第16話 予感
葉月の紹介を経て、美来は味覚障害に精通している耳鼻咽喉科と、その病院内の心療内科にかかることになった。検査をするため何度も病院に通う必要があったので、中学校の学年末試験を終えてからの方がいいということになり、3月に入ってからの通院となった。
ろ過紙に味をつけて舌に置く味覚チェックと、舌に軽い電流を流し、金属の味がするまでを量って障害の度合いをするチェックなど、以前と同じ検査をしてから、心療内科の診察室をくぐった。穏やかで優し気な女性医師は、美来を気遣いながら家族の話を聞きだし、あることに注目をした。
「美来ちゃんは、ご両親と食事をしたときに、どんなお話しをしたの?」
「していません。いえ、両親は楽しく会話をしていました。特に弟のことに関しては褒めまくっていたと思います」
「美来ちゃんは、お話ししなかったの?ご両親は美来ちゃんのことを褒めなかった?」
「私は話せませんでした。何か言おうとすると話題を変えられたし、余計に弟を褒める話になったので、食事時間は黙って、なるべく早く済ませるようにして、自分の部屋に行きました」
「そう。じゃあ、サザエさんとか大家族が仲良く食事をしているシーンに憧れるかしら?」
「いえ、偽善というか、作り事の世界だなと思います」
苦々しい表情で吐き捨てるように答えた美来を見て、医師はじっと考えてから、祖母の沙和子に問診後の見解を述べた。
「美来ちゃんは、食事をすることに対して悪感情を持っています。それに加えて、味が分からないことへの恐怖や絶望、人に知られたくないという気持ちがプレッシャーとなって、味覚障害が起きている可能性があります」
沙和子は悲痛な面持ちで医師の言葉を聞いていた。
「では、どうすればいいのでしょう?美来はずっとこのまま味が分からないのでしょうか?」
「今は何とも言えませんが、一つだけ試して欲しいことがあります」
「それは、どんなことでしょう?」
沙和子も美来も、身を乗り出して医師の言葉を待った。以前なら、自分の状況に怯えて一杯一杯だった美来も、今はどんな方法でもいいから、味覚障害が治るのなら試してみたいという意欲に駆られている。医師はそんな二人の顔を見比べると、おもむろに話し始めた。
「今はおばあ様と二人で暮らされているようですが、他にご家族と変わりがないほど信頼のおける方々と、一緒にお食事を取るようにしてください。その際、楽しい話を心がけて味には触れないこと。美来ちゃんも、味を分かろうとしなくてもいいので、食事をする時間を楽しいと思えるようになれば、或いは味覚障害が改善されるかもしれません」
「それだけですか?薬も何も出ないのでしょうか?」
沙和子の質問に医師が頷き、美来がうつ病などではないことから薬は必要無いと説明する。精神安定剤を飲まなくてもいいと聞いて、美来は一気に気が楽になり、治療に必要な家族の代わりが、どこまでなのかを確認した。
「先生。あの、友達は家族の代わりになりませんか?Des Canaillesという料理を作る仲間たちがいるのですが、私にとって一番信頼がおける友人たちなんです。メンバーたちは私が味覚障害なのも知っています」
「噂は聞いていますよ。有名レストランの息子さんが率いるジュニアのクッキンググループですね。今回はあくまで家族として食事をして欲しいので、凝った料理を作ったり、味に対しての感想を言い合わなければ大丈夫ですよ」
「ありがとうございます。理久たちに相談してみます」
病院から帰った美来は、結果を待っていた理久に、医師から聞いた話をすると、理久はDes Canaillesのメンバーたちと相談をして、春休み中は沙和子の家で、できるだけ一緒に食事を取ることを約束してくれた。
春休みの第一日目、理久は朝7時半にやってきて沙和子に挨拶をすると、キッチンに立って5人分の食事を作りだした。
まだ眠っていた美来が、沙和子に起こされ、慌てて顔を洗ってから、キッチンに行くと、幸樹と渚紗もちょうど着いたところで、おはようと挨拶を交わしながら勝手口から中に入って来た。
