第5話 「お前は首だぁ」その②
ここはA級ダンジョン4階層。
頭上を覆う天井は、真っ白な岩石が幾重にも編み込まれたような構造をしており、その表面全体が、まるで雲間から降り注ぐ昼光そのもののように、やわらかく、しかし均一な輝きを放っている。
松明も、魔導灯も、光源らしきものはどこにも見当たらない。にもかかわらず、壁面そのものが乳白色に淡く発光し、静脈のような光の筋が、ゆっくり、静かに流れていた。
トンネル状に延びる通路の直径はおよそ20m。
半円形のアーチは異様なほど頑丈で、圧迫感がないにもかかわらず、足音をすべて飲み込んでしまいそうな、底知れぬ奥行きを持っている。5〜6名で戦闘を行うには、窮屈どころか、むしろ広すぎる。
私は今、帝国で16名しか認定されていないA級冒険者――その中の一人である聖戦士から協力依頼を受け、発見されたばかりのA級ダンジョンへと潜っていた。
その聖戦士の名は《ジェット》。
巨大な体躯。岩の塊のように鍛え抜かれた筋肉。身長190cm前後の堂々たる体格から放たれる圧倒的な威圧感。装備の質も、立ち居振る舞いも、隙のない一流品だ。さらに厄介なことに、顔立ちまでそこそこ整っている。
……まったく。
神はどうしてこう、無駄に盛るのだろうか。
もっとも、私がこの男の誘いを受けた理由は、外見や肩書きではない。
聖戦士が自ギルド内でハーレムを築き、日替わりで女を選ぶ。そんな醜悪な噂を、私はすでに耳にしていたからだ。
そして知っていた。近いうち、この男が“討伐対象に指定される”神託が降りるということを。
はい。
ここでも、しっかり信仰心を稼がせてもらいます。
現在のパーティーメンバーにも、聖戦士がすでに手を出しているという女性が2人含まれていた。
ロリ巨乳の神官と、妖艶な人妻魔導士。
視線の端で、彼女たちが聖戦士を見るたびに、微妙に濁った感情が揺れるのがわかる。執着なのか、諦観なのか、それとも依存だったのか。感情の輪郭が曖昧なぶん、なおさら生々しい。
私を誘ってきた理由は、実に単純明快だ。
誰よりも清らかで、誰よりも可愛い聖女である私を見て心がときめき、男の習性としてハーレムに加えたいと思ったのだろう。
だが、残念だったな。
これは潜入捜査である。
私を勧誘したその瞬間こそ、お前の最期の時――となる予定だった。
地下4階層を進み、いくつかの分岐を越えた頃だ。
予期せぬイベントが、唐突に発生した。
――――『聖戦士ジェットの討伐を執行せよ』
冷たい声が、直接、脳裏に落ちてくる。
感情も、温度もない。ただ事実だけを告げる、絶対的な神託。
YES_MINE_GOD。
確実に、処刑を遂行させてもらいます。
これまでの経験上、現場を押さえない限り、神託が降りることは少なかった。とはいうものの、今回はあまりにもタイミングが良すぎる。幸運としか言いようがないだろう。
聖戦士は、まだ気づいていない。
すでに私のスキル『ロックオン』で、標的としてマーキング済みであることを。視界の奥、意識の底で、彼の存在だけが微かに浮かび上がる感覚がある。
私の勝利は、約束されていた。
焦る必要はない。
その時が来るのを待てばいい――そう考えていた。
パーティー構成は7名。
聖戦士ジェット、副官的立場の忍者と重戦士。女魔導士、ロリ巨乳神官、絵師、そして聖女である私。
今この場で処刑を強行するには、前触れがなさすぎる。
通常なら、聖戦士が私をハーレムに引きずり込もうとする、その瞬間を狙うべきなのだろう。ものの、そこまで待つのも、正直なところ面倒くさい。
――さて、どうしたものかしら。
処刑プランを再考し始めた、その瞬間だった。
「
