砂世界での二人旅(ランデブー)

無限炭鉱

 噎せ返り、肺も喉もおかしくなりそうな暑く淀んだ空気が脳を侵してくる。

 怒号が飛び交い、空気を切り裂き、悲鳴の響く閉鎖空間。労働者は陽の光を拝むことすら許されず、ただただ体に鞭打たれ、無限に続く労働を繰り返すのみ。

 立ち止まれば鞭で打たれ、死ねばそれまでと捨て置かれる。ここで働く者であれば、生者も死者も等しく人権はない。

 

 今日もサイレンが鳴り響く。今日の終わりを告げ、部屋という牢獄へ戻される合図が耳に入る。


「おらゴミ共ッ!! とっとと部屋へ帰れッ!!」


 看守の腹いせで鞭打たれ、その場に蹲った少年を跨いで通り越す。

 構うだけ無意味。助けた方も助けられた方も追加で鞭打たれ、無駄な疲労を蓄積させるだけ。

 生き残った先に何もない。長く苦しい地獄が続くだけ。

 それでも困る誰かに手を伸ばさず、己の命を優先させる愚図共が集まる場。理由は違えど、人生に負けた落伍者が集う労働所。それがこの無限炭鉱インフベグ、終わりなき終わりの場。


「ほらよゴミ共。分け合って食べるんだな、ハハッ!」


 鍵を閉められ、看守が嘲笑いながら部屋へ夕食を投げてくる。

 土に汚れた固いパンが数個。それと汚れた水の入った瓶が一本だけ。部屋にいる人間の数を考えれば、どう足掻こうと足りない程度の数だ。

 

 のそりと立ち上がり、瓶に口を付け、パンを一つ取ってその場から離れる。

 量で喧嘩になることはない。久しく人員の追加がないこの部屋にそんな気力が残っている者は少なく、食わずに飢えることを望んで口を付けない者も少なくなかった。

 

 パンを唾液でふやかしながら、ゆっくりと噛み千切って喉へ流し込む。

 不味い。泥まみれで濁った汚水は喉に流しただけでも吐きたくなるし、このパンも食事と認めるには不快感の強い物体でしかない。

 けれど、それでも食べるしかない。食べなければ、次の日に待ち受けるのは死のみ。

 例えどれほど不味くとも。おおよそ人の中にいれるべきでない汚物だとしても。それしかないのであれば、そんなゴミを糧にせねば先はない。


 アーデンネルグと名乗った魔術師に飛ばされてから、どれほどの時間が経ったのだろう。

 あの傷でも何故か生存した俺は、この地獄みたいな炭鉱で働かされている。

 今でこそ他の囚人に紛れながら生活出来ているが、最初は言葉が通じずことある毎に鞭で打たれたり暴行を受けたりで大変だった。言葉を教えてくれたあの女も、一年も経たぬうちに屍と化した。

 

 終りの兆しすらない暗闇の道。出口の見えない絶望に、俺の心はすっかり折れてしまった。

 初めの一年はまだ復讐心に燃えていたと思う。こんな場所からはとっととおさらばし、村を滅ぼした元凶であろう魔術師を殺すのだと息巻いていたはずだ。

 

 だが、憎悪は朽ちぬとも冷めるもの。負の激情を持ち続けるには、ここは少し過酷すぎた。

 結局なにをしたって無駄。家族は、友人は、大切な人達は帰ってこない。

 俺は守れなかった。二度目のチャンスをもらっておきながら、それを自ら棒に振ったのだ。

 もっといくらでもやりようはあったはずだ。例え狂人と思われようと、父に相談しておけばもっとましな結末へ導けたのではないか。母に魔術の教えを乞えば、違う戦い方を見出せたのではないか。

 