美来がエプロンをはめて理久に近づき、手伝うことはないかと声をかけると、理久はあらかじめ下ごしらえをしてきたようで、見るなと言ってみんなをキッチンから締め出してしまった。
仕方がないので、美来はキッチンの隣にあるリビングで、渚紗と幸樹と一緒に一年のクラスの思い出を話して笑い合った。
いつもは沙和子と二人だけで、話すことも同じになりがちな時間が、友人たちとの弾んだ会話で刺激されたのか、美来はいつになくお腹が空いてきた。
キッチンからはソーセージを焼くいい匂いが漂ってくる。医師から言われた通り、理久は特別な料理を作らなかった。
朝はパンとサラダと少しのおかずと説明しながら、理久がダイニングのテーブルに並べた料理の前にみんなを座らせる。
美来はみんなに、パンにバターかジャムを塗るかと訊ねたが、誰一人として欲しいと言わないので、不思議に思いながら焼いただけのパンをかじった。
サラダには少し大きめのレタスがかぶせてある。変なサラダだなと美来が思っていると、その大きな一枚を捲った渚紗が、キャーッと叫び声をあげた。
「ソーセージがしゃくとり虫になってる。気持ち悪い。理久、最低!」
みんなが覗き込み、うわ~っ食欲失せると笑い合った。
「うるさいな。幸樹に取り換えてもらえばいいだろ。幸樹のは何だった?」
「僕のはソーセージのミイラだ。これは何を巻き付けてあるんだ?」
「餃子の皮を細切りにして巻いてあるんだ。面白いだろ?美来のは中を覗いてからそこに置いたから……」
「かわいい!私のはうさぎとぺんぎん。耳がピンクでかわいいわ。食べるのがもったいないかも」
「美来だけずるいじゃない。私のなんかしゃくとり虫よ。美来のと換えて!」
渚紗が向かいの席から手を伸ばすのを、美来がペチッと手を叩いて自分の皿を避難させて、べーっと舌を出した。すぐには引っ込めたものの、美来は自分の行動に驚いていた。
他人に味覚障害を知られないようにと気遣うあまりに、縮こまらせる癖がついてしまった舌を、食事中に出すなんて、今までなら考えられない行為だった。
美来が戸惑いながら一人一人の顔を窺ったが、誰も気にしないでお互いの皿を見て笑っている。沙和子のは輪切りにしたソーセージを爪楊枝でつないで頭としっぽを付けた魚で、理久のは斜めに切ったソーセージを胴体に見立て、餃子の皮で残りのソーセージを丸めて、それを背中に載せたカタツムリになっていて、どれを見ても楽しかった。
食事がすむと、四人はそれぞれが目指す進路に必要な勉強をする。幸樹と渚紗は既に進路を決めているので、美来はどういう方面に進むのかと幸樹に聞かれた。
「私は栄養管理士の資格を取りたい。もしこの先、味覚が元に戻らなくても、身体の悪い人のためにバランスの取れた食事を提案して役に立てそうだから」
それを聞いた渚紗が、驚いて尋ねた。
「え~っ⁉理久のレストランを手伝うんじゃないの?葉月さんが土地を買うとか何とか言ったんでしょ?」
「あれは、断ったよ。大人の口車に乗せられたって言って、誤魔化せるほど俺は子供じゃないし、ずるい言い訳をしたくない。あの時はどうかしていたんだ。簡単に夢が手に入りそうな駆け引きに飛びついて、美来を傷つけたんだ。もらうわけにはいかないよ」
理久の言葉に、幸樹がそうだなと賛成してから、思いついたように提案を持ちかけた。
「理久が店を持つ時には、僕に相談してくれ。そのころには僕も有名な建築家の仲間入りをしているつもりだから。友人割引で請け負うよ」
「ただで建ててくれないのか?」
「…ったく、理久は…。さっき葉月さんの件で反省したんじゃなかったのか?ほんといい性格してるよ!」
「冗談だって!俺はまだ腕を磨く必要があるから、本当はやらなくっちゃいけないことがある。でもな……」
理久がちらりと美来を見てから視線を落とし、言葉を濁したのが気になって、美来が探りを入れるために話しかけた。
