第5話 なまえ 其の五 前編

 私の名前は、田中えり。

 

 旧姓、一橋えり。


 現在、私は、お腹の中に新しい命を宿している。


 何もかもが驚きの連続で、私はことを実感している。

 日に日に大きくなっていくお腹。時折感じる命の鼓動。これからどうなっていくのかということを考えると、希望で胸がいっぱいになる。


 こんな風に、私が大好きな人の子供を産む日が来るなんて想像もできなかった。



 私は、和菓子の老舗の名家に生まれた。地元に多くの小売店を出しており、父はその経営者である。


 私は幼い頃より言葉遣い、食事の作法、立ち居振る舞いの全てにおいて、厳しくしつけられた。世話係をつけさせられ、一人になる時間は、全くといっていいほど無かった。


 中学生になると、父の御得意先おとくいさきへの挨拶回りについていかされるようになった。そこで、何人かの男性を紹介された。

 私より歳上の大学生くらいの人ばかりだった。恐らく、私のお見合い相手なのだろうと容易に想像できた。

 愛想笑いを振り撒き、意味もなく相槌を打つ。知らない男性との中身のない会話は苦痛でしかなかった。


 どうして私はこの家に生まれてきたのだろう。ずっとこのままなのだろうか。誰かを好きになったり、胸が高鳴るような恋をしたりできるのだろうか。きっと、この家を守るために、どこの誰ともわからない人と結婚をさせられる父の道具でしかないのだ。そう思うと、もう消えてしまいたいと願うようになった。


 生まれた時から身体があまり丈夫な方でなかった私は、食事をほとんど摂らないようになり、みるみるうちに痩せ細っていったのだ。

 時折、意識がなくなることがあった。そんな時は、やっとこの場からいなくなることができると嬉しくさえなった。


 見るに耐えぬほど衰弱した私を心配した母は、私を入院させた。栄養剤の点滴をさせられ、意識が朦朧もうろうとする中、私は現実から離れた夢を妄想していた。それは、物語に出てくる強くて優しい王子様のような人と一緒に遊園地に行って楽しく過ごしていたものだった。


 突然の大声に夢の絵画が切り裂かれた。


「お前が甘やかすから、えりがこんな風にな

ったんだ」


「あなたが、えりを色々な所に引っ張り回すから、えりは疲れてしまったのよ」


「そんな事はない。あれはえりのためにやった事だ。私のせいではない」


 両親の言い争う声に私は現実に引き戻された。


 “やめて!二人ともやめてよ!”


 声が出ない私は心の中で必死に叫んだ。


「えり、どうしたの?大丈夫?」


 母が私を見て悲しそうな顔をしていた。私の目からは涙が溢れ、流れ落ちていた。私はかすかに聞こえるほどの声を振り絞った。


「け、ん、か、は、や、め、て、、、」


 母は、私の手を握って、「うんうん」と言いながら頷いていた。父も小さな声で「すまなかった」と言って椅子に腰を下ろした。

 少しホッとした私はそのまま眠ってしまっていた。


 しばらくして私は退院した。体調が万全という訳では決してないが、もう消えてしまいたいとは考えなかった。両親のことが心配なのが理由の一つ、もう一つはこれからは自分の意思で生きたいとも思ったのだ。


 高校を卒業し、大学生になった私はアルバイトを始めた。父からはお見合い話をされるが、キッパリと断り続けた。母も私の味方についてくれたこともあり、私はある程度の自由を手に入れる事ができた。


 アルバイト先は、母が紹介してくれた学習教材の出版社だった。私はそこの編集部で校正の仕事のお手伝いをさせてもらうことができた。


 文学部に進学した私は本を読むことが大好きで、いずれは私も小説が書けたらなぁと淡い夢を抱いていた。だから、このお仕事は私の未来に繋がる大切なものだ。それに活字を見るのがとても楽しいのだ。


 このときの私はとても充実していた。




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読んでいただき本当にありがとうございます。

今回は、前編、中編、後編の三部構成になっていますので、読み切りという形ではないですが、残りの二話も読んでいただけたら幸いです。

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