 何度も何度も後悔する日々。止まってしまえばいつも、心の中はその後悔で満たされる。

 何も失わずにいようと抗った結果、何もかもを失った。今度はきっと、ルアリナですら生き残ってはいないだろう。彼女の生存の可能性は、俺自身が消し去ったのだから。


 ……疲れた。もう疲れたのだ。これ以上、余計なことを考えたくなかった。

 この生活だって、きっと愚かにも独りよがりで走った俺に対する罰。結末を知っていようが変えることの出来なかった、哀れな道化への褒美に違いない。

 この炭鉱で死ぬまで体を動かす。それが、それこそが唯一の贖罪になるはずなのだ。

 だから自害はしない。してはいけない。楽な救いへ逃げることなど許されない。

 こうして目を瞑って背けることは出来ても、投げ出すことなど俺自身が許せるはずもないのだから。



「ほう。久しく見ぬうちに随分窶れたのう? まるで物言わぬ屍のよう」



 誰かの呻きと嘆きのみ。それだけしかない空間で、甘い声が静寂を切り裂いた。

 こんな汚らしい場所に似つかわしくない、どこかで聞いたような甘ったるい砂糖菓子のような声色。

 今、この部屋に女はいなかったはず。例えいたとしても、こんな張りのある声で話せる者などいるわけがない。

 ……幻聴か。こんな場所で負け犬続けていたせいか、いよいよ俺も狂い始めたらしいな。


「ほれ返事をせよ。無力も二度目であれば、最早不敬であるぞ」

「……あ?」


 もう疲れたので眠ってしまおう。

 そう思いながら意識に蓋をしようとしたが、それでも誘惑の音は鼓膜を揺らしてくる。

 今度は聞き間違いではない。確かにその音は事実として存在し、俺へと矢印を向けられている。

 何故俺にであるかなど、その根拠となる情報は一つとしてない。

 ただその声は俺にしか聞こえていないのだろうと。

 俺のみに向けられた問いであるのだと、直感的に理解出来てしまったのだ。

 

 ゆっくりと、なるべく力を費やすことなく首を上げ、そこにいるべき何かのために目を開ける。

 二声を耳にし、何となくその正体に見当は付いている。

 忘れたくとも忘れられない声。心臓を、心を、己の中核たる魂を掴まれたかのような圧。

 

 覚えている。覚えているとも。忘れるはずなどあるわけがない。

 俺の二周の人生で最も理解の及ばない怪物。そんなものを記憶から追い出せるはずがないだろうに。


「……ホワイル、だったか」

「如何にも。儂こそがホワイル。久しいな、輪廻*****の眷属よ」


 欠けた右手以外を鎖に繋がれた赤髪の幼女。

 今やもう懐かしい、闘争熊バトルベアンドと殺し合った際に出会った正体不明。

 ホワイル。闘争熊バトルベアンドすら容易く屠る謎の塊。この場にいるはずのない、まごう事なき領域外があの日と何ら変わりない姿でそこにいた。


「……何のよう。いや、そもそもどこから湧いてきやがった」

「なに、暇潰しよ。やはりというか降り立つ時期が少しばかりずれていたようでの。ふと痕を付けた幼子のことを思い出し、縁を辿って遊びに来たというわけじゃな」


 ホワイルは汚れることなど気にも留めずに腰を下ろし、からからと笑い声を上げてくる。

 

「まあ所詮は仮初めよ。実体はなく、あくまでお主の独り言に過ぎん。……それにしても、随分とまあみすぼらしくなったものよ。これでは儂が愉しめぬではないか」

「……知るかよ」


 不満げな幼女に言葉を返し、自分が昔ほど彼女を恐れていないと気付く。

 不思議なものだ。あの頃は本能が拒否するくらい恐怖していたというのに、今じゃこの退屈な時間を潰せる話し相手としか思えていない。

 きっと埒外の怪物より、何もかも失った現実の方が怖いと思い出したからだろう。

 自分がどうなるより大切な人を守れないことの方が辛いのだと。そんな当たり前のこと、一度目ですら何度も味わっていたというのに。


「父さんは目の前で死んだ。母さんや妹も、俺なんぞに寄ってきた甘っちょろいガキ共すら守れなかった。むかつくが綺麗だったあの村も滅びた。守りたかったものは、動くべきは全部失ったんだ。俺だけ生きてて何の意味があるってんだよ……」


 言葉を紡いでいくにつれ、無意味な涙が瞳から零れて止まらない。

 どれだけ希望的推測を試みようと結局は無駄。俺のように事前に知っているか、或いはルアリナのように天性のカンで予兆を掴むしか、あの燃えたぎる地獄を生き残る術などない。