「もしかして、私のことを気にしているの?味覚障害の原因は理久じゃないんだからね。実は、昨日葉月さんから電話をもらって、土地を受け取らないなら、私が女優になって稼げばいいってアドバイスを受けたの」
「それで?美来は何て返事したんだ?俺の夢のために、美来が嫌なことをすることないんだからな。断りにくかったら俺が断ってやるよ」
「うん、でも、私、やってみようと思う。出来ないことに怯えるんじゃなくて、出来ることに挑戦してみようって思えるようになったの。こんな私でも認めてくれて、助けてくれる人がいるんだから、今は甘えてみようって……。それで、大きく成長して恩返しがしたいっなって……」
理久も、幸樹も、渚紗も、誰にも頼ろうとしなかった美来が一歩踏み出したことを知って、心からの温かい笑顔を美来に向けた。
「もちろん、栄養管理士の資格も、大学に行って取るつもりだから、女優と並行できればいいなって思ってる。少しずつ出演料を貯めて、理久のレストランに投資するつもりだからね」
「おお!楽しみにしてる。俺が作くる料理の栄養バランスもアドバイスしてくれよな」
「うん。夢で終わらないように、実現できるように努力するから、理久も今は自分のやりたいことを頑張ってね」
理久が唇を引き結んだまま小さく頷くのを見て、美来は自分の話したことが、ただの夢物語に取られてしまったのではないかと思ったが、絶対に実現させてみせると心に誓った。
夢を語り終えた後は、みんなそれぞれの勉強に戻り、昼は理久が作ったオムライスに、デミグラスソースで隣に座る人の似顔絵を描いて笑いあった。
午後からは解散になるが、夕食まで四人で一緒に行動することもあれば、理久だけが夕方に戻って来て、沙和子と美来の食事を作って三人で食べることが殆どで、美来は、信頼のおける者たちと一緒に、笑い合いながら食べる食事の時間が、だんだんと待ち遠しくなっていった。
こんな日が永遠に続いたらいいのにと美来は思ったが、それに反して、楽しい時ほどどんどん早く過ぎていくように感じられた。
三月も残すところ二日となった日に、庭に咲いた草花を見ていた美来が、ふと沙和子の家に来た時のことを思い出して言った。
「ねぇ、よもぎを採りに行かない?二年前に四人が会ったあの堤防に行こうよ。理久、よもぎ餅を作って」
「おっ、いいね。美来から食べ物の初リクエストをもらったぞ!みんな自転車で行くか?」
理久の声に、渚紗も拍手をしながら応えた。
「賛成!懐かしいわ。あの時、理久と幸樹は魚釣りに行ったのよね」
「僕は理久に誘われてその気だったけれど、肝心の理久が美来と話すのに夢中になって、予定が変更になったんだよ」
「うるさいぞ、幸樹!お前のよもぎ餅にはワサビを入れてやる」
「うぇっ。やめてくれよ。今、刺激のあるもの食べたらヤバいって。家で夕食食べる時だって……」
幸樹がハッとして言葉を止めた。他の二人も慌てて支度をしだしたので、食べているときに味のことは言わないという医者の言葉を気にするあまりに、他の時にまで気を使わせているのかと、美来は少し気落ちしそうになる。
めざとくその気持ちを読み取った渚紗が、美来の耳元に口を寄せ、幸樹は舌にニキビができたんだと説明すると、理久が大声をあげた。
「うわっ。何で渚紗が幸樹の舌のこと知ってるんだ?ひょっとして、お前らもうしちゃったの?」
「理久!川に突き落とすぞ!舌にニキビができるかよ!ほら、みんな行こうぜ」
幸樹らしくない乱暴な言い方が、幸樹の慌てぶりを表しているようで、美来と渚紗も、ふと掠めそうになった危うい雰囲気を振り払おうとでもするように、お腹を抱えて大声で笑った。
四人は堤防の上の細い道を一列に並んで自転車を漕いでいった。
先頭を走る理久の後ろについた美来は、理久の背中を見つめ、出会ったころの少年らしい骨ばった身体が一回り成長していることに気が付いた。広くなった肩や、付き始めた筋肉の動きが、すでに大人の身体へと変化する準備を始めたことを知らせている。
