第3話
時間は9時半を回っていた。問題の時間まであと30分といったところ。
自分の部屋からノートパソコンを持ち出してきたしぃちゃんが広いリビングでそれを起動する。今ではどの家庭にも一台はある便利な機械は聞きなれた起動音とともにその活動を開始した。
あとは時間が来るのを待つばかりだ。
「ひー坊さぁ、何で眼鏡なんか掛けるようになったの?目悪くないっしょ?」
待つのが退屈になったのか、ちひろがあたしに絡んできた。多分こいつは黙っていると死んでしまう人なのだろう。
「でもまぁ、あえて眼鏡っ子を選択するとは、やはり私の目に狂いはなかった。偉いぞ!ひー坊。さすがによくわかってる」
何の話だ何の。
「いやいや結構。ところで、美月姉さん。あの話はどうなってます?」
と突然話の矛先を変える。ホント忙しない奴だ。
「ご安心ください。万事抜かりはありません。ですよね宏樹さん?」
「まぁな。約束は守るさ。だからお前も約束は守ってもらうぞ」
「そりゃもう、こんなオイシー話ありませんよ。なぁひー坊」
――いや、
全然話が見えないんだけど、あなたたち何の話してますか?
「いや、ホント、文化祭楽しみですねぇ、美月姉さん?」
「そうですね。正直に言いますと私も少しワクワクしています」
うふふ、あははとすごく嫌な笑みを浮かべるふたり。もしもし美月さん。あなたいつの間にそんな悪魔めいた笑みをマスターしたんですか?あたしとても怖いです。ガクガクです。
いや、マジで嫌なんですけど……あなたたち、一体何を企んでます?
そのとき、10時1分前にセットしておいたタイマーがピピピと鳴った。
パソコンの前に座るしぃちゃんの肩越しに緊張が伝わってくる。
しぃちゃんは、既にチャットルームに入っていた。「See」というのがしぃちゃんのハンドルネームだ。なるほど「See」=「しぃ」ね。
しばらくすると画面に変化が生じた。「ピローン」って、感じの効果音を発して、別のユーザーが入ってくる。
「ほ、ホントに来たよ」
近くでちひろが息を飲む気配が伝わってくる。
入ってきたのは聞いていたとおり「Hiro」というハンドルネームを持つユーザーだった。
時間は丁度午後10時を指していた。
Hiro: こんばんは、Seeさん。
Hiroの第一声がそれだった。普通ならどうってことのない挨拶の言葉だ。だが、それは、自分と同じように生き、自分と同じように笑う相手がスクリーンの向こう側に居ることを疑わない時にのみ成立する限定的なコミュニケーションに過ぎない。
今はその前提が成立しない。相手は――死人なのかも知れないのだから……
「しぃちゃん大丈夫?あたしが変わろうか?」
「う、ううん……大丈夫」
そう言うとしぃちゃんは割と慣れた手つきでカタカタと言葉を刻んでいく。
See :こんばんは
Hiro : 昨日はどうもありがとう。また話すことができて嬉しいよ。
See :そうですね
しばらく取り留めのない会話が続く。以前教えたアプリは試してみたのか、その後のパソコンの調子はどうなのかなど、傍から見ると何の変哲もない会話が展開される間、誰も言葉を発しないのはやはり異様な雰囲気だった。無言の会話。果たしてこれは会話なのだろうか?
会話は進み、最初はためらいがちに言葉を紡いでいたしぃちゃんの手も少しずつ滑らかさを取り戻していく。普通の会話、それは何処にも不自然なところはなく、ごく当り前で、どこまでも続くようにすら感じた。日常と非日常、現実と非現実、あちらとこちら、そのあいだの不思議な均衡。
不意にその均衡が破れる時が訪れた。
ためらいがちに手を宙に泳がせたあと、小さく息を吐き、しぃちゃんはゆっくりと確かめるようにキーボードを叩いた。そして最後にもう一度ためらった後、エンターキーを押す。
スクリーンに文字が刻まれた。
See :あの、あなた誰ですか?