 全ては無駄だった。運命に抗うことなど出来ないのだと、世界に見せつけられただけだった。

 ……いや違う。俺がいけないのだ。俺が間違えたから、皆失った。俺が殺してしまった──。


「くだらん、実にくだらんよ小僧。その傲慢は只人が持つには過ぎたものよ」

「……何だと?」

「如何に加護を刻まれようが、所詮生き物きさまらは塵の一粒。風にすら飛ばされる程度の存在でしかないというに、何故他の命まで背負えると夢想する?」


 一瞬。思わず声を荒げてしまいそうになるが、無駄な労力だと勢いを萎ませる。

 彼女の言葉に嘲りなど含まれておらず、あくまで疑問でしかないもの。

 普人族ヒューリアとそれ以外ではなく。ヒトと獣、魔物それ以外ですらなく。

 もっと違う枠組みから異なる幼女に掛けるべき反論など、俺には思いつかなかった。


「そうだな。確かに俺には荷が重かった。だから全部落としちまった。もう二度と、大切だったあの人達に会うことなんて出来ないんだ」

「……そうか、合点がいった。ならば一つ垂らしてやろう。信じるか否かはお主次第でしかないが、それでも一縷の光となるであろう希望の糸をな」


 ……何を言ってるんだ。今更希望なんて明るいしらせなぞ、俺にあるわけがないだろう。


「生きておるぞ。お主の家族」

「……え」


 どくりと、胸が脈打つ音が体を駆け巡る。

 家族が生きてる。優しく暖かかった母が、強く勇敢だった父が、愛らしかった妹が。

 何を言ってるんだこいつ。何を馬鹿げたことを嘯いているのだろう。

 そんなこと、有り得るわけがない。ここでの日々の間に何度も何度も考え直して、それでもあの炎と屈強な猪豚族オーグの集団から逃れる術などないと、そう結論付いてしまったのだ。


「確かにあの腕の立つ戦士、お主の父親は負けて死んだがな。それでもお主と合流する前に豚共を切り捨て続け、見事住民の半分を逃がすことに成功したんじゃよ。無論、お主が望む者は全員な?」


 赤髪の幼女は鎖を引き摺りながら、あっけらかんと言葉を投げてくる。

 顔にも声にも嘘はない。そもそも俺を騙す意味も価値もないのは、俺自身が一番知っている。

 信じ切れぬ、けれど信じてしまいたくなる妄言。嘘か誠かさえ確かめようのない、霧のように掴めない情報の嵐に戸惑いを隠せず、とっさに手で口を押さえてしまう。


「うそ、嘘だ。だって死体はあんなに……」

「ま、信じるも信じまいも勝手。じゃが尋ねてやろう。小僧、お主はそれらの骸を確認したのかえ?」

「それは、それは……」


 けらけらと、からかうように口にされ、脳裏にその時の光景が鮮明に映し出される。

 無数の死体。村にいた住民、鍛冶屋、襲撃してきた猪豚族オーグ、そして父。

 ……見ていない。最早意識すら曖昧だったがそれだけは確か。もし彼ら彼女らの死体を確認していれば、そんな絶望を俺が覚えていないわけがない。

 

「どうじゃ小僧。その乾いた心に少しは火が灯うたか?」

「……ちょっと待ってろよ。今考えてるから」


 生きている。あの人達はまだ、この世界のどこかで息をしている。

 例えそれが醜悪な冗談だとしても。人を誑かす悪魔の妄言だったとしても。

 可能性は捨てきれない。捨てたはずの奇跡への渇望の燃料に、この幼女は火を付けてしまった。


 ならば踏み出さねば。一が零になるまで進み続けねばならない。

 それだけが贖罪。それこそが罪の精算。許されざる己に残された、命や尊厳よりも大事なことだ。


「ま、お主は既に奴の眷属。死の巡りからすら降ろされた亡者もどきに過ぎん。大方役目でも与えられたんじゃろうし、同じ平穏に浸かることはないかもしれんがのう」

「……関係ない。一目見れればそれでいい。家族あのひとたちが、あいつらが、前を向いて今日を生きているのなら、それだけで構わない」


 空っぽに燃料が注がれる。心が、脳が、魂がとっとと動けと騒ぎ始める。

 生きているのなら、彼女らはきっと俺達の死は乗り越えているはず。俺なんぞを愛してくれた人達が、前を向けないほど弱い人間であるわけがない。

 ならば俺に出来ることは一つ。死を乗り越えて先へ進んだ人達の邪魔をすることではなく、その光景を目に焼き付けて去ることだけだ。


 さあ立ち上がれ。準備を整えろ。

 目標は出来た。ならば今こそ、再び己の命を燃やすとき。持ちうる全てを費やし、こんな薄汚れた場所からとっとと出ていかなければ。

 どんな手段を使おうと構うまい。どうせこの身は既に汚れている。幾人を犠牲にしようと、どれほどの屍を踏み越えようと、最早向かうべき終わりは地獄に他ならないのだから。


「それでどうじゃ? その空洞は満ちたかえ? ま、聞かずとも目を見れば瞭然じゃがの?」


 赤髪の幼女ホワイルは目を細め、見透かしたように口を歪ませる。

 まるで彼女の掌の上。底知れぬ化け物の娯楽のために、その手をころころと転がされる球のよう。

 だがそれでいい。例え誰かの見世物だろうと、どんなに醜いと誹られたって構わない。

 

一月ひとつき待ってろ。見せてやるよ、退屈凌ぎの安い芝居を」


 自らへ課すように、目の前の怪物へ応えるように吐き捨てる。

 観客たる幼女は依然笑うのみ。そんな愉悦につられるよう、俺の口元は僅かに緩んだ。

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