時は止まってくれない。もうすぐ春休みも終わる。二学年に上がれば、四人がバラバラのクラスになる可能性もある。美来は堤防を覆う野生の花や、太陽の光に輝く水面を眺めながら、Des Canaillesの季節もこうして移り替わっていくんだと寂しく感じた。
堤防から川原に降りる側道を通り、四人はくさむらに自転車を止めて、さっそくよもぎを探し始めたが、理久だけが離れて何やらごそごそとやっている。美来が声をかけても、あっちへ行っていてくれと言うだけで、背を向けて堤防の斜面に座り、せっせと手を動かしているので、諦めて放っておくことにした。
三人がかりで集めたよもぎはすぐ大量になり、どれだけよもぎ餅が作れるんだろうと笑い合っていると、理久が背中に何かを隠して美来に近づいた。
「何?背中に何を隠しているの?」
美来が覗き込もうとして頭を下げた時、ふわっと頭の上に何かが載せられ、それを見た渚紗が歓声を上げた。
「わ~っ。クローバーの花冠だわ。美来きれい!」
「よもぎ餅にフェーヴは入れられないから、これは俺を引き当てた美来の幸運を祝っての冠だよ」
「理久がフェーヴなの?すごく強力なのを引いちゃったわね」
「そうだぞ。一年だけの幸運じゃない。ずっとずっと美来が幸せでありますようにと祈る気持ちと、美来が女優になれることを願いながら作った冠だ」
「理久。……ありがとう。うれし……い」
声を詰まらせた美来を見て、自分たちの願いも一緒にと、渚紗と幸樹が一本ずつ摘んだクローバーを花冠に加える。その様子を見つめる理久の顔には、既に男としての顔が垣間見え、守るべきものを手にした充足感が浮かんでいた。
沙和子の家に戻ったDes Canaillesのメンバーたちは、二手に分かれ、男性たちが沙和子の指導の下によもぎ餅を作り始め、美来と渚紗は庭の花に水をやったり、洗濯物を入れたりと家事に従事した。
どうして、炊事をするときに関わらせてくれないのだろうと美来は不思議に思ったが、渚紗が色々話しかけてくるので、すぐに疑問が霧散してしまい、結局、出来立てのお餅を前にして、テーブル席に座ることになった。
艶のある緑のよもぎ餅は、摘んだ時の香りを失わず、青々とした葉の香りが鼻孔を満たし、苦味のある皮に包まれた甘い餡を連想すると、見ているだけで口に唾液が溜まる。頂きますという掛け声と共に全員がいっせいに餅にかぶりついた。
ところが、いつもながら、みんなは口に入れたものを咀嚼するだけで感想を言わない。仲間で楽しみながら摘んだよもぎで作ったお餅なのだから、こんな時くらい感想を言っても構わないのにと、美来は優しすぎる心使いに胸がいっぱいになった。それと同時に、自分のせいでみんなは楽しめないという苦いものも感じる。
その苦みは現実味を増しているように感じられ、舌の上に広がっていく。変だと感じたのは苦みだけではない何か…渋い…ような味を感じたからだ。
周囲を見渡してみると、みんなも同じように、味を確かめるようにもそもそと口を動かしながら神妙に食べている。まさかと思って、美来は席を立ち、キッチンに飛び込んだ。
砂糖の入れ物を取り出し、蓋を開けるのももどかしく、直接指を入れて舐めてみる。ザラザラとした感覚はあるが味は何も感じない。やっぱり気のせいかと思っていると、砂糖が舌の上で溶け、唾液と混じって口の奥に届いた瞬間、覚えのある感覚が舌の奥から喉に広がった。
甘い!甘い!喉が甘さに浸される。はぁと息を吐いて、美来は嗚咽を逃した。
手にしたよもぎ餅をかじってみる。苦い!渋い!美来は堪え切れずに声をあげた。
「どうして、みんな砂糖を入れないお餅を食べるのよ!」
一瞬凍ったようにみんなが動きを止め、美来の言葉の意味を考える。まさかと美来を振り返って見た仲間たちに向かって、美来がもう一度叫んだ。
「こんな苦いお餅を食べて……せっかくみんなで摘んだよもぎなのに、私のために美味しいものを我慢しないでよ!」
最後は泣き声になった美来に、みんなの泣き声が重なった。頬を伝った涙が口に入り、苦くて渋い餅は辛くなった。
酷い味だったけれど、誰もが一番幸せな味だと思った。