唐突に、聖戦士ジェットが吠えた。
ドン、と腹の底に響く怒声が通路を駆け抜け、白い壁にぶつかって反響する。ズン、と空気そのものが震え、光の流れが一瞬だけ歪んだ。
全身を黒装束で包み、腰には細身の刀を静かにぶら下げている。見た目だけなら、どこにでもいる村人A。だが実際には、“影の実力者”と噂され、聖戦士すら凌ぐS級の力を持つとも言われていた。
迷宮攻略中、忍者は事あるごとに聖戦士へクレームを入れていた。誰が見ても、そろそろ聖戦士がブチ切れる頃合いだ。空気は張りつめ、ピリ、と音が鳴りそうなほどに研ぎ澄まされている。
殴りかかりそうな勢いの聖戦士を前にしても、忍者は微動だにしない。
静かに、ただそこに立っていた。
……嫌な予感がする。
人が感情を吐き出し、崩れ落ちていく姿を見るのは、私の大好物だ。
この忍者の雰囲気は、先日酒場で勇者が仲間を追放した時に見た、“あの魔術士の不遜な態度”と酷似している。
忍者は、淡々とした声で口を開いてきた。
「俺が首って、どういう意味ですか?」
「どうもこうもない。今すぐここから消えろ!」
一方的に怒りを叩きつける聖戦士。
怒号は刃のように空気を裂き、周囲に荒々しく飛び散っていた。
それに対し、忍者の声音は冷えた水のように平坦で、感情の起伏を一切感じさせない。
熱と冷気が正面からぶつかり合い、場の空気がじりじりと軋んでいく。
どう見ても、聖戦士の方が煽られている。
表情、声色、身振りのすべてがそれを雄弁に物語っていた。
そして私は感じ取っていた。
知らぬ何かが、床下で蠢く蛇のように、ゆっくりとうごめき始めている気配を。
それは理屈ではなく、皮膚の裏を撫でるような嫌な予感――予期せぬ事態が起こる、その前兆なのかもしれない。
今こそ、強引にでも聖戦士処刑を実行すべき瞬間。
そう思いかけた、その刹那。
忍者は、さらに言葉を重ねてきた。
「A級の迷宮地下4層から、俺1人で地上まで戻れって言うんですか?」
淡々と、まるで事実確認をするかのような口調。
そこには挑発の色も、怒りもない。
……にもかかわらず、その一言は、確実に聖戦士の神経を逆撫でしていた。
「知らん!首になった奴のことなど、俺は知るか!」
吐き捨てるような怒声。
ドン、と空気が震え、聖戦士の苛立ちがそのまま衝撃波となって広がる。
「ファミリーのボスだからって、少々乱暴すぎませんか。みんなの意見も聞いてほしいと思うんですが?」
忍者は一歩も引かない。
むしろ、その声音はさらに低く、静かで、冷たくなっていく。
その声が落ちた瞬間。
――ギシリ。
場の空気が、微かに音を立てて歪んだ。
……いや、違う。
おかしい。
追放を宣告されたというのに、パーティーメンバーの誰一人として動揺していない。
驚愕も、反発も、怒りすら浮かべていない。
4人ともが、まるでこの展開を事前に知っていたかのように、静かで、落ち着き払っている。
息遣いすら揃っているように見え、その沈黙が逆に不気味だった。
その沈黙を破るように。
ロリ巨乳神官・メルンが、すっと手を上げた。
小さな身体に不釣り合いな胸元が、わずかに揺れる。
柔らかな動きとは裏腹に、その所作には妙な迷いのなさがあった。
彼女は聖戦士のハーレム嬢の一人。
本来なら、絶対に聖戦士側につく存在――のはずだった。
「
「
問いかけられたメルンは、怯える様子も、取り繕う気配も見せない。
ただ淡々と、静かに口を開いた。
「
――ピシリ。
その一言が、空間を凍らせた。
まるで見えない氷が床から天井まで一気に張り巡らされたかのように、誰もが息を止める。
「
怒声が弾ける。
しかしそれよりも早く、忍者が口を開いた。
