第25話 メルキオール④
苦しいと、それが最初に感じた事だった。
胸に何かが重くのしかかり、息ができない。
体が動かない。
真っ暗闇の中に一人だ。
それに、間近にある何かからとてつもない圧も感じていた。
声を出そうとするのに、口に何かが張り付いたかのように言葉が出てこない。
また悪夢の続きなのかと思っていると、
「キティ、ダメよ。そこに乗っては旦那様が苦しくなってしまうわ」
その言葉にパチリと目を開けた。
直後、真正面には僕を見下ろす、青と緑の双眸が見えた。
君は今日も美人だねと言おうとして、声が掠れて出ないことに気付く。
視線を少し横に向けると、口を押さえて目を見開いて僕を見ているドリスがいた。
「誰かっ、誰か来て!旦那様が!」
バタバタと人が走る音が聞こえる。
どうやら僕はベッドに寝ていたようだ。
そこで、唐突に脳裏によぎった事は、
「アシーナは!?アシーナは無事なのか!?」
掠れた声ながらも、叫ぶ。
喉が裂けたように痛い。
そうだ、僕は、アシーナと夜会に参加していて、僕の飲み物、実際にはアシーナに渡された飲み物に毒が入れられていたんだ。
重たい体を無理やり起こそうとすると、僕に乗っていたキティが枕元側に移動した。
ロバートがすぐに駆け寄ってくる。
「落ち着いてください。アドニス様は、ご無事です。二ヶ月以上もの間、昏睡状態で目を覚さなかったのは、貴方様の方です」
アシーナが無事だと聞き、安堵するとともに、奥様ではなくアドニス様とロバートが言った事で全てを理解した。
僕の手足は前よりも細くなっている。
体も痩せてしまっている。
それが、眠っていた期間の長さを物語っていた。
二ヶ月以上も寝ていたのなら、その間に……
そうか。
アシーナは、もうここを去って、僕とは他人になったんだ。
これで良かったんだと思うけど、胸に穴がぽっかりと空いたような虚無感は否めない。
あれ?
でも、
「何で君はいるんだ?」
僕の枕元にいるキティに尋ねた。
アシーナがキティを置いていくなんて考えられない。
姿勢良く座って僕を見上げているキティは、話しかけられて首をちょっと傾げている。
「メルキオールさんが目覚めたって、本当!?」
バンっと、勢いよく扉が開かれた。
ああ、アシーナだ。
開け放たれた入り口に立つアシーナは、久しぶりに会えたせいか、より一層綺麗になったように見える。
この目で無事が確認できたから、もう充分だ。
充分なのだけど……
「アシーナ、君、痩せた!?ダメだよ、たくさんご飯をたべないと!」
「痩せたのはメルキオールさんです!!」
その剣幕にたじたじになった。
「私、心配で、本当に心配したのですから!!」
怒りながらボロボロと涙をこぼすアシーナがベッドサイドまで近付いてくると、僕の両手を自らの手で包み込み、そこに額をくっつけて、
「本当に、本当に、良かったです」
そう、言ってくれた。
それだけで、胸がいっぱいになった。
アシーナに聞きたいことがあったけど、それよりも先に、僕の元にたくさんの人が訪れた。
主に屋敷の使用人達だけど、医者の診察が終わると、あの日からの事を教えてもらった。
僕が吐血して倒れた直後、動揺したアシーナだったが、すぐにピオルネの毒のことを思い出してくれて、伯爵家に取りに行かせるように、その場にいたお祖父様が指示してくれた。
毒で毒を打ち消して、解毒薬を投与された僕は一命を取り留めた。
ただし、伯爵家に行ったりと、時間が経っていたため、二ヶ月もの間昏睡状態に陥っていたわけだ。
それで、アシーナに毒を飲ませようとした王女は魔塔に幽閉されたらしい。
そこは、アレキサンドラ城の城主が管理している場所で、アレキサンドラ城とは、どこの国にも属さない特別な場所だ。
城主には特別な使命があって、世界一の魔法使いが選ばれる。
そんなすごい魔法使いが、あの王女を管理させられるのも何だか同情するけど、アンディ王太子殿下がキレて、妹を殺しかけたから、殿下の友人でもあったアレキサンドラ城主が一生幽閉してくれる事になったとか。
塔とは言っても、地下にある牢獄に幽閉だから、城育ちの王女には厳しい生活が何十年と続くことになる。
当初は王女が悪魔憑きなのではないかと言われたけど、アレキサンドラ城主の見解では違うということだ。
あれが素なのだから恐ろしい。
まぁ、あの存在を二度と見なくてすむのなら、なんでもいい。
何よりも、アシーナの安全が守られるのなら。
「メルキオールさん、まだ目覚めたばかりだから体が辛いですよね。しばらく席を外しますのでゆっくり休んでください」
椅子に座って話を聞かせてくれていたアシーナが立ち上がったから、思わず声をかけた。
「待って、アシーナはまだここにいてくれる?この部屋じゃなくてもいいのだけど、まだ、この屋敷を去らないで欲しいんだ。あと少しだけでいいから」
「はい。メルキオールさんが許可してくださるのなら、元気になった姿を見届けてから引っ越したいと思っています」
「僕の許可なんかいらないよ。何をするにもアシーナの自由なのだから。これは、僕がお願いしていることであって……」
「はい。でも、今はお休みくださいね」
そこでニコッと笑いかけてくれたから、安堵してアシーナの背中を見送った。
部屋の中で一人になって、はっと息を吐いた。
気持ちの整理をするには、一人の方がいいわけではある。
正確には、一人ではないのだけど。
「キティがずっとそばにいてくれたんだね。ありがとう。君のご主人様に感謝だ。おかげで怖い夢を見ずに、明るい陽の下に戻ってこれたよ」
とうとう、僕とアシーナは離婚したのか。
それを、あと少しだけと引き留めて、未練たらしい。
「キティ。君しかいないから、言ってもいいかな。これから先、もう二度と口にはしないから、一度だけ。それで、きっぱりと諦めるから」
「アシーナを愛してる。アシーナを愛しているんだ」
バシャっと水が飛び散る音が聞こえ、出入り口の方を見ると、何かのはずみで開いたかのように、キーっと扉がゆっくりとした動きを見せていた。
開かれていく隙間から見えたのは、顔を真っ赤にしたアシーナが、僕と水がこぼれた床と手元の洗面器を見比べてオロオロとしていたということだ。
いつからいたのか、いや、それよりも、
「アシーナ、大丈夫か?」
「ひゃい、ごめ、だ、だだだい゙っ!!舌噛んだっ、あああ、拭くものをもらってきます!」
アシーナはすぐに扉の向こうに姿を隠し、その後、だだだだだと走っていく足音だけが聞こえ、広い部屋にぽつんと一人残される。
トンっと、キティの白くて小さな手が僕の膝に乗せられて、それがなんだか励まされているように思えたのだった。
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