美来の味覚は、昏睡状態の患者が意識を取り戻すように、少しずつ味蕾が目覚めて役割を取り戻していき、完全とは言えないがかなり味が分かるようになっていった。
理久は、ここぞとばかりに腕をふるって、美来が美味しいというのを嬉しそうに眺める日が続き、幸せな春休みはとうとう終わりを告げた。
予想していた通り、二年生になると四人は完全に別のクラスになったが、まだ登下校の時は待ち合わせて、一緒に行動するようにしている。今日も四人で一緒に帰りながら、他愛もない話をしているときに、突然、理久が思いがけないことを言った。
「俺さ、フランスに行くことにした。この六月から、父が若いころ世話になったフランス人シェフの人の家にステイさせてもらって、学校へ通いながら料理の勉強をするつもりだ」
あまりにもさらりと言われたので、美来は理久の知り合いか誰かの話だと思って、頷くところだった。
「嘘!ちょっと待って。理久が行くの?もう決まっちゃったの?いつまで?」
美来の矢継ぎ早の質問に、理久が困ったような笑みを浮かべて、黙っていてごめんと謝ったので、美来はそれが決定事項なのだと悟った。
「言うと決心がぐらつくから、相手から滞在してもいいと返事が来るまで言えなかったんだ。俺は将来シェフになることを決めているから、大学へは行かない。だから、なるべく早い年齢から教えてもらって、有名レストランのグランシェフを目指したいんだ」
理久の言葉に、幸樹が食ってかかった。
「じゃあ、それまで美来を放っておくのか?せっかく味覚が戻りつつあるのに、すぐには帰って来れないところに行くなんて、冷たくないか?」
「幸樹の言うことは分かる。もし、美来の味覚障害が良くならなかったら、俺も日本にいるつもりだった。でも、美来はこれから女優になるためのレッスンと、栄養管理士の資格を取る勉強で忙しくなるんだろ」
幸樹から、美来に移った理久の視線を受け、美来が何とか理久を引き留められないだろうかと考えを巡らせる。
「そうだけど、でも、理久が日本にいてくれたら心強いし、時間が空いた時に会えるわ」
「美来が、レストランの建築費を稼ぐために女優になると言ってくれた時、だったら自分には何ができるんだろうって考えた。でも、俺にはシェフになることしか考えつかなかった。だから、日本から引き抜きの話がくるぐらいに有名なシェフになって、スポンサー付きで凱旋してやろうって思ってる」
理久の硬い決心を前に、それ以上口を挟むことができなくなった美来は、黙り込んでしまい、それを見た幸樹と渚紗が二人で話し合った方がいいと言って、先に帰って行った。
理久は帰宅通路からそれて、その先の緑化地域にある大きな公園に美来を誘い、池をめぐる約3kmの遊歩道へと入って行く。片側が小高い山になっている遊歩道には、木々の枝が覆いかぶさるように伸びていて、まだ戸外を明るく照らしている陽の光を遮っているため、遊歩道は薄暗くて気温も低く、足を踏み入れると肌寒さを感じさせた。
何も言わずに歩く理久の背中に、美来は話しかけようとしたけれど、色々な考えが頭に浮かんで、何から言っていいのか分からなくなった。
夢を達成するにはどのくらいの年数がかかると聞くことは、理久に早く目的を達成して帰ってきて欲しいとプレッシャーを与えることになるだろう。
自分の夢だって、レッスン日を決めたばかりで、何一つ実現するとは決まっていないのだから、自分が訊かれて困ることを理久に訊ねられない。
せっかく味覚障害も改善して、これから理久のことにも関しても、明るい未来を見つめられると思っていただけに、理久がいなくなることを考えると、寂しさや不安で耐えられなくなりそうだった。
「理久、頑張ってねって言いたいけれど、やっぱり無理みたい。日本にいてよ。私がその分頑張るから、理久は日本でシェフになって欲しいの」
「そんなこと言うなよ。俺だって美来の傍を離れたくない。でもフレンチの本場で修業をして実績をあげるのと、日本だけで料理を学んだのとでは評価が違ってくるんだ。俺は美来に養ってもらうつもりはない。俺が美来を幸せにしたいから、今は離れるしかないんだ」
「でも、でも、理久に好きな人ができたら、私はまた要らない存在になっちゃうの?理久は本当は私がお荷物だから、フランスに行っちゃうんじゃないの?」
理久の手が伸びてきて、美来の腕を掴んで揺する。突然の荒々しい行為に驚いている美来に、理久が強い口調で叱った。
「誰が荷物なんて思うもんか!もっと自信を持てよ。美来は女優にスカウトされるくらいなんだぞ。これから有名俳優やタレントに囲まれるんだ。俺の方がどれだけ不安か分かるか?美来が大人になる前に、俺は実力をつけたいんだ。俺の方が焦ってるんだ。分かれよ!」
理久の真剣な言葉は身体だけでなく、美来の心までを大きく揺さぶった。理久が自分を大切に思ってくれていると分かって、突き動かされるような感動が湧いた時、理久に抱きしめられて、美来はあっと声をあげた。木々の影とは別の影が顔にかかり、思わず目を閉じる。ひんやりとした空気の中、美来は理久の柔らかな唇の熱を感じていた。
そして、二カ月はあっという間に過ぎ、Des Canaillesのメンバーは、理久の出発を見送りに空港へと集まった。理久の両親は仕事があるので、空港の入り口で別れ、今は四人だけだ。
「じゃあ、行ってくるよ」
理久が手荷物検査の列の最後に足を向ける。夏休み前なので長蛇の列を誘導するためのパーティションポールと誘導ベルトは出ていない。床に書かれたライン一本に阻まれたすぐ先の保安検査場には、細長い台の上に手荷物を入れるトレイが置いてあり、ボディースキャナーをくぐって出国ゲートに入っていく。
美来は思わず理久の腕を取って引き留めてしまった。
「冬休みには帰ってくる?」
「そうしたいけれど、フランス語を学ばなくちゃいけないから、戻れないかもしれない。せっかく中二の勉強を途中までやったのに、フランス語では授業についていけないから、小学校五年生にあたるCM2からやり直しだ。あっちは小学校は五年生までだから、来年は中学生になれるけれど、少しでも勉強して飛び級したいんだ」
一緒に見送りに来ていた渚紗が、笑いながら言った。
「精神年齢的に、理久にぴったりじゃない?本物の
「うるさいな。そんな減らず口ばかり叩いていると、幸樹に嫌われるぞ」
「幸樹には、そんなこと言う必要がないもん」
「はい、はい。悪かったね。二人とも好きにしてくれ」
幸樹が笑いながら理久の背中を叩き、頑張れよと激励する。理久がおう!と言いながら親指を立てて、やる気満々と伝えた。
「美来」
理久が最後に名前を呼んだ。他の二人が見ているのも構わず、美来は理久に抱き着いて腕にぎゅっと力を入れた。
「理久。行かないでよ」
虐待を受けていたからだろうか。美来は危険に関して、人よりも察知する力が優れている気がする。今も研ぎ澄まされた神経が、ビリビリと震えながら底知れない恐ろしさを感知していた。理久をこのまま行かせてはいけないと本能が告げている。
「理久。行っちゃだめ。行かないでよ」
「何だよ、美来。かわいすぎだろ。待ってろな。絶対有名になって帰ってくるから。浮気するんじゃないぞ」
頬に理久の唇が触れたかと思うと、肩に手を置かれて理久の身体と引き離される。待ってと縋ろうとしたが、充血した目を見られまいとして顔を背けた理久が、くるりと背中を向けて手荷物検査の列に並びに行った。
係員と言葉を交わした理久が、再び美来たちに向き直って大きく手を振ってから、ボディースキャナーの中へと入って行く。その後ろ姿は後方に並んだ人たちに隠れて見えなくなった。
未来は今でも夢に見る。大きく手を振って行ってきますと口を動かした理久を……。
理久はその年も、その次の年も帰国せず、美来たちが高校生になったとき、パリ市内のレストランで起きたテロに巻きまれ、テレビのテロップで流れた邦人死亡者リストに名前が載った。
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