第7話 めがねめがね。
『ジリリリリリ――ン』
「……めがねめがね」
勇次郎は先に眼鏡を探し始める。彼の視力は良い方ではない。眼鏡がないと、ほとんど見えないの駄目な子になってしまうのだ。
「あ、あった。よかた……」
超薄型の圧縮レンズに、形状記憶合金製の、ラウンド型の細身のフレーム。眼鏡をしっかり、蔓の耳当てを軽く抑える。最後に、フレームを右手親指と中指で、アイアンクローをするかのように軽くつまんで、微調整する。
黒電話の鳴る音。それは古き良き昭和のアニメでしか、聞いたことがない音。なんとか受話器を探しあて、ベッドから這い降りて机の上にたどり着いた。
「は、はい。おはようございまふ……」
『――いえ、まだ夜でございますよ、勇次郎様』
「あ、麻乃さん?」
『はい。あなたの麻乃でございます』
(何言ってるんだ? この人は)
勇次郎はそう、内心思った。自分がまだ寝ぼけているのを棚に上げて、彼女をまじめにツッコんでいいのかどうか悩んでしまう。
『現在十八時過ぎでございます。これより一時間ほどではございますが、静馬様と縁子様が揃って休憩を取られるとのことです。杏奈様もお待ちになっておられますので、できれば勇次郎様も――』
「行くってば、どこ?」
『一階、エレベーターを降りて右奥にございます、食堂にてお待ちになられております』
「わかった。すぐ行くからって伝えて」
『承りました』
(さて困った。よれよれなこの格好で行っていいものなのかな?)
母の縁子はいいとして、静馬は父になって数日。実際合うのも二回目だ。杏奈は何度か顔を合わせてはいるが、プライベートでは皆無。
そんなことを考えていたときだった。『こんこん』という、ドアをノックする音が聞こえたのである。
「失礼いたします」
「え? え?」
「お悩みかと想いまして、馳せ参じた次第でございますが?」
「いやちょっと。確かにこの格好で行っていいか悩んではいたんだけど」
「左様でございましたか。こちらとこちらに、勇次郎様がお持ちになられた衣類が収めてございますが」
「あ、ありがとう――ってそれよりも、どうやって中に入ってきたの?」
「はい、こちらにマスターキーがこざいますので」
そう言うと麻乃は、自らの胸元から『すちゃっ』とカードキーを取り出した。同時に呆れたような表情になる勇次郎。
「それってさ、鍵の意味があるのかなって、思っちゃったんだけど?」
「私はほら、『お姉ちゃんのひとり』と自負しておりますので、勇次郎様のお世話を、父より――」
「お姉ちゃんのひとりって? どういう意味?」
「はい。私はこの春より、附属高校の二年に進級いたしましたので」
「え? 麻乃さんって高校生だったの?」
「左様でございますが」
「てっきり、成人してるものかと」
「そんなに老けて見えると……」
「いや、その、大人っぽくみえたから、ごめんなさいっ」
麻乃はその場にしゃがみ込んでしまい、目元に手を当てて悲しむような姿に見えてしまう。そこで慌てて、駆け寄る勇次郎と、その瞬間立ち上がる麻乃。
「冗談でございま――」
勢いでぶつかりそうになった勇次郎を、見た目以上に体幹が強く、倒れることなくしっかりと受け止める麻乃。
「つかまえた、でございますね」
「あ、もしかして」
「うふふ、女性を見た目で判断しては、痛い目に遭いますよという、ご注意をさせていただいただけでございます」
そのまま勇次郎の両脇に手を差し入れて、ひょいと持ち上げてしまう麻乃。体格も体重もさほど変わらないはずなのに、どこからこの膂力がでてくるのだろう?
