第一章 わたしもね、弟が欲しかったの
第1話 可愛らしい名前。
「麻乃がバラしてしまったんですもの、いまさらどう繕っても、後の祭りということなんでしょうね」
杏奈は何か憑き物が落ちたような表情をし、右腕を頭上に伸ばし、左腕は頭の後ろに回すようにして軽く背伸びをした。
「――んぅ……、最っ高の気分です。もう、思い残すことなんて……」
「ど、どうしたの?」
これ以上ないほどにため息をつく杏奈と、彼女の態度に少々驚く勇次郎。
「勇次郎様、
麻乃は『お姉ちゃん』というところだけ、勇次郎の声真似をした。微妙に似ているのが憎らしくもある。
「身もだえしそうなくらいに嬉しくて仕方ない状態を、噛みしめているところだったのです」
「はい?」
「詳しくご説明いたしますとこういうことに――」
しばらくは自分の世界にトリップしてしまい、
「
「うん、それは間違いないよ」
即答する勇次郎。お茶のお代わりを入れながら、うんうんと頷く麻乃だった。
「ある程度で構いません。勇次郎様、これから私がお伺いすることに対して、正直にお答えいただけますか?」
「あー、うん。いいよ」
「ありがとうございます」
杏奈はまだ戻ってきていないように思える。椅子に座り、自分自身を両手でぎゅっと抱きしめるようにして、何やらとても、幸せな白昼夢を見ているような表情。勇次郎と麻乃は揃って杏奈の状態を確認するが、お互いを見て、『まだ駄目ですね』という感じに頷いた。
「勇次郎様は、いつごろから杏奈お嬢様をご存じでしたか?」
「んっと。付属小三年のときだったかな? 運動会のリレーが始まったとき。僕は、あのときから競争は苦手で、見学だったから、羨ましくて選手に選ばれた人を見て応援してたんだ。それでね、お姉ちゃんがアンカーになってて、途中まではうちの組が先頭だったんだけど、半周差をひっくり返して優勝したときだったと思う」
「なるほど、そのときの映像は、静馬様が保存しておられます。もし見たいと仰るならば、可能だと言えますね」
「うん、できるならまた見たいかな? あのね、付属小のときはさ、クラスが違うと、ほとんど接点がないんだ。でもね、リレーのときに、名字だけは覚えてたんだ。学校と同じって珍しいなって」
「ふむふむ、それでは、次の質問よろしいですか?」
「うん、いいよ」
「杏奈お嬢様の、下の名前をお覚えいただいたのは、いつくらいでしょう?」
「うん。あれは付属中の一年の冬、生徒会に立候補してね『あの、運動会のリレーの子だ』って思い出したんだ。杏奈さんという可愛らしい名前なのに、しっかりした人だなってそう、思ったんだよね」
勇次郎が入学した年の十二月、確かに杏奈は立候補し、生徒会の副会長になったのは間違いない。もちろん、東比嘉の名前だけで当選したわけではない。
彼女は入学してすぐに、クラス委員に立候補。一生懸命掃除をしたり、体育祭の実行委員も兼務。クラスの皆が気持ちよく学校生活を送れるよう努力した。もちろん、成績も常にトップクラスを維持していた。
「可愛らしい、ですか?」
「うん。ほら僕は名前が勇次郎なんだ。付属一年のときは、ちょっとの間からかわれたこともあったんだ。『世界最強みたいな名前なのに、こんなに可愛らしいとか反則だろう?』って」
「……それはたしかに、としか言いようがございません」
「まぁ、否定はしないよ。僕の亡くなった父さんは、名前も『勇一郎』で、熊みたいに身体が大きな人だった、……からね?」
「なるほどです。……それにしても、勇次郎様は記憶力がよろしいのですね」
「うん。一度見たのはあまり忘れないから」
聡い麻乃でも、勇次郎が無意識に言った言葉が理解できず、若干首を傾げてしまう。
「……それでですね、杏奈お嬢様を意識されるようになったのは」
「意識、……というより。まぁお姉ちゃんの前で言うのは恥ずかしいけど、……憧れたのは、うん。去年の十一月」
勇次郎の『憧れた』という意味は、麻乃にも十分理解できているはずだ。
「あの表彰式で、優勝を逃して、悔しそうにしてたのはとても印象的で、忘れられなかったんだ」
