気が付けばハーヴェイ大聖堂の自分の部屋で、一冊の書物を前に立ち尽くしていた。

 上等な皮の表紙の、一冊の本。著者は、イシル・ハーヴェイ。内容は、闇の女神にまつわる逸話集。

 闇の女神の犯した、世界で一番初めの罪の物語。闇の女神の3人の娘の物語。人を救えなかった勇者の物語。人を救わんと人を殺めた、使徒となりし少女の物語。

 こんなにも知っている。こんなにも読み込んだ。それなのに、今は恐ろしくて仕方がない。

 この本が。この物語が。この逸話たちが、逸話に隠れた真実ほんとうが。

 恐ろしくて、怖くて開けない。

「フローエル。」

 くろ天鵞絨びろうどの瞳が、優しく微笑んでいる。冷たく冷え切った自分の手を包む、剣だこに固いてのひら。包まれたまま、本の表紙に載せられる。

「一緒に読もう。もう一度、2人で。」

 フローエルはごくごく自然に頷いて。小さい頃のように、2人ベッドに腰掛けて。

 開く。

 本当を、知るために。

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