Hiro: え?
See :谷口君じゃないですよね?
Hiro :よく意味がわからないんだけど、どういう意味?
しぃちゃんの手が止まる。
どう反応していいのかわからず戸惑っている。そういう様子だった。
「しぃちゃん、代わって」
「え、でも?」
「いいから」
このままじゃ埒が明かない。そう判断したあたしは半ば強引にしぃちゃんと交代すると、タイピングを開始した。
See :あんた誰?
Hiro:だから、誰ってどういう意味? よく意味がわからないんだけど、
イライラする。スクリーンの向こうで、相手が恐怖するのを見てニヤニヤ笑ってる奴がいるかと思うと、無性に腹が立った。
See :とぼけてもダメだよ。谷口比呂人は既に死んでいる。わかってるんだ。だからあんたがHiroであるわけがない。
Hiro: なに言ってるのSeeさん。僕はHiroだよ。どうしちゃったの?おかしいよSeeさん。
See :あたしはSeeじゃない。
暫く間があく。新たに文字の刻まれることのないスクリーン。
空白の期間が嫌に長く感じられる。逆に、その空白によって見えない何かがじっと何かを考えている姿が見える気がした。
時計の秒針がちょうど半周するくらいの時間を置いてから、Hiroが返答を返してきた。
Hiro:Seeさんじゃない?
See:ああそうだよ。あたしはSeeの友達。あんたが何の目的でSeeを怖がらせているかは知らないけど、Seeは嫌がってる。だから金輪際こんなことはやめろ。今度こんなことをしたらタダじゃおかない。
Hiro:タダじゃおかないって何が?
くそー、滅茶苦茶腹が立つ。何も起きないところを見ると、やはり悪戯の類なのだろう。できるなら、今すぐにでも締め上げてやりたいところだ。
See :とにかく、Seeはもうあんたとチャットするつもりはないから、あんたもやめろ。
Hiro: それはできない。
できない?何言ってるんだこいつは。
あたしが再び文句を打ち込もうとするよりも早く、Hiroは矢継ぎ早に言葉を打ち込んできた。
Hiro: そうか、君はSeeさんの名を騙って、僕とSeeさんの仲を引き裂こうとしているんだね。
Hiro: だとしたら、僕は君を許さないよ。
Hiro: Seeさんは、僕を認めてくれた。だから僕はここにいる。それを邪魔するというなら
――僕は君を消去する
と突然画面がブラックアウト。
「――あれ?」
おかしいな。あたしなにも――!?
ゾクリと悪寒を感じ、あたしは思わず飛びのいた。
――何?今の?
「ん?どしたひー坊。ありゃ、こりゃ壊れてますね。こういうときは叩けば直ると昔から言いまして…」
待て待て。あんたいつの時代の人だ?いやそれはいい。ツッコミどころの多い発言だが、ちひろ、本当に言うことそれだけか?
あたしは見た。何も映さない液晶画面、そこから伸びた真黒な……手?