ツール・ド・おきなわの表彰式で三位だったときの話だろう。あのとき実は、次年度の会長としての再選へのはずみにしようと思っていた面もあったはずだ。
「僕はね、多分知ってると思うんだけど、自転車オタクでもあるから」
「はい。存じております」
「あのレースよりも前に、知ってたんだ。それでね、当時噂になったんだ。あの年、副会長が自転車部にいて、もしかしたら、出るかもしれないって」
「なるほど、そうだったのですね」
杏奈は、運動にはかなり自信があった。毎日のトレーニングに取り入れていた、自転車での有酸素運動。本人はかなり得意にしていた。あのレースを選んだ理由も、『中学生以上の女子』という参加規定を知ったからだ。
そういう規定があるということは、中学生でも上位入賞できる可能性はあるはず。調べてみると、その前の年のタイムを知ることもできた。予習を兼ねて、同じコースを走った際、上位入賞タイムと遜色ない結果を出すことができてしまっった。
真面目にトレーニングしたら、勝てるかもしれない。杏奈はそう思っただろう。事実、優勝できなくて悔しがっていたのはその理由だったはずだ。ずっと杏奈を見てきた麻乃は、そのことも知っていたのだった。
杏奈は附属中学二年のとき、再選して生徒会長になった。当選したのを素直に喜ばず、なぜか悔しそうにしていたのは忘れられない。
「どんくさい僕には真似ができないけれど、同じコースを何度か走ったことがあるんだ。あの五十キロをね。競争は苦手だけど、ゆっくりなら余裕で走れたから」
「はい」
「僕だって、どれくらいのタイムで走ることができたなら、優勝できるだろう。それは知ってた。けれど僕にとって、それってあり得ないほどきついハードルに思えたんだよ」
「はい」
「だからね。僕は会長――お姉ちゃんに憧れた。僕も一緒に走ってるみたいな気持ちになれた。今年のレースなんてね、ゴールラインで叫んじゃったくらいだから」
「はい。存じておりました」
「あははは。知ってるんだ――」
「わたしがね、麻乃に話したんです」
「あ、帰ってきたみたい」
「お帰りなさいませ、杏奈お嬢様」
杏奈がやっと、自分の世界から復帰した。二人はそう思って、微笑んだだろう。
「帰ってきたとか、お帰りなさいとか、何気に手厳しいですね。……そう、あのとき私、聞き間違うわけがありません。勇きゅ――いえ、勇次郎君の声なんですもの」
(今、『勇きゅん』って言いそうになったような?)
勇次郎は内心、そう思って麻乃を見る。すると、『そうでございますね』という生暖かい生差しをしていた彼女の目で、納得してしまった。間違いなく杏奈は、口を滑らせてしまったはずだった。いや、杏奈が一人でいるときは、『勇きゅん』と呼んでいるのは間違いない、二人ともそう確信しただろう。
「表彰式に、勇次郎君にかけてもらったあの言葉。パソコンに残して、毎晩聞いて――」
(あやうく、スマホの着信音や、目覚ましの音にしてたとか口を滑らせてしまうところでした、……危ない危ない)
杏奈は内心ほっとしただろう。
「ま、毎晩?」
「……いえ。なんでもありません。テレビで確認した映像にも、勇次郎君の声が入っていたので間違いないと思っていたのです」
「あははは。あれ、録画してたんだ。母さんみたいな人だね。本当に」
母さんみたいな人、要は、縁子は録画して何度も見ていたからということだ。
「いえ、その、はい……」
「杏奈お嬢様」
「何よ?」
勇次郎は『あれ?』と思っただろう。彼への口調と、麻乃への口調が明らかに違う。
「先ほど仰られていたではありませんか?」
「何を、ですか?」
「『繕っても仕方ありませんよね』、と」
「あ……、そうでしたね」
「ほらほら、あのことを言ってしまいなさいな」
麻乃の口調も、変な感じになってる。
「何をよ?」
「あらら、言わないのなら私が代わりに。あのですね勇次郎様」
「何です?」
「杏奈お嬢様派ですね、勇次郎様の――」
「ファンよ、ファン。だってわたし、会員番号一番なんですもの」
「はい?」
「『勇きゅんファンクラブ』の……」
「ぐっはぁ……」
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