14:レンタルスタジオにて
百年以上の歴史を誇る三駒高校は多くの政治家や著名人を輩出している名門校だ。
社長令嬢や令息、あるいは官僚や弁護士や医者の子どもが通う三駒高校は最新設備が整っていて、全教室冷暖房完備。
グラウンドは広く、体育館や講堂といった施設はどれも立派で、ダンス部にはなんと大きな鏡付きの専用スタジオがある。
ダンスの練習場所としてそこを借りられるなら話は早かったのだが、ダンス部もまた部の威信を賭けて文化祭に出場するのだ。
夜遅くまで残って練習している彼らにスペースを貸してくれなどと無理は言えない。
そこで秀司は都内のレンタルスタジオを借り、文化祭が終わるまでの拠点にした。
瑠夏や大和が頑張ってくれたおかげで企画は無事に通り、沙良たちは文化祭の二日目に講堂で踊れることになった。
後は全力で練習に励むのみだ。
秀司は花守食堂でのバイトを火木土の週三日に抑え、月水金の放課後は練習に参加している。
大和は結局、フリーバスケの話を断ってダンスに専念してくれていた。
恩義に報いるためにも、四人でのダンスは絶対に成功させたい。
「はい、ストレッチ終わり。アイソレいくわよ」
二週間後の水曜日、午後五時過ぎ。
レンタルスタジオの三階の一室で、黒いTシャツに臙脂色のズボンを着た瑠夏は両手を叩き、壁一面に貼られた鏡に向き直った。
三人で三角形を描くように、彼女の斜め後ろには秀司と大和が立っている。
二人ともTシャツにズボンと、講師役の瑠夏と良く似た動きやすい格好をしていた。
瑠夏からのアイコンタクトを受けた沙良は瑠夏のスマホを操作し、スピーカーから曲を流し始めた。
「まずは首からね。はい、下、上、下、上……もっと早く。下、上、下、上。次、右、左、右、左……」
音楽と瑠夏の声に合わせ、両手を腰につけた秀司たちは首を動かす。
三人が行っているのは『アイソレーション』。
首や肩、胸や腰などの身体のパーツを独立させて別々に動かす基礎トレーニングだ。
テンポ良く曲に合わせて自由自在に身体を動かすにはこの練習が不可欠である。
(……首や肩を動かすのはともかく、真顔で腰を動かすのは何度見ても、ちょっと気まずいと言うか……恥ずかしいと言うか……)
左腕を負傷している沙良は彼らから離れた場所で一人、動かせる範囲で身体を動かしているが、鏡に映る自分の顔はほんの少し赤くなっていたりする。
(いや決して邪念を抱いているわけではないんだけども! 見る側じゃなく踊る側になればそんなこと言ってられないんだろうけども! うう、私も早くあっちに行きたい。左腕に負担をかけないよう軽くじゃなく、全力で踊れるようになりたい)
俯いてポニーテイルを身体の前に垂らし、左腕のギプスを摩る。
金曜日には病院で怪我の治り具合を診てもらう予定だが、完治していることを願うばかりだ。
(早寝早起きを心がけたし、カルシウムを多く含むワカメやひじきや嫌いな納豆だって我慢して食べてきたでしょう。頼むから治ってて。一刻も早く私に練習させて、お願いよ。この三人ときたらめちゃくちゃ上手なんだもの。一人だけ悪目立ちしたくない!)
左腕に念を送っている間にアイソレーションの練習は終わり、続いてリズムトレーニングが始まった。
スピーカーから流れる曲に合わせて三人が膝を曲げ、伸ばし、『アップ』と『ダウン』のリズムを取る。
「横移動入るよ! 左、右、左、右! 戸田くん、膝を曲げるときは膝と足のつま先を揃えて! もっと身体を柔らかく、動きをしなやかに! 肩を上げて! 指先まで意識しなさい!」
自身も踊りながら瑠夏は次々と的確な指示を出していく。
「はい、十分休憩ね。お疲れ様」
スパルタ教育を施した後、瑠夏がようやく休憩を入れた。
「あー、疲れたあ」
大和はスタジオの床に寝転がった。
秀司は無言で腰を落として天井を仰いでいる。
疲れすぎて言葉を発する気力もないようだ。
「二人ともよくついてこれるわ。あたしが通ってたダンススクールでは上級クラスの内容なのに」
棚の上のスポーツドリンクを取り上げて、瑠夏は腰に手を当てながら勢い良く飲み始めた。
「激しく踊りながら声を出すのは大変でしょう。瑠夏もお疲れ様。講師役を引き受けてくれて、本当にありがとうね」
沙良は水分補給中の瑠夏に近づいて言った。
「いいわよ。不破くんには十分すぎる報酬を貰ったからね。ふふ……『maximum』 では夢のような体験をさせてもらったわ」
首にかけたタオルで額の汗を拭い、瑠夏は幸せそうに目を細めた。
(あ、始まっちゃった……)
日曜日の夜、瑠夏は秀司と『maximum』に行ったことを電話で報告してきた。
一時間以上も筋肉講座を聞かされた沙良はうんざりしてしまい、どうにか話を切り上げて終わらせたのだが、やはりまだ語り足りなかったらしい。
「猪熊選手に『三角チョコパイが食べたいです』って言ったら、すかさずマスキュラーポーズをしてくれたのよ。これまであたしは告白してきた男子に片っ端からその言葉を言ってきたわ。でも、みんな『わかった、探してくる』とか『何言ってんの?』みたいな反応で、全く通用しなかった。ボディビル大会を見ていれば正解はすぐにわかるはずなのに、これだからモヤシは……」
瑠夏は眉間に皺を寄せ、舌打ちでもしそうな形相だ。
(一般男子をモヤシと形容するとは……ボディビル大会なんて大抵の人はチェックしてないと思うよ? 瑠夏に告白した男子たち。フラれてショックだったと思いますが落ち込むことはありません。相手が悪かったんです)
沙良は見知らぬ男子たちのことを思い、心の中で合掌した。
「あたしのことが好きだというのは口先だけで、誰もあたしの嗜好をわかってくれなかった。悲しかったし、虚しかったわ。でもね、猪熊選手は瞬時にあたしが何を求めているのか理解し、無茶ぶりに応えてくださったの! なんて優しい方なのかしら。あたし、一生彼を推すわ……!」
胸の前で手を組み、天井を見上げる瑠夏の瞳は星のように輝いている。
「ごめん私二人に飲み物渡してくる」
反応に困った沙良はスポーツドリンクを二つまとめて右手に持ち、そそくさと退散した。
まだ寝転がっている大和の元へ行き、隣に屈んでスポーツドリンクを渡す。
「飲めそう?」
「ああ、ありがとう……」
のろのろと大和は起き上がり、スポーツドリンクを受け取って飲み始めた。
「秀司もどうぞ」
「ありがと」
秀司も片手でスポーツドリンクを受け取った。
(いや、このスポーツドリンクは秀司が用意してくれてるものだから。お礼を言う必要ないんだけどね)
蓋を開けて飲み始めた秀司を見つめながら思う。
ついでに言うならレンタルスタジオの料金だって秀司が全額払ってくれている。
休憩時間の十分が経過した後、瑠夏たちは文化祭で踊る曲を練習し始めた。
一曲目は山岸が勧めていた『Eternal Flower』、これは世界的にも有名なゲームの主題歌だ。
二曲目は外国のアイドルグループが歌う『REVERSE』。
『Eternal Flower』と『REVERSE』の二曲を踊り終えた大和は壁際に行き、ビデオを用意し始めた。
その間に沙良は瑠夏のスマホを操作して三曲目の『夜想蓮華』を流す準備を整える。
「行くよー」
「OK」
瑠夏は扇子を持って秀司の隣に立ち、沙良の代わりに踊り始めた。
四人で顔を突き合わせて考えた難しい振付を、瑠夏と秀司は難なくこなしていく。
華麗な足捌きでステップを踏み、指先までぴんと伸ばして左右対称の動きを作り上げ、それぞれ右手と左手に持った扇子を宙に踊らせる。
何も言わずとも二人は目と目で通じ合い、次にどう動くか互いの意思を汲み取っていた。
まるで水が流れるような、歯車が寸分の狂いなく噛み合うような動きで二人は踊り、やがて曲が終わった。
「すげーな、練習始めてたった二週間なのに、もう完璧じゃん。ダメだしするところがないよ?」
ビデオカメラを片手に持ち、前方で撮影係をやっていた大和が興奮気味に二人に近づいた。
「そうかしら。確かに不破くんは恐ろしい速度で上達したし、このままステージに立っても恥ずかしくないレベルよ。それでも、『完璧』を目指すならまだ改善すべきところはあると思うわ」
四人で録画していた映像をチェックする。
瑠夏たちの踊りはとても上手だと思っていたが――
「止めて。ここ、腰の使い方がなってないわ。ちょっと立って。左足を一歩分横に引いて。重心はもっと下に置いて。目線は前。腕の角度はこう、この角度」
少しの妥協も許さない鬼講師と化した瑠夏はぐっと秀司の腰を押さえつけ、左手首を掴んで理想のポーズを取らせた。
「次はここね」
再生していた映像を止めて、瑠夏は再び秀司の身体に手をかけた。
「ここはもっと胸を張って、背筋を伸ばして。手首の角度はこうよ。扇子がぶつからないようにギリギリを攻める感じで――」
瑠夏は問題だと感じた個所を再現させては力技で修正し、秀司の身体に覚え込ませている。
(よく瑠夏は平気で秀司に触れるわね。異性の身体に触れることに対する照れや羞恥は全くないのかしら。瑠夏の目には筋骨隆々の男性以外はみんなモヤシにしか映らないのかも?)
秀司の腕を掴み、身振り手振りを加えて熱心に解説している瑠夏を見つめていると。
「何よ? なんか文句でもあるの?」
急に瑠夏が冷えた声を出した。
彼女は不愉快そうに片眉を上げ、掴んでいた秀司の腕を離し、射殺すような目で沙良を睨め付けた。
空気が凍り付き、場が静まり返る。
隣の部屋から微かに音楽と足を踏み鳴らす音が聞こえた。
「え……文句なんてないよ? どうぞ続けて」
何が瑠夏の癇に障ったのかわからず、狼狽しながら促す。
「本当にそう?」
瑠夏は人形のように美しい顔をますます険しくした。
「じゃあなんで不破くんに触れる度に物言いたげな目であたしを見るのよ。いままで我慢してたけどもう限界。どうせ『私の彼氏に気安くベタベタ触るんじゃないわよこの女狐』とでも思ってるんでしょう」
瑠夏の目には殺気すら篭っていた。
「そんなこと思ってない――」
「はっ。こっちは真剣だっていうのに、馬鹿馬鹿しい。やってられないわ。あたしの指導方法に文句があるなら自分でやりなさいよ。どうぞお好きに」
瑠夏は吐き捨てて自分の荷物を取りに向かった。
「待って、文句なんてないってば!! 瑠夏には感謝しかしてないわよ!! どうしてそんなこと言うの!?」
沙良は瑠夏に抱き着き、固定された左腕以外の身体全部を使って必死に止めた。
抱き着いた拍子に眼鏡がずれ、視界の上半分がぼやけて見にくくなってしまったが、右腕は瑠夏の身体に巻き付かせているため位置を直す余裕はない。
「長谷部さん。どうしたんだよいきなり」
歩み寄ってきた秀司も困惑顔だ。
「とにかく落ち着いてよ。そうだ、飴食べる?」
大和は鞄から急いで飴を取り出し、半ば強引に瑠夏の手に握らせた。
「………」
瑠夏は無言で手の中の飴を眺めている。
緑色の包装紙にメロンの絵が描かれた、何の変哲もない飴だ。
それでも、その飴は瑠夏に鎮静効果を与えてくれたらしい。
瑠夏の身体からふっと力が抜けるのを肌越しに感じた沙良はきつく巻いていた腕を離した。
右手の人差し指でずれた眼鏡の位置を戻し、祈るような心地で親友を見つめる。
瑠夏はやがて小さく息を吐き、飴を握った。
「苺味もあるよ?」
瑠夏が飴を受け取ったことに安堵したらしく、大和は頬を緩めて言った。
「そんなに気を遣わなくてもいいわよ……ごめんなさい。あたしを見てた沙良の視線が嫌な女と重なったの。昔の忌まわしい記憶を思い出して、暴走してしまったわ。今後は気を付ける。もう二度と失態を晒したりしない」
飴をズボンのポケットに入れた後、瑠夏は身体の前で両手を重ね、深々と頭を下げた。
「……練習に戻りましょう。まだあたしを講師だと思ってくれるのならね」
瑠夏は自嘲して歩き出そうとしたが、その手を秀司が掴んだ。
「その前に詳しく聞きたい。忌まわしい記憶って?」
秀司はすぐに手を離して座り込んだ。
瑠夏は迷いを見せたものの、おとなしく座った。
沙良も大和もその場に腰を下ろす。
この二週間、練習の日々を積み重ねてきたおかげで四人の間にはダンス仲間としての連帯感が生まれている。
瑠夏が変貌した理由を、きっと全員が知りたいと思っていた。
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