16:彼が頑張る理由
雨粒が踊るように沙良の赤い傘の上で跳ねている。
金曜日の放課後。
病院から出た後に降り始めた雨は徐々に勢いを増し、夕方六時を回ったいまではまるでスコールのような有様だ。
水たまりに足を突っ込んでしまった女子高生が悲鳴を上げ、高級そうなスーツを着たサラリーマンは一切の感情を殺したような無表情で雨の中を足早に歩いて行く。
足元の水たまりを豪快に跳ね散らかし、無邪気に喜んでいるのは小さな子どもだけだ。
重そうなリュックを背負い、野菜がはみ出したエコバッグを持った母親は死んだ魚の目で泥だらけの二人の幼児を見つめていた。
沙良は左手でしっかりと赤い傘の柄を握り締めながら親子たちの傍を走り抜け、目的地である十階建てのビルへ飛び込んだ。
入口で立ち止まって傘を振り、水滴を落としてからボタンで留める。
はやる気持ちを抑えられず、小走りに一階の受付へ行って手続きを済ませる。
いつも感じの良い受付の女性は「怪我が治って良かったですね」と微笑んでくれた。
顔なじみということもあって十秒とかからずに手続きは終わり、利用許可証を持ってエレベーターへ向かったが、あいにくとエレベーターは九階にいた。
到着を待ちきれず、沙良は左手にある階段を上り始めた。
軽く息を切らせて三階分の階段を上り切り、更衣室で着替え、ロッカーの鍵が入った鞄片手にいつもの部屋へ行く。
この時間ならリズムトレーニングも終わり、秀司たちは文化祭で踊る曲の練習をしているはずだ。
ノックすると、瑠夏の声で「どうぞ」と返ってきたため、元気良く扉を開け放つ。
「見て!! 治った!!」
沙良は拳を握った左手を高々と天に向かって突き上げながら後ろ手に扉を閉めた。
『REVERSE』が流れる部屋を見回して、すぐに異変に気付く。
部屋にいるのはダンスに適した服装をした瑠夏と大和だけで、秀司がいない。
「……秀司は?」
沙良は拳を解いて身体の横に下ろし、トーンダウンした声で尋ねた。
秀司は「自分がデートに誘ったせいで」と沙良の怪我に責任を感じている節があった。
(真っ先に完治を報告して、喜んで欲しかったのに……急用でもできたのかしら)
秀司に限ってサボりということはあり得まい。
花守食堂でのバイトも彼は無遅刻無欠勤で頑張ってくれている。
真面目に汗水流して働く秀司の姿を見て、あれほど頑なだった父も「今時珍しい好青年だ」と秀司に対する態度を軟化させ始めた。
昨日なんて秀司の賄いには特別に刺身までついていた。
「不破くんは休みよ。あんたと同じで、左手首をちょっとね」
男性ボーカルが歌う『REVERSE』をBGMにしながら、瑠夏は整った顔を曇らせた。
「まさか秀司まで階段から落ちて骨折したの!?」
「違う違う」
沙良が血相を変えて瑠夏に詰め寄ったからだろう、大和が慌てたように手を振った。
「少し痛むから、大事を取って休むってだけだよ。心配ないよ。学校では元気そのものだっただろ?」
その言葉を受けて、今日の学校での秀司の様子を思い返してみる。
(左手を痛がるような素振りなんてなかったわよね。顔色も特に悪くなかった、はず)
至って健康そうだった、と思う。
「……うん。少し痛むだけ、なのよね。それなら大丈夫よね」
「さあね。本当に大丈夫かどうかなんて本人にしかわからないわよ」
瑠夏の言葉は沙良の不安を煽るものだった。
「どういうこと?」
何か知っているのかと、反射的に瑠夏を見る。
「どういうことも何も、言葉通りの意味よ。どれだけ痛いかなんて本人にしかわからないでしょう? あたしも反省してるのよ」
瑠夏は窓の外に目を向けた。
雨は銀色の線となって地上に降り注ぎ、窓を濡らしている。
「いくら頼まれたからって、あたしの指導は厳しすぎた。不破くんは優秀すぎて、スポンジみたいにあたしの言ったことをなんでもすぐに吸収してくれるから、つい限度を忘れてしまった。不破くんは人一倍努力家で、期待には全力で応えようとする人だってわかってたのに」
瑠夏は自分の鞄から黒い扇子袋を引っ張り出し、中の扇子を抜き取って沙良に渡した。
「『もし今日の練習に使うなら』って渡された不破くんの扇子よ。沙良は不破くんみたいに、利き手じゃない左手でその扇子を自在に操れる? 曲に合わせて踊ることができる?」
沙良は緑と青のグラデーションがかかった扇子を左手で開いた。
秀司が使っているのは通常の扇子と開く方向を反対にした、左利き用の扇子だ。
やはり利き手の右手で扇子を操るのとは勝手が違う。
動作がいちいちぎこちなくなってしまい、頭の中で流した『夜想蓮華』に合わせて大きく動いているうちに手元が狂って扇子を床に落としてしまった。
「……一朝一夕には無理よ」
「そうね。あたしにも無理よ。でも不破くんは練習初日から違和感なく扇子を操った。利き手が左手じゃないことを完全に忘れさせたの。参るわよ。涼しい顔の裏で、何時間練習したんでしょうね」
瑠夏の言葉を聞きながら、沙良は屈んで扇子を拾った。
秀司が文化祭のダンスのために買った左利き用の扇子は、汗と手垢によって持ち手部分がわずかに変色していた。
沙良の赤とピンクのグラデーションがかかった扇子は変色なんてしていない。
秀司は一体何時間この扇子を握ってきたのだろう。
当たり前のような顔で美しく踊る、その裏で、どれほどの練習と研鑽を積んできたのだろう――。
沙良は唇を噛んだ。
二人で踊る曲はどうしようかという話になったとき、『夜想蓮華』が良いと言ったのは秀司で、左右対称の動きをしたいと言い出したのは沙良だ。
男女が左右対称の動きで踊るネットの動画を見せながら、私もこんな風に踊りたい、これをやろうと我儘を言った。
考えなしに二人に憧れた沙良と違って、秀司は踊っていた男性が元々左利きであることを一目で見抜いたはずだ。
右利きの自分が左利きの男性の踊りを踊るのは難しいと言ってくれれば良かったのに、秀司は迷うことなく「いいよ」と言った。
こともなげに――何の問題もないとばかりに。
「……左手を重点にして踊るって、難しいじゃないのよ。わかってたのなら言いなさいよ、馬鹿。そしたら左右対称の動きなんて止めて、普通に踊ったのに」
「言うわけないよ。花守さんがやりたいって言ったことなら、秀司は何が何でもやるよ」
大和はこの二週間ですっかり見慣れたスポーツドリンクの蓋を閉じて言った。
恐らくスポーツドリンクを買うための代金は予め秀司が渡していたのだろう。
「そうね。ここだけの話、ここでの練習が終わった後も、日曜日もあたしは不破くんの練習に付き合わされてたのよ。文化祭では絶対に失敗したくない、完璧に踊りたいからって」
「え……」
沙良は目を見張った。
月水金はダンスの練習で、火木土は花守食堂でのバイト。
さらに日曜日までダンスの練習をするのでは、秀司に自由時間などないではないか。
ダンスやバイトに励む傍ら、秀司は勉学だって怠っていない。
おとついの抜き打ちテストでも満点を取って93点だった沙良を悔しがらせた。
「俺もここだけの話」
大和は人差し指を唇に持っていき、『秀司には内緒にして』と暗に伝えてから言った。
「フリーバスケを止めたのは秀司に頭を下げられたからだよ。どうしても文化祭を成功させたいから協力してくれってさ。あいつが俺に頼みごとをするなんて珍しいことなんだよ、本当に。あんな真剣な顔で頼まれたら、ダンスに専念する以外の選択肢なんてなかったよ」
苦笑して、大和は腰に手を当てた。
「どうして……」
思わず呟く。
――文化祭が終われば私の役目は終わり。すぐ別れるのに、どうして一緒に踊ろうなんて言い出したの? たとえ嘘でも、付き合った記念に思い出でも作ろうと思ったの?
その質問に彼は答えてくれなかった。
――本当にわからない?
(わからないわよ)
胸が苦しくなり、沙良は胸元をぎゅっと握った。
「……私との思い出作りのためなら、適当に踊って終わりにすればいいでしょう。それなのに、そんなに必死になって――そうまでして私と踊って、一体何になるっていうの……」
(文化祭が終わったら、私とはすぐに別れるつもりなんでしょう? 文化祭が終わってもしばらくはカップルのフリを続けてくれって言っても、頷いてくれなかったじゃない)
だから、文化祭が近づくにつれて沙良は悲しくなった。
嘘でも『彼女』を公言できるのはいまだけだと、隙を見ては秀司の傍へ行き、毎日を噛みしめるように過ごしてきた。
この前の日曜日は秀司と一緒に映画を見に行った。
終始ドキドキしっ放しで緊張したけれど、まるで夢のように楽しかった。
映画の後に立ち寄ったゲームセンターで秀司が取ってくれた猫のぬいぐるみは、沙良の部屋に大事に飾ってある。
(ねえ、私は期間限定の彼女なんでしょう? 文化祭が終わったらこの夢は終わってしまうんでしょう? なのに、どうして……)
「どうして秀司はそんなに頑張るの……秀司が何を考えてるのかなんて、ちっともわからないわよ……」
泣き声のような声が口から洩れ、沙良は俯いた。
「本当にわからないの?」
間髪入れずに瑠夏が言った言葉は、奇しくも秀司が言ったそれと全く同じだった。
顔を上げれば、瑠夏は呆れと非難が入り混じったような目で沙良を見ている。
「……瑠夏はわかるの?」
「馬鹿じゃないの。誰にでもわかるわよ。ああもう」
苛々したように瑠夏は細い手で自分の髪をかき混ぜた。
「言うの?」
大和は片手に持っていたスポーツドリンクを棚に置き、意味ありげな目を瑠夏に向けた。
その台詞と表情からして、彼は瑠夏の言わんとすることを察しているらしい。
「ええ、もう黙ってられない。あたしが言うのはルール違反だろうけど、このままじゃあまりにも不破くんが報われないから教えてあげる」
瑠夏は細く息を吐いてから、強い目で沙良を射抜いた。
「あんたのためよ。それ以外に理由なんてあるわけないでしょう」
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