第15話 手綱の持ち手
× × ×
ヒューゴという悪魔は目立つ。良くも悪くも。
リヒトは、彼の濡れた黒髪を掻き上げながら、腹立ちまぎれに考える。
皇帝の私室。その奥。
皇帝専用の浴室で、ヒューゴが裸を晒している。褐色の肌に包まれた体躯は、ぎりぎりまで引き絞られていた。
ゴツゴツし過ぎておらず、かといって、柔らかくもなく。
しなやかで、なだらかだ。
男女問わず、うつくしい、と見惚れる、魅了の力に満ちた肉体。
舞台の上にでも立てば、さぞ人目を引くだろう。
「どうした、リヒト」
何を感じたか、悪魔が、リヒトの唇を啄む合間に、囁いてくる。ぐずぐずになりそうな、優しく甘やかす声だ。
なんでも許されそうで、聞いただけで自分を保つのが難しくなる。
だから逆に、リヒトは素直になれない。…ならない。
この悪魔に、心をすべて正直に吐露すれば、取り返しがつかないことになるだろう。
おそらくリヒトは、一人で立つことができなくなる。
傀儡どころではない。快楽に愉悦するだけの人形になる。
ゆえに、ヒューゴにリヒトが応じる態度は、傍目には、おそらく氷のように見えるはずだ。
「どう、した、とは…なんだ」
言葉でリヒトは、案じる態度を跳ねのける。一方で。
湯船に浸かったリヒトは、彼の首に腕を絡めた。
その頭を抱え込むようにして、唇に吸い付く。
間近で、ヒューゴの濃紺の瞳が細められた。
隠し事は無駄と言われている気分になる。リヒトは不機嫌な顔で目を閉じた。
ヒューゴは苦笑。
「ん…っ、なんか、怒ってないか?」
軽い口調に、リヒトの眉間の皺が深くなる。
(誰のせいだと思っているのか)
だがこういう時、おそらくヒューゴは自覚している。原因が、彼の存在にあるのだと。
ヒューゴは、当然のように、皇帝のそばに控える奴隷というだけでも目に付いた。
ばかりか、この容姿。
態度。
細かな仕草から癖、眼差し一つに至るまで。
目を奪われる。
華があって、媚びのない自然体。
奴隷というのに、やりたいようにやっているような、誰にも縛られない自由さをヒューゴは空気のように纏っている。
これがよくないのだ。
時にリヒトでさえ。
…どうやったら彼を、心底屈服させられるだろう、とよからぬ妄想に捕らわれるときがあった。
…ゆえに、よく話題に上る。
会議の席でも、しつこいほどに。
―――――戦争に出向いた者…貴族から平民に至るまで、その話になると震えるのです。
今日も、大臣の一人が言った。
―――――あの悪魔はとんでもない化け物だと。…神殿も帝国を憂いておりますぞ。
発言者に、リヒトが冷めた目を向けるのも、毎回の話だ。
彼らの思惑は分かっている。
皇帝と悪魔、強大な力を一所に集約させておくのが恐ろしいのだ。
現状、地上において、力では決して誰も皇帝にかなわない。
それを、貴族たちはどうにか覆したがっている。他の誰でもない、自分たちの権力のために。
(思えば、あれがよくなかったか)
リヒトの脳裏で、過去の戦場での光景が閃いた。
一度だけ。
たった、一度だけ、戦場でヒューゴは悪魔としての姿を顕現させたことがある。
あのときは、それだけの、…理由があった。
窮鼠となった敵国の親王が、強力な悪魔の軍勢を、地上に召喚したためだ。
当然、それは禁術である。
貪り食われる戦友たちの前へ飛び出し、悪魔の軍勢を駆逐するために、ヒューゴは。
―――――たった一体で悪魔の軍勢を一瞬で殺戮した! …そのようなバケモノが陛下一人にしか膝を折らぬこの状況、誰もが不安に思っております。
いかにも嘆かわしいと言わんばかりの声。不安を煽る物言い。
…いかにも、無辜の民の安全を心底考えていると言わんばかりの態度で。
そんな悪魔を殺せと言わんばかりの態度の一方で。
バケモノの手綱を、我らにも寄越せと言っていた。
だが正直、戦場でのあの光景は、目撃した者曰く。
―――――神話の一場面のようでしたね。
恐怖は恐怖でも、戦場の者たちが胸に抱いたのは、畏怖だったろう。
あの悪魔の本来の姿は、醜悪どころか、神々しかったから。
にもかかわらず、そんな存在が。
対人間に対しては、人間の力の範疇でしか応戦してこなかったわけだ。
『役立たずの悪魔』とすら、ヒューゴは蔑んで呼ばれていたわけだが、ただ一度の戦争を機に、侮る人間たちは鳴りを潜めた。
とはいえ、そう言った人間たちこそ、ヒューゴを過剰に恐れたに違いない。
彼らが、バケモノと呼び始めたのだ。ヒューゴを。
それを。
(下心が透けて見える)
貴族たちを視界に収めたリヒトの黄金の瞳がますます冷めていく。
やがて。
口元だけで皇帝は笑い、告げた。
―――――よろしい、機会をやろう。
表情が消えた端正な顔立ちの中、黄金の双眸が物騒に輝く。
―――――あの悪魔を従えたいと思う者は手を挙げよ。
刹那、血の匂いのする笑みが、皇帝の口の端にたゆたう。
ぞっとする冷酷な表情。
言外の言葉を見誤るものはいなかったろう。
もし手を挙げたなら、その瞬間に首が飛ぶ。
眼前に死体が横たわったかのような空気の中、全員が一斉に息を潜めた。
…こうなると分かっていながら、彼らがいつもリヒトの神経を逆なでする発言をするのは。
―――――いつか、皇帝があの悪魔に飽きるんじゃないかって、みんな待ってるんだよ。
連中、機会を伺っているのさ。
そう、リュクスは言った。
(飽きるだって?)
本気でそんなことを考えているのなら―――――貴族たちの血肉はきっと、芯まで愚かさでできているのだろう。
「おこっているか、だって?」
ふ、息だけで、リヒトは笑う。
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