彼を優しくベッドに座らせると、麻乃はクローゼットから服を選んでくる。選び終わるとベッドにそっと置き、スカートの裾を少しだけ広げるようにくるりと回り、回れ右をして『見てませんよ』という意思表示をする。
「そうだ。お姉ちゃんのひとりって、どういう意味だったの?」
「そうですね。私は学年がひとつ上ですし、七月末の生まれでございますので、今の勇次郎様より年上ということになるかと思います」
勇次郎は着替えをしながら、ついさっき思った疑問を再度ぶつけることにする。
「先日、静馬様と縁子様がご成婚されましたので、戸籍上も杏奈様が勇次郎様の姉となられましたもので」
「へ? どうして?」
「勇次郎様は、まもなくお誕生日で、確か三月二十八日だったかと思いますが?」
「そうだけど、あ、もしかして」
「はい。杏奈様は四月三日がお誕生日ですので」
「……そう、だったんだ」
勇次郎は、自分の生まれ月を計算に入れず、自分が兄になるという勘違いをしていたことになる。なにせ、勇次郎が兄になるには、杏奈は残り四日の内に誕生日を迎えないと無理ということになるからだ。
衣擦れの音が消えたことで、着替えが終わったと判断したのだろう。麻乃はくるりと再び振り向くと、勇次郎をベッドに座るように促す。
力では敵わないと思った勇次郎は、とりあえず抵抗しないことに決めたようだ。麻乃はそのまま、『
「まさか僕が弟だっただなんて……」
▼
「遅かったわね、勇次郎」
「そんなこと言わないでください。疲れてたんだよね? 勇次郎君」
待ちくたびれたという表情をする縁子に、静馬がさりげなくフォローを入れる。
縁子が腕時計をちらりちらりと確認するのは、職業病ともいえる。
「大丈夫。救急の患者が到着したら、俺にすぐ連絡が入るようになってるから」
「知ってるわ。でもね、落ち着かないのよ」
「うん。知ってる」
二人を見ると、何とも仲の良い感じがする。
縁子の向かいに座る杏奈の姿が見える。普段着とはいえ、清楚な白いワンピースの上から、同色のニットのカーディガンを羽織っているようだ。
ただひとつ違っているのは、表彰台でも、テレビのインタビューでも、それこそ学校でも、カチューシャで留めて前髪一本すら下ろさないアップのイメージがあった杏奈。それがどうだろう? くるくると自然に巻いたような、可愛らしい髪型になっているではないか。
驚いた。あんなに凜としていた
「どうぞ」
すっと椅子を引く大浜父。こんな扱いを受けるのは、勇次郎は初めてで戸惑うのは必然であった。
「お座りくださいまし。勇次郎様」
「あ、はい。すみません」
座る勇次郎。背筋を正し、前を向くと改めてわかる。この座席配置は、誰かが意図したものかもしれない、と。何せ、勇次郎の正面が静馬で、杏奈の正面が縁子なのだから。
その間に気がつけば、四人の前にグラスが配られていた。静馬と縁子のグラスには、琥珀色で炭酸の泡がたつ飲み物。銘柄を見ると、そこには縁子が平日に好んで飲む、ノンアルコールビールだった。
実は縁子は酒類が好きで、晩酌をしたいと常々言っていた。だが、看護師長という立場上、次の日に酒がのこってはいけない。万が一の呼び出しにも対応しなければならない。そのため、飲んだ気にさせてくれる優秀な、ノンアルコールの銘柄がお気に入りだったわけだ。
杏奈と勇次郎のグラスには、泡の立たないやや薄めの琥珀色をした飲み物。匂いから察するに、リンゴジュースなのだろう。
「それじゃ改めて」
静馬がグラスを右手で持ち上げつつ、口火を切る。それを見て、縁子も杏奈もグラスを持った。慌てて勇次郎も同じようにする。
「勇次郎君、縁子さんとの婚姻を認めてくれてありがとう。そしてようこそ、東比嘉家へ」
「そうそう。杏奈ちゃんがお姉さんになるのよね?」
「あ、それ、俺が言おうとしたんだけど……」
「いいじゃないの。結果は同じでしょう? 時間もないんだからはい、続き続き」
「こほん。では――」
「かんばーい」
「あ、縁子さん、酷いよ……」
軽く三つのグラスに音を合わせる縁子のグラス。
「んっ、んっ――ぷはぁ。相変わらず美味しいわ」
空いたグラスに、大浜父がお代わりを注ぐ。
「あ、美味しい。これ」
「杏奈様お気に入りの、青森産地直送のリンゴジュースなんですよ」
「麻乃っ、言わなくてもいいじゃないの」
「あら? ごめんなさいね。お姉ちゃんの威厳が、少しだけ剥がれてしまいましたね」
「んもう……」
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