「俺としては、別に戦っても構いませんよ」
さらりと。
命のやり取りを提案されたとは思えないほど、軽い口調で。
ロリ巨乳神官の提案は、まるで爆弾だった。
ドン、と空気が震え、張り詰めていた緊張が一気に噴き上がる。
聖戦士ジェットは目に見えて動揺し、瞳を泳がせる。
額に滲む汗、強張る口元。
一方で、忍者こうたは最初から最後まで変わらぬ無表情。
まるで、この展開すら最初から計算の内だったかのようだ。
理由は、あまりにも明白。
二人の戦闘力が互角だった場合。
属性相性で、聖戦士は確実に敗北する。
聖属性は多くの属性に対して優位を誇る。
とはいうものの、唯一“闇属性”だけには致命的な相克関係がある。
そして
つまり彼は――
聖属性キラー。
聖戦士ジェットにとって、最悪の天敵。
剣を交える以前に、勝敗は半ば決している。
ロリ巨乳神官の提案は、すなわち聖戦士を裏切る宣言。
……いや、もしかすると。
裏切ったのは、最初から聖戦士の方だったのかもしれない。
聖戦士は一瞬、言葉を失い、唖然としていた。
だが、次の瞬間、我に返ったように声を荒げる。
「駄目だ!そんな勝負、受けられるはずがないだろう!」
「それでは、ギルマスである
「おい、光太……お前、俺を脅すつもりか?」
忍者こうたは、ふうっと肺の奥から深く息を吐き出した。
その音すら、妙に大きく耳に残る。
あきれたようで、しかし驚くほど感情が薄い声音。
淡々と、冷静に、だが確実に相手の神経を削る調子で、聖戦士を追い詰めていく。
一方の聖戦士は、顔を真っ赤に染めていた。
喉元まで怒気がせり上がり、首筋には血管が浮き出ている。
ギリ、と奥歯を噛みしめる音が、今にも聞こえてきそうだった。
――まずい。
状況は、完全にまずい方向へ転がり始めている。
聖戦士は、忍者が張り巡らせた罠に見事にはまり込んでいる。
進んでも地獄、退いても地獄。
逃げ道のない袋小路だった。
ここで不戦敗を選べば、帝国が認定したA級冒険者の称号は即座に剥奪。
築き上げてきたハーレム・ギルドも、その場で解散となる。
そうなれば、“ハーレム王”ではなくなり。
当然、聖戦士討伐の神託も消滅する。
――困る。
私は、“私の手で”ジェットを処刑しなければならない。
この局面で彼が倒れてしまえば、忍者を助けた形になってしまう。
それでは信仰心獲得の好機を、丸ごと失うことになるのだ。
つまり、絶対条件はひとつ。
聖戦士が、この挑発合戦を生き残ること。
そのためには――
どうにかして、私がジェットをサポートするしかない、ということか。
重苦しい沈黙が場を沈める中。
私は一歩前に出て、手を上げた。
「私から……ひとつ、提案があります」
「なんだ、傭兵聖女か。見てのとおり今は立て込んでいる。用件なら後にしろ」
……何ですかね。
その、聖女に対する不遜な態度。
ここで鉄拳制裁を下したい気持ちは山々だ。
とはいうものの、A級とはいえ、私の拳をまともに受ければ即戦闘不能なのは明白。
忍者の不戦勝だけは、どんな形でも避けなければならない。
よって――無視します。
はい、私は空気を読まない聖女です。
ニャハハハハーー。
「属性ハンデを取り払った状態で、戦うというのはいかがでしょうか」
「属性ハンデが……無いだと? どういう意味だ、聖女。話を聞かせろ」
即座に、聖戦士の目が鋭く光った。
藁にも縋るような、必死とも言える表情が、その顔全体に張り付いている。まるで失われた希望を、私がひと振りで取り戻してくれる存在だと信じ切っているかのようだ。
忍者の方を見ると、彼はじっと私を見据え、目をぎゅっと細めている。
その視線は鋭い。するどい。しかし、拒絶の色は一切見せない。
静かに、冷静に、次の動きを見極めているのだろうという目だ。まるで将棋の盤面を読むかのように、空間の一つ一つの可能性を測っている。
重戦士は無表情のまま、成り行きを観察している。だが……うん、間違いなく敵意が濃い。
空気がじっとりと肌に貼り付くように重く、息をするだけで緊張が波紋のように体中に広がる。
とはいうものの、もちろんそんなものは全部無視で構わない。
「私が、聖戦士へ『闇属性耐久』を付与します」
一言を告げるや否や、聖戦士の身体が反応した。
「何だと……『闇属性耐久』を付与できるのか!? そういえば、お前……聖女だったな!」
「俺の方は、付与してもらっても構いませんよ」
私の提案を受け取った瞬間、聖戦士はまるで乾き切った焚き火に一滴の油が落ちたかのように、失われた生気を一気に取り戻す。声は張りを取り戻し、背筋もぴんと伸びた。
肩幅が広がり、胸を張り、まるで今にも吠え出さんばかりの迫力。彼の眼光には、再び戦士としての煌めきが宿り始めていた。
対照的に、忍者は微動だにせず、視線は静かに私を捉えたまま、呼吸も変わらず、感情の波を一切漏らさない。
……これは、相当な舐めプである。
属性ハンデが消えた状態で、本気で勝てると思っているのだろうか。
とはいうものの、私の見立てでは、聖戦士は確かにA級相当の力を持つ。そこに『闇属性耐久』を重ねれば、忍者が勝ち切るのは、かなり厳しい戦いになるはずだった。
私は闇耐久を付与するべく、聖戦士の正面に一歩踏み出し、胸元にそっと手をかざした。祈りの言葉を、声にならないほど小さく、しかし確かに紡ぎながら、光と闇の境界に存在する術式へ意識を集中していく。
淡く揺れる魔力が、空気を震わせる。
すう、と吸い込むように静かに、しかし確実に、耐久付与の術式が完了した。
「よーし……よーし!」
聖戦士は拳を握りしめ、まるで勝利を確信したかのように叫ぶ。
「これで属性ハンデは消えたぜ!
「……自分が有利になった途端、急に元気になりますね」
忍者は淡々と、静かに言葉を落とす。その口調は穏やかだが、内包する殺意がじわりと響く。それは事実であり、同時に致命的な煽りでもあった。
――まったく、その通りだ。
有利になった瞬間にテンションが跳ね上がるあたり、実に悪党らしい。
ものの、裏表のない単純な男というのは、嫌いではないのだが。
図星を突かれたのか、聖戦士の表情は一瞬歪むと、次の瞬間、怒気がさらに膨れ上がってしまったのか。
怒声を響かせてきた。
「
……今の一言、完全に敗北フラグではなかろうか。
忍者の戦術は影を媒介に相手を拘束し、毒や麻痺を重層的に積み上げる“変幻戦術”が基本だ。
とはいえ、ステータス差を考えれば、属性さえ対等なら聖戦士が押し切れる――私はそう踏んでいたのだが。
聖戦士は止まらない。
「おい、こら、
「確認ですが」
忍者は静かに口を開く。
「俺が勝った場合は、どうなるんでしょうか?」
「いい加減にしろ! お前が勝つ未来なんて、どこにもねぇんだよ!」
「俺が勝ったら……
「ぶっ殺すぞ、こらぁ!!」
咆哮が迷宮の奥深くまで響いた。
白い岩壁がびりびりと震え、反響音が何重にも折り重なり、その音は、まるで“開戦の鐘”のように空間全体に鳴り渡る。
……実に良い展開だ。
戦闘の気配が一気に濃くなり、空気が張り詰める。その緊張感に、私は胸の奥がわずかに弾むのを感じていた。
聖戦士の土下座姿を世に晒すため――そんな悪意に満ちた計画を、忍者は最初から練っていたのだろう。
とはいうものの、ここまでの流れを見る限り、全て忍者の計画通りに事が進んでいると考える方が自然である。
闇耐性を付与されても、忍者の表情に焦りは一切ない。
むしろ、これまでの言動を思い返すと、最初から勝利を当然視していたようにも見える。
一方、闇属性耐久を得た聖戦士は、なぜか忍者への警戒心が薄い。
不穏な空気が、じわじわと迷宮に満ちていく。
――そして、戦いは静かに、しかし確実に始まった。
――――――――結果は、忍者の圧勝であった。
忍者はS級スキル『影使い』の使い手であったのだ。
『影使い』は戦術的応用の幅が広く、底が知れない。月の加護を受けていなければ、この私でさえ、正面から対応するのは困難だ。
A級冒険者の聖戦士では、まったく歯が立たない相手だったのである。
どうやら聖戦士は、忍者が『影使い』であることすら知らなかったらしい。
ファミリーのボス――その肩書は、ただの飾りだったのか。思わず首を傾げたくなるほど、情報不足である。
「
「土下座なんて……絶対にするわけねーだろ!」
「でしょうね」
忍者は影の中から、静かに、しかし確実に言葉を落とす。
「……でも、そろそろ麻痺が効いてきた頃だと思いますが、いかがですか?」
「麻痺……だと……!」
その声が、空気を裂くように響き渡った次の瞬間、聖戦士の体がぐらりと大きく揺れ、重力に抗えずどさりと尻餅をついた。冷たい石畳に尻が叩きつけられる音が、薄暗いダンジョンの奥まで鈍く響く。
影が、まるで生き物のように絡みつく。忍者の手による影の拘束は、ただの動きを止める力ではない。麻痺の魔法が幾重にも重ねられ、聖戦士の体の自由を容赦なく奪っていたのだ。異常な耐久力を誇る彼でさえ、この無慈悲な連続攻撃の蓄積には耐え切れなかったのだろう。
崩れ落ちた聖戦士を見下ろし、忍者は冷ややかに低く告げる。
「では、強制的に土下座をしてもらいます」
「や、やめろ……やめるんだ……!」
声はか細く震え、四つん這いの姿勢のまま、逃げることも抗うこともできない。忍者は無言のまま、靴底でその頭を押さえつけ、ぐっと地面に押し付けていく。
ぐしゃ、と鈍く重い音が石畳に響く。土下座状態の頭が押さえつけられる光景は、凄惨極まりない。なるほど、絵描きを同行させた理由も、これなら十分に理解できるというものだ。
……うむ。実にいい光景である。忍者の奴、手際が良すぎる。
視線を向けると、絵描きはすでに筆を高速で走らせ、夢中で写生を始めていた。
「その描いている絵は、一体どうするつもりですか?」
「これですか?」
絵描きは笑みを浮かべ、即答する。
「もちろん、帝都にばら撒きますよ!」
……えぐい。実にえぐすぎる。
これでは、聖戦士の社会的死はほぼ確定だろう。
――――――その時だった。
冷たい衝撃が背筋を一直線に貫いた。
神託が、降りてきたのだ。
聖戦士の処刑を命じる『神託』。
その完了を告げる無情な知らせが、心を凍らせる。
……悪い。あまりにも悪すぎる流れだ。
私は何もできないまま、神託は無情にも終了した。
生まれて初めて、信仰心というものが、音を立てて崩れ落ちる瞬間を味わった。
—————
麻痺から回復した聖戦士は、しかし立ち上がる力もなく、四つん這いのまま、しくしくと情けない泣き声を漏らしている。肩を小刻みに震わせ、床に落ちた涙の雫がぽたぽたと石畳を濡らしていく。その姿は、つい先ほどまで剣を振るっていた勇者のものとは思えないほどだ。
すでに忍者たちの姿は、影も形もない。
残っているのは、私と泣き崩れる聖戦士の二人きり。
静まり返ったダンジョンの空気が、やけに重く、冷たく感じられた。
原因は明白だ。
私が彼に『闇属性耐久』を付与したことで、忍者パーティーから追い出された――それだけの話にすぎない。
まぁ……そうなるだろう。
闇属性を帯びた聖戦士など、彼らにとっては邪魔でしかないのだ。とはいうものの、私自身、ここに永住するつもりなど毛頭ない。
そろそろ帝都へ戻る頃合いかしら、と内心で算段をつけると、四つん這いになって動かないでいる男へ声をかけた。
「
声を張り上げる。
しかし返事はない。距離的には聞こえているはずだ。
無視しているのか、それとも魂が完全に抜け落ちてしまったのか、判断がつきにくい。
……ならば、だ。
反応を確かめる手っ取り早い方法がある。
四つん這いのまま項垂れている聖戦士の頭へ、ためらいなく正拳突きを振り下ろした。
『ボコッ』
鈍い衝撃音が、ダンジョンの静寂を突き破る。
しかし――反応はない。
麻痺は確かに解けているはずなのだが、頭が異常に頑丈なのか、それとも感情そのものが死んでいるのか。
いずれにせよ、このままでは埒が明かない。
次は頭蓋骨が陥没しない程度に力を調整し、ブーメランフックを試すことにした。
軸足に重心を乗せ、腰を捻り、アッパー気味の軌道で拳を跳ね上げた。
その一連の動作が、頭の中でスローモーションのように整理される。
『バキッ』
衝撃を受けた聖戦士の身体は、四つん這いの姿勢のまま、側転とも宙返りともつかぬ奇妙な動きを見せ、ヘロヘロと宙を舞うと、
そしてそのまま、ゴロゴロと石畳の床を転がっていく。
……加減が難しい。
気絶した可能性もあるが、呼吸はしている。
状況は何ひとつ改善していないため、起こす目的で、今度はやや弱めの正拳をもう一度だけ叩き込んでみた。
『ボコッ』
「何度も俺を殴るんじゃない! というか、聖女、本当に『闇属性耐久』を俺に掛けたのか!」
ようやく反応が返ってきた。
どうやら、疑いの念が湧いているらしい。やれやれ、といったところだ。
聖戦士は、忍者がS級スキル保持者だったという事実に、まだ気づいていない様子だ。
ふらつきながらも立ち上がり、真っ赤に腫れた目で剣を抜き、私を睨みつけきた。
その視線に宿るのは、殺気ではない。純粋で、どうしようもない怒りだ。
「聖女、なぜ俺は負けたんだ!」
「理由ですか? 忍者がS級スキル『影使い』を所持していたからですよ」
「なんだと……
忍者は、聖戦士を追い落とすためだけに密かにスキルを取得し、その事実を伏せ続けていたのだろう。
最初から、こうなる結末は決まっていたのだ。とはいうものの、当人にとってはあまりに残酷な真実だったのかもしれない。
「どういうことだ……つまり俺は、嵌められたということなのか?」
「パーティーメンバーの皆さんは、忍者の味方だったようです」
「ちょ、待て。それじゃあ……メルンが俺を裏切ったってことなのか!」
メルン――ロリ巨乳神官。
聖戦士にとって、特別な存在だったのか。その名を口にした瞬間、彼の表情は完全に崩れ落ちていく。
目から溢れた涙が頬を伝い、嗚咽が止まらない。
握っていた剣は、力なくカランと床に落ち、甲高い音を立てて転がる。
聖戦士はふらふらと方向も定まらぬ足取りで、奥の通路へと歩き始めた。
「そちらに進むと、最下層の5層に行ってしまいますよ!」
呼びかけても、振り向くことすらない。
ここまでこじれた人間関係に、これ以上付き合う気はなかった。
床に落ちていた剣を拾い上げ、鞘に収め、彼の腰に戻してやる。
運が良ければ、生き残れるかもしれない。
とはいえ、それも彼自身の運次第だ。
私は聖戦士をその場に残し、静まり返ったダンジョンを後に、さっさと帝都へと戻ることにしたのだった。
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