それは画面から這い出るように徐々に姿を現す。
黒い人……顔のない黒い影。奇妙にデフォルメされたその人型は、画面から這い出ると、何もない顔をあたしに向けて――
嗤った。
パックリと三日月のように裂けた口。
ケタケタケタと異形が嗤う。
黒い体になにもない顔――
マンガの世界から抜け出してきたようなそいつは、周囲の世界とは完全に切り離された存在であり、滑稽であり、馬鹿げていて、
それだけに文句なく――怖かった。
「おい、ひかり!大丈夫か?どうした?」
「ひ、宏樹、あんたたち本当にアレが見えないの?」
「はぁ?何言ってるんだおまえ?」
「あ、あはは……そうだよね?」
だってあんなのいるわけな――
パリンと乾いた音。あたしのそばで皿が爆ぜる。
そして、カタカタカタと揺れ出す本棚。ケタケタケタと嗤う黒い人。
「うわ」
「きゃ」
「な、なにこれ!?」
飛び回る様々なもの。混乱する周囲の空気。非現実的な光景――だけど、もはやそれは疑いなく……
「ひかり、これは純粋に友人として君に忠告しておくけど」
唐突に、神無が耳元でそんなことをつぶやいた。珍しく馬鹿にしたような笑いがその表情から消えている。
「逃げた方がいい。アレの狙いは君だよ。否定したい気持ちはわかるけど、今はその原初の感覚を信頼すべきだと思う」
「あ、あたしって、なんで!?」
「さぁ、それは多分、君がいちばんわかってると思うけど?」
ユラリとあたしに向けて影が動く。何もない顔。だけどわかる。そこにあるのは暗く澱んだ虚ろな魂……その暗さに思わずゾッとする。
嘘だよ。こんなのって……
「さぁ、どうするのひかり?このまま立ち向かう?だけどひとつだけ、そんなことしたらきっと君は……」
――消されるよ。
その言葉が引き金となったように、
あたしはその場から逃げ出していた。
「ひかり!どこへ行くんだ!?」
背後から宏樹の言葉。だが、それに答えてる余裕なんて全然ない。
扉を開き、部屋を出る。途端に扉が吹き飛んだ。
「うそ……」
そこからゆっくりと黒い人が姿を現す。
「ひかり、こっち。早く!」
もう軽口なんて叩いている余裕はなかった。神無の言葉に従い、あたしは長谷川家を後にした。
街灯の少ない田舎の道を走る。
限りなく闇に近い道。静まり返った中で虫の声と自分の息遣いだけが聞こえてくる。昔から通り慣れた道だ。小さい頃はともかく、その闇が怖いなんて思うことはなかった。
だけど、今はその何もかもが怖い。風が吹き、木々がざわめくだけでそこに何かが居るような気がする。反転した世界。そこはもう未知の領域だ。
「ね、ねぇ神無、あれは何?」
「何って?そんなの君だってわかってるんじゃないの?君の言う幽霊ってやつだよ」
「ゆ、幽霊って、そんな……」
「僕は最初から聞いていたよね?本当に出たらどうするのかって?とりあわなかったのは君でしょ?」
「それは……」
そうだ。最初から神無は警告を発していた。それを無視したのはあたしだ。だけどこんなことになるなんて一体誰が思うっていうんだ?
「ねぇ神無、あたしどうすればいい?」
「……」
「神無、ねぇってば」
「……バット。置いてきちゃったね」
「バット?神無、今は冗談言ってる場合じゃ……」
「冗談じゃないよ。君がそう望むなら、あれは君と共にあったはずさ。ないってことは君がそれを望んでいないだけ。だからこんなことになる。目を開くといいよ。君を怖がらせているのは何か、それが何なのかがわかったとき、自ずと解決の道は見つかる。でも今は――」
――君には何もできない。と神無は言った。
謎めいた言葉、その言葉の意味を考える前に、何かに足を取られあたしは転んだ。
何かがあたしの足をつかんでいる。長く伸びた黒い手。その先にあるのは歪んだ色をした暗く虚ろな魂のカタチ……嗤いながらそれはゆっくり近づいてくる。
声が出ない。足も動かない。ただあたしは願った。
助けてほしいと、
刹那――
あたしに近づいてきたそいつは、何かに殴られたように吹き飛んだ。
「そう。本当に何もできないなら、助けを呼べばいい。それは何も悪いことじゃないよ」
謳うように神無が言葉を紡ぐ。その言葉に呼応するかのように、しなやかな影があたしの前に躍り出た。
背中まで伸びた長い髪に、淡い紫色に輝く不思議な瞳。
「全く、馬鹿げてる」
吐き捨てるようにその人は言った。
「どうしてあたしはこうなんだ!」
星が瞬く静かな夜。
夢と現が交差する世界の中で、
あたしはその人